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アルジャナン・ブラックウッド「S.O.S.」試訳

 3月14日は、英国の怪奇幻想作家アルジャナン・ブラックウッドの誕生日です。そんなわけで、短篇集『Tongues of Fire and Other Stories』より、掌篇の「S.O.S.」を訳してみました。ジュラ山脈を舞台にした、不思議な物語です(セント・バーナードがかわいい)。
(Cover Photo by Giles Laurent, CC BY-SA 4.0 https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0, via Wikimedia Commons, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Creux_du_Van_under_the_winter_snow_during_golden_hour_of_sunset_Photo_by_Giles_Laurent.jpg

SOS
アルジャナン・ブラックウッド
渦巻栗 訳

 いまでも疑問に思うのだが、いったいどれほどの目撃者がいれば、あれほど変わった事件が現実に起きたと立証できるのだろうか。しかも、そうした目撃者のひとりが犬だとしたら、どうなるのだろうか。
 わたしたち三人、男ふたりと少女ひとりは、正午から、雪に覆われたジュラ山脈の斜面をスキーで滑っていた。四時ごろになって、空き家のシャレーに着いた。ここで四人目が合流することになっていた。この四人目の到着に、少女のこれからの幸せがすべてかかっていた。彼は、向こう側の、遥か彼方にある村から来る予定だった。クリスマスの集いは、綿密に準備されていた。
 わたしたちは食料をいろいろと持ちこんでいたが、これはなにもない建物で温かい夕食をつくるためだった。この小屋はぽつんと建つ農屋で、夏にしか使われない。計画では、月の光を浴びながら、みんないっしょにスキーでもどることになっていた。
「寒くなる前に、もっとセーターを着なさい」年長の男が言った。角をまわってやってきたところで、薪を腕いっぱいに抱えている。凍りついたまきの山から取ってきたのだ。「私は火を起こしてくる。さあ、ドット」――姪のほうを向いて――「スキー板を片づけて、食べ物を出してくれ。彼はきっと、熊並みに腹を空かせているぞ」
 わたしたち三人は、さくさくした雪の上で忙しく立ち働いた。年長の男が、大口を開けた暖炉で薪を燃えあがらせるまで、十分もかからなかった。大部屋のなかが明るくなり、頭上の垂木で影が躍った。陽気な黄金色の光が幾筋もひらめき、アーチ形天井の納屋をすみずみまで照らした。この納屋は、裏手で牛舎に通じていた。外では、見ている間にも、夕闇が時々刻々と深まっていった。
 寒さは身を切るようだった。だが、わたしたちのからだはほてっていて、湯気を立てていた。大きなセント・バーナードが走ってきて、においを嗅いだり、跳ねまわったりしながら、順番にわたしたちのあとをつけた。ときどき、外にある雪のこぶを駆けあがった。彼はそこに立つと、頭をそらして鼻先を上に向け、日没をじっと見つめた。だれかが訪ねてくる予定で、どの方角から来るのかもちゃんとわかっていた。暖炉の光が、戸口や、雪でふさがった窓のすき間から流れ出して、最後の陽光に溶けこんでいくさまは、なんとも奇異だった。夜と昼がシャレーの戸口で顔を合わせており、その上には、雪の積もった巨大な屋根の暗がりが広がっている。というのも、太陽は、ちょうどスーシェの峰の縁に沈んだところだったのだ。赤と黄金色の鮮やかな光の幕を広げ、大きな白い平原を燃えたたせている。ぽつりと佇む木々は、ぼんやりとした影を伸ばしていて、その長さはあっという間に半キロメートルにも達した。影はたちまち広がった。面妖なかたちを取っていて、動物にも人間にも見える。そして、目を欺くように、すべてを浸す不思議な輝きに溶けこんでいった。黄昏時の雪原には、こうした光が現れるのだ。森は紫色に染まった。松の梢は空に食いこんでいて、鋼と銀でできているかのようだ。なにもかもが輝き、張りつめ、きらめいている。あたりはいっそう冷えこんできた。
「ドロシー、どこに行くんだ?」年長の男の声が戸口から響いた。少女はまたスキーを履いていたのだ。そのほっそりとした若々しい姿は、先のとがった白い雪帽子をかぶっているせいもあって、妖精のようだった。
「ちょっとひと滑りするだけよ――あのひとに会ってくるわ」というのが彼女の答えだった。彼女は雪の上に浮かんでいるようで、雪面には触れていないかに見えた。
 有無を言わせぬ口調で、彼は姪を呼び入れた。いさめるような調子だったので、彼女は言うことを聞いたのだろう。
「休んだほうがいい」彼は手短に言った。「月明りのもとで長い道のりをもどらなきゃならないんだからね」彼女はスキー板を「しゅっしゅっ」といわせながら、きらめく斜面を滑って、彼のそばにもどった。巧みで優美だった。彼女の影が、黒い稲妻のように前へ飛び出した。とてつもなく引き伸ばされている。「それに、あっちにはクリュ・デュ・ヴァンの断崖がある」彼は話をつづけた。「あの崖は前触れもなく現れるんだ――まさに絶壁だよ。しかも、縁はまったく見えない」
「それくらい知ってる」彼女は言った。少しふくれっ面になっている。
「彼だって知っているさ」おじは答えた。片手を彼女の肩においた。「もっと高い斜面を通るんじゃないかな。うまく避けるはずだよ」彼が目にとめていたのは、彼女のもの柔らかな茶色の目の表情だった。そこに出ていたのは――ほんの一瞬ひらめいただけだが――ひたむきな想いで、ほとんど懸念といってもよかった。「ハリーはこのあたりの峰を知っているし、私より詳しいくらいだよ」
 彼は姪を手伝ってスキー板を片づけると、ふりかえって口笛を吹き、犬を呼び入れようとした。犬は斜面のてっぺんにとどまっていた。彼女がちょうどあとにした場所だった。いまにして思えば、この瞬間、わたしははじめて、ちょっとしたひと幕の裏にただならぬ深い意味が隠れていると意識したのだ。こうした瞬間は、説明したり、分析したりできない。できるのは、述べることだけだ。聞いたところによると、これらは、ある種の幻視と関係があるらしい。わたしにはっきり言えるのは、そのひらめきがこんな風に訪れたということだけだ。つまり、わたしはあの大きな犬を目にした。彼の輪郭は、空に浮かびあがる山々を背に、シルエットとなってくっきり見えていた。頭は西を向いている。口笛にすぐ従わなかったのは、あの日がはじめてだった。口笛は、彼にとって、必ず従わねばならない呼び出しなのだ。主人はなにも気がつかず、もうなかに入っていた。だが、少女は、わたしが目にしたものを目にしていた。わたしと同様のひらめきをとらえ、動物のささいな反抗に、自分の心をざわつかせているなにかの証を認めた。いまとなっては証明できないが――彼女はこの話をしたことがないのだ――ただ、彼女がそこに立ち尽くし、顔と、目を覆いかけているぼさぼさの髪に夕日を浴びた瞬間、わたしはすばやい一瞥に出くわした。その視線は上に向かって、セント・バーナードをとらえ、さらに、彼の背後に広がる、巨大な雪の斜面に移り、最後はわたしに落ち着いた。たぶん愛のおかげで、伝言が一瞬で伝わり、理解できたのだろう――その愛は、口に出されることなくわたしの心に潜んでいた。彼女の心でも同様だった。とっくにあきらめがついていたので、自覚していないだけだった。それから起きたことを考えると、わたしにはなんとも言えない。わたしの視野は、彼女よりもはっきりしていて、落ち着いていた。そこでふと思ったのだが、わたしの不思議な知覚は、まるでいけにえを捧げたかのように研ぎ澄まされて、むごくも甘やかな境地に達していた。どうやら、傷を負った魂に備わる、低級の直感めいたものになりかけているらしい。次の瞬間、大柄な犬は、弾む足取りで駆けおりてきた。わたしたちはいっしょにシャレーに入った。忙しく働いて、火や長椅子やテーブルや夕食を準備した。アルミニウム製の携帯式小型やかんは、すでに炉床で湯気をあげていた。
 わたしたちと――少なくともわたし自身と――ともに、炉火が照らす心地よい部屋に、新しい気配が入りこんできた。わたしが感じたのは、こうした広漠たる雪山の、身も凍る寂寥だった。彼らは、途方もない威容を誇り、そこには道もない。沈黙して、来たるべき星々のもと、人間の世界と距離を置いている。冬は、極地の冬のように、山々をしっかりとつかんでいる。昼のまばゆい陽光に照らされていると、彼らは親しげで、さし招いており、思いやりがある。いまは、氷のような夕闇が、彼らのむき出しの白い面を這いあがり、凍てつく風が長いため息をついて、眼下の森を探りまわり、もの静かな〈霜の恐怖〉が崖から峰へうろついていて、その頭は星々に囲まれており、山々は恐ろしい姿に変じている。夜が訪れると、彼らは真の力に目覚めた。歯をむき出した。わたしたちの矮小さが、奇妙なほど際立った。ここで脳裏をよぎったのは、クリュ・デュ・ヴァンの断崖だった。弧を描き、クレーターのように、暗く雄大な半円をなしている。その恐ろしい縁には雪の吹きだまりができている。そこでは、六百フィートの暗い深淵が口を開けているのだ。わたしは身震いした。
「寒いんでしょ」ドットが優しく言って、わたしを暖炉のほうへ引っ張っていった。彼女はそこで、湯気をあげるブーツを暖めた。「わたしも寒いの」わたしたちは薪をどんどんくべた。炎が燃えあがって、ぱちぱちと音を立てた。影が垂木から垂木へ飛びまわった。
「そろそろハリーが来るころあいだな」彼女のおじが言った。「口笛が聞こえたら、すぐに卵を湯に落とそう」かがんでセント・バーナードをなでた。犬は寝そべっており、頭を伸ばして前足にのせ、暖炉の前に陣取っていた。目を見張り、耳を澄ましている。「お前が真っ先に聞きつけそうだ」彼は陽気に笑い声をあげて、大げさになでた。「私たちよりずっと前にな」
 犬は低くうなった。ほかにはなんの反応もしなかったが、なでられると、いつもなら主人の胸に飛びこむはずだった。風が木造の壁のまわりで泣き叫ぶのが聞こえた。引き延ばされた、かすかな甲高い音を立てながら、屋根を吹きわたっている。わたしたちは暖炉に近寄った。長い間、だれもしゃべらなかった。時間が刻々と過ぎていった。
 そのとき、だしぬけに、雪を踏む足音を耳にした。だが、それよりも先に、犬は足音を聞きつけていた。弾かれたように立ちあがって、うなりをあげた。その声は、これまでに聞いたどんな動物の声よりも、人間にそっくりだった。彼は扉のほうへ飛び出した。ドットとわたしも立ちあがった。
「どうしんたんだ?」おじが声をあげた。ぎょっとしていて、意外そうな様子だ。「ただの風だよ。それか、雪が屋根から落ちたんだろう」
 背後では、木造の壁がぴしぴしという鋭い音を立てていた。空気が温まって、膨張しているのだ。だが、わたしの心のうちでは、なにかが凍りついて、冬の寒さをもしのぐ寒気を感じた。とはいえ、最初に恐怖を覚えたのは、自分の身を案じたからではない。もの柔らかな茶色の目をした乙女が、あっという間にわたしをすり抜け、重い扉を開けたからだ。わたしは、そこで彼女を引きとめるつもりだった。彼女を守り、盾になるつもりだったが、うちに宿る不思議な権威から、彼女はすでに大丈夫だと知らされていた。彼女をとらえている力は、わたしがちっぽけな苦労を重ねても到底及ばないものなのだ。
 あの広大な、炉火に照らされた部屋へただちに入ってきた者は、農民の姿をしていた。大柄な荒くれ者で、のしのしと歩いてきた。顔は奇妙なことに隠れている。たぶん影が揺らめいたためか、髪とあごひげが垂れていたせいだろう――いまにいたるまで、どちらかわからないが――彼は巨体で戸口をふさいでいた。凍てつく風が、覆いをつけたたくましい脚を吹き抜けた。乾いた雪が渦を巻き、彼を包みこんだ。不可思議な、たなびくマントのようだった。彼はしばし佇んでいた。力みなぎる雰囲気を漂わせていて、あらゆるものをちっぽけに見せた。それほど堂々とした体躯だったので、わたしの頭は、突然ひとが入ってきてとまどい、ぼうっとしていたためか、索漠とそびえる山の頂を思い浮かべた。シャレーが粉々になりそうだと思った。大きな梁が裂け、わたしたちの頭にふりそそぎそうだ。凍てつく風が吹きすさび、氷の気配がした。同時に意識したのは、不思議な、耐えがたいほどの美だった。野生のもののようで、わたしは目を覆った。ずっとあとになってようやく思い至ったが、彼の足に雪はついておらず、目は隠れたままで、ひと言もしゃべらなかった。
「扉が風で開いただけだ!」おじが叫んだ。「どうか頼むから――」
 しかも、これはすべて、十分の一秒の間に起きた。そこでたちまち目に飛びこんできたのは、セント・バーナードがこの人影のまわりで跳びはねる姿だった。心からよろこんでいて、不安など微塵もなかった。次の瞬間、男は両腕を少女に差し伸べた。その仕草は、優しく、さし招くようであり、この世界では女性の腕にしかできないものだった。恐ろしげでありながら、信じられぬほど心を引きつける仕草で、まるで子どものようだった。同時に、わたしが驚いたことには、彼女が前に飛び出して、行ってしまった。彼女といっしょに、ほえたり跳ねたりしながら、セント・バーナード犬も出ていった。
「ドットや、聞きわけってもんがないのかね。どこに行くつもりなんだ。扉を閉めなさい! ハリーはまだだよ。聞き違いさ」淡々としたおじの声を聞いて、わたしは秘密を悟った――彼女とわたし、そして犬だけが、なにかを目撃したのだ。
「わたしも行って、大丈夫か見てくるよ」わたしはふりかえって叫んだ。そのとき、叫んでからまた戸口のほうを向いてはじめてわかったのだが、そこにはだれも立っていなかった。彼女は飛び出したというより、弾むように走って、スキー板がある場所に向かっていた。わたしがその姿をとらえたときには、もう足に板をつけていた。彼女は行ってしまった。わたしが見ている前で、犬は彼女に寄り添ってはねるように走り、凍りついた斜面をくだっていった。彼は少し前に出ていた。スカートをくわえて、導いていた。空にのぼる月が、淡く、冬らしい光を投げかけていたので、ふたりの姿が雪を背に浮かびあがるのが見えた。ほかにはだれもいなかった。
「ブランデーと毛布を持ってきてくれ」まだ分別が残っていたので、部屋をふりかえって言い置いた。今度はわたしが彼女を追う番だ。だが、スキーの凍りついた留め具には、かつてないほど手こずらされた。まるまる一分も費やしたのち、わたしは一マイルもつづく斜面を疾走していた。途方もない速さだった。スキー板は凍った雪面を滑っていった。彼女が通ったあとには、ほんのかすかなしるししか残っていない。犬のほえ声がなによりの道しるべだった。眼下のはるか彼方では、黄色の月光に照らされて、小さな黒い点が疾駆しており、彼女がどこを滑っているかが見て取れた。まっすぐクリュ・デュ・ヴァンを目指していた。
 こんなときでなかったら、わたしたちふたりがやったような滑りは、狂気の沙汰だっただろう。日が出ていてもやるべきではない。目まぐるしいスピード、巨大な斜面の角度、凍ってきらめく雪面の冷気、すべてが大惨事につながりかねなかった。しかも、クリュ・デュ・ヴァンの裂け目が、底で口を開けて待ちかまえているのだから、この輝かしい競争の先にあるのは自殺でしかなかった。目から涙があふれ出した。凍りついた雪のこぶが、大きな白波のようにそばをかすめていった。黒い線のような、ぽつんと立つ松の木が目に入ったかと思うと、もう通りすぎていた。まるで、特急列車から見た電信柱だった。空にのぼる、大きな月の黄色い顔だけが、じっとしていた。
 彼女はすぐに犬を追い抜いた。わたしもものすごい速さで通りすぎた。彼は懸命に駆けていた。舌を出して、白い息を吐いている。口を開けて、わたしの巻きゲートルをくわえようとしたが、かなわなかった。次の瞬間、彼は百ヤード後方だった。
 だが、ドットは、山々がその小さな足にこめた力に導かれていたので、方角はちゃんとわかっていた。あの恐ろしい深淵のへりへまっすぐ向かっていた。それから、いきなり止まった。雪だまりに首まで埋もれた。裂け目の縁のところで、雪がたまって波のようになっていたのだ。そのおかげで、彼女は止まれた。十分前にも、もうひとりがそうして止まっていた。こちらは、西のほうにある斜面をくだってきた者だった。足元で谷間の穴が口を開けているのが見えた。わたしはうまく「テレマーク」の姿勢を取ったが、うしろ向きで彼女のそばに放り出された。ぎりぎり間に合った。
「急いで!」彼女が叫ぶのが聞こえた。「まだ滑っているわ!」そこで気がついたが、三人目のからだが意識を失って横たわっていた。やはり雪だまりに止められたのだ。雪の重みのせいで、じわじわと縁へ向かっている。片方のスキー板は、ぞっとしたことに、もう絶壁の向こうに飛び出している。彼女がしゃべっている間も、雪の塊がはがれて、落ちていくのが聞こえた。
 一秒もしないうちに、わたしはベルトを外して、彼の脚に結びつけた。だが、そのときでさえ、もうだめだと思った。ゆっくり引っ張っても、三人そろって真下の深淵に落ちてしまう。そうならずに済んだのは、セント・バーナードがやってきて、事態が新しい様相を呈したからだ。あれほど気高い行為は見たことがない。一瞬だけ、彼はその場にたたずんでいた。あの高貴な種族が誇る、とびきり優れた本能で問題を見きわめていた。彼も気がついていた通り、雪だまりは柔らかいので、前に進めば埋もれてしまう。それに、雪が滑っているのも目にしていた。おもむろに、勇敢な人間のように、とはいっても四つ足だが、動物ならではのすばらしい勘を働かせ、距離と角度と力のつり合いを計算し、這うようにしてもう一方の側へまわった。縁を慎重に進んだ。彼の歯がブーツとスキーのひもをつかんだ。わたしたちは力を合わせて引っ張った。なんということだろうか! わたしはいまになっても理解できていないが、四人とも滑り落ちずに済んだのだ! もっとも、彼はわかっていた。あの口も利かぬ立派な動物はわかっていたのだ。わたしたちは、彼の崇高な導きに従っただけだった。
 一瞬後、わたしたちは無事に、硬く固まった雪の上にいた。疲れきってあおむけになっていると、足元にあった雪がしゅうっと音を立てて、たちまち滑り落ち、百フィート下の谷間に消えた。だが、セント・バーナードは、いまもひとりだけで、慎重に、優しく引っ張っていた。それから、少年の白い顔をせわしなくなめ、温かい息を吐きかけていると、救援がブランデーと毛布を持って到着した。わたしが思うに、あの偉大な犬が疲れも見せず、絶え間なく世話を焼いていたからこそ、命が助かったのだろう。なにしろ、彼はからだの上に全身を乗せて、少年をずっと暖めていたのだ。ようやく離れたのは、毛布とわたしたちの腕が少年をシャレーへ連れていくので、己を滅するほどの愛が交代しても大丈夫だと納得したときだった。
「扉の外で叫び声が聞こえたの。風に乗って聞こえてきたのよ」彼女はのちにそう話してくれた。「あのひとの声だった。それに、わたしの名前を呼んでいた。なにに導かれてあの場所に行ったのかは、いまでもわからないわ。だって、思い返してみると、彼のそばに落ちるまで、道中はずっと目をつぶっていたのよ」


底本には『Tongues of Fire and Other Stories』(E. P. Dutton & Co., 1925)を使用しました。

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