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自己紹介がわりに卒論  (「倫理的な熱」ーー『バイバイ、エンジェル』論)

 初回は、ふつう自己紹介を書くらしいですが、めんどくさい上に、どうせ書き始めたら収拾がつかなくなるので、まずは、いま載せたいものを載せます。
 昨年から騒音トラブルに遭って、まともに生活を送ることが不可能になり、約1ヶ月北海道などに避難。高校時代の教員や、友人の家に居候になりながら、なんとか書きあげて提出した卒論。様々な事情が加味され、これを書き上げるまでは死ねない、と言う心境であったので軽く命懸け。とりあえず、口頭試問は通ったものの、しかし、やはり後悔は残る。
 もっとできた。でもよくやった自分、という思いを行ったり来たりする日々。
 内容は、笠井潔氏の本格ミステリー小説『バイバイ、エンジェル』について。考えた末に、提出時からタイトルを変えた以外は、誤字脱字の修正にとどめたけれど、このnote用にWindowsからMacに切り替えて作業したら、なんか体裁がおかしい。
 とりあえず、大学を卒業できそうなところまで来ただけで、もう奇跡のような人生。これまでお世話になった全ての方々に感謝します。


倫理的な熱」――『バイバイ、エンジェル』論

序論

  天人の群れ み使よ、天の族よ。

  罪びとを赦し、

  塵にいのちをあらしむべく

  ゆるやかに

  天翔り来よ。

  徐に列をなし

  漂い浮かびつつ、

  なべてのものに、

  やさしき痕をとどめよ。(注1)

 諸説あるが、一般的に日本のミステリー小説の始まりは、明治期の黒岩涙香『無残』(1889年)であるとされる。そして、大正期の『新青年』の創刊(1920年)、さらに「二銭銅貨」(1923年)による江戸川乱歩の登場により「探偵」や「トリック」などの要素を重視する「本格」のミステリー小説が現れ始める。これらは当時「探偵小説」と呼ばれ、戦中の抑圧を経て、戦後の横溝正史による〈金田一耕助シリーズ〉へとつながった。しかし、60年代以降は、それまでの「本格」に対して松本清張、水上勉などによる社会問題を扱い、リアリティを重視した「社会派」ミステリーが主流になる。   
 それでも1975年、「本格」派の作家を多く輩出した雑誌『幻影城』が創刊し、さらに1976年、横溝の〈金田一シリーズ〉のひとつ『犬神家の一族』が映画化されて以降、大々的なメディア・ミックスでこの〈金田一シリーズ〉が爆発的な人気を見せるが、ミステリー界では依然「社会派」が主流であった。
 だが、そんな70年代末、突如として現れたのが、笠井潔による「本格」ミステリーの金字塔『バイバイ、エンジェル』である。
 この作品は1979年5月号の『野生時代』に一挙掲載され、角川小説大賞を受賞した笠井のデビュー作であり、現在も続く〈矢吹駆シリーズ〉の幕開けでもある。これは綾辻行人の1987年のデビュー作『十角館殺人事件』による「新本格」ブームの招来より10年近く早く、その「新本格」を準備した島田荘司の1981年のデビュー作『占星術殺人事件』に先んじている。
 舞台は1970年代末のパリ、大学生のナディア・モガールが、友人のアントワーヌから叔母のラルース姉妹あてに送られてきた脅迫状を見せられたことを発端に、首切り殺人、爆殺事件など、「赤」という要素に彩られた事件が連続する。ナディアと謎の日本人青年「矢吹駆」はこの一連事件の真相を追っていくことになる。 

 その評価の主だったものには、まず、田中博の以下のものがある。

 真犯人との対決場面では、「観念による殺人」という問題を巡る倫理と論理について議論が闘わされる。それは対独レジスタンス運動、一九六八年以後の革命的ラディカリズムを背景に置き、『テロルの現象学』(昭59)で展開された思想論に通じる。以後、(中略)現代思想家をモデルにした人物が登場して矢吹と対決するが、単なるうんちく小説ではなく、探偵小説の完成度とその議論が密接な緊張関係を保持している。(注2)

 また、探偵である矢吹駆の推理法「本質直観」に迫った小森健太朗『探偵小説の論理学』(2007年)などもある、しかし、『バイバイ、エンジェル』という作品を詳細に論じたものは、飯城勇三(いいきゆうさん)『数学者と哲学者の密室』(2020年)の出版まで比較的少なかった。
 これには、笠井自身が『バイバイ、エンジェル』に限らず、自身の作品について、そのテーマや執筆動機について言及する機会が多いためもあるだろう。しかし、本論ではその言及も含め、『バイバイ、エンジェル』の本文を詳細に考察することで、これまでの「革命の観念」への批判、本格ミステリー小説としての完成度という評価を再提示し、さらに、その先に革命の時代を生きた同世代、時代への「哀歌」という視線が見えてくると考える。そして、そのような視線は、笠井の特質である「倫理」からきており、それがこの作品に「希望」へと到達できる普遍性を与えていること、またその「希望」を語るためにこそ「本格ミステリー」というジャンル形式や、視点人物としての「ナディア」が論理的に選ばれていることが見えてくるはずである。
 そして、以降の活動でも一貫して笠井を特徴づける、この「倫理」という概念こそ、彼が現在まで重要な作家であり続ける理由であり、かつ「本格ミステリー」というジャンルが発展した理由、そして本質であることがわかってくるだろう。さらに「倫理」が現代のポスト・トゥルースと呼ばれる「真実」を軽視する時代を生き抜くヒントであることを、現代ミステリーが試みる手法と、その議論から確認していきたい。

  1. 倫理、執筆動機と時代状況

 この章では笠井の経歴と『バイバイ、エンジェル』の執筆動機、その背景にある時代状況を確認する。

 笠井潔は1948年、東京都生まれ。大学在学中に政治活動を行っていたが、1972年の連合赤軍集団リンチ事件に衝撃を受け、政治活動から離れて文筆活動に専念していく。74年から76年までパリで暮らし、『バイバイ・エンジェル』で79年に小説家デビュー、評論家としての著作も多い(注3)
 『バイバイ、エンジェル』の草稿は、笠井がパリ滞在時、サン・ミシェル広場に面した書店ジベール・ジュンヌで購入した、焦茶色の表紙に旗を持ったライオンが描かれた大判のノートに、76年1月から書かれはじめ、その年の3月頃には一応の完成を見ていた。(注4)
 笠井はこの作品の執筆動機を以下のように記している。

 最初の小説作品である『バイバイ、エンジェル』は、連合赤軍事件という経験の意味を真に読み解くために企てられた、自分としてはぎりぎりの思考の産物であったし、そして現在にいたるまでも、私の小説世界があの経験の意味を問うという地平から離陸しうることはついになかった。当時も今も、私は連合赤軍事件に対して有責であるという思いを拭うことができない。だから連合赤軍事件とそれに続く私の党派の崩壊をきっかけに、それまで使っていたペンネームを捨てなければならないと思った。その名においてなされた自身の思考と行動のいっさいが、連合赤軍事件にまで極限化された「革命という観念」の〈悪〉の、その共犯行為に他ならないと思えたのだ。同時に、その名に象徴される自身の思考と行動のいっさいを超えることが、免れようもない思考課題となって提起された。(注5)

 さらに小阪修平は、(笠井潔は)「モラール(倫理)の人」であり「出発点のモラールを取り出せば、それは永田洋子や森恒夫を他人事として片づける感性を許せない」部分にあるとする。(注6)(丸括弧内筆者)

当時の日本は「政治の季節」であり、笠井は1968年3月から73年まで「新左翼」党派の一つ共産主義労働者党に所属し、その学生組織プロレタリア学生同盟において指導者としても活動していた(注7)。しかし、同じく「新左翼」の過激派テロ組織である「連合赤軍」が、「総括」と称し同志12人を殺害した山岳ベース事件、また、あさま山荘で起こした立てこもり事件などに衝撃を受け、政治活動から離れている。これらの事件は社会的にも大きな影響を与え、「革命の時代」の終焉として学生運動、政治運動が衰退していった大きな要因になった。
 さらに笠井はこう語っている。

あれだけ「総括」という言葉が好きな人たちなのに、「なぜ負けたのか」、「自分たちに問題があるとすれば何なのか」ということを全身全霊かけて考えぬこうとする人間が、一人も周りにいなかった(注8)

 このような当時の状況において一人、自罰的ともいえる「有責」の意識を持ち続け、その「倫理」によって書かれたということが「本格」でありながも、極めて「社会派」的なテーマを描いているという、この『バイバイ、エンジェル』の特殊性を生みだすことにもなった。
 さらに、この作品は「政治の季節」の時代的帰結としての「連合赤軍」という出来事を、時代が、社会が「忘れ去ろう」としている「置き去り」にしようとしていることへの倫理的反抗としても世に放たれたのだ。

第2章 『バイバイ、エンジェル』考察 

  1. エピグラフ:「悪魔を憐れむ歌」

 この章からは『バイバイ、エンジェル』本文を詳細に追いながら、作品に込められた要素を丹念に考察していく。
 まず、この作品の題辞(エピグラフ)に引用されている、とある楽曲の歌詞を確認したい。

警察どもが犯罪的で

罪人たちが聖者

頭がほんとは尻尾

そう おいらは

大魔王ルシファーよ

破るべき禁忌が欲しいんだ

         ミック・ジャガー作詞「悪魔を憐れむ歌」より(注9)

 これはイギリスのロックバンドThe Rolling Stonesが1968年に発表した、最高傑作とされるオリジナルアルバム『Beggars Banquet』の冒頭に収録されている「悪魔を憐れむ歌」(宮原安春訳)である。
 では、『バイバイ、エンジェル』が発表された79年当時、この楽曲をエピグラフとして提示する行為には、一体どのような意味があったのか?
 まず1つ目に、この楽曲を媒介に、時代のコンテクストを引用することで明確化される『バイバイ、エンジェル』という作品のテーマの共時性、通時性である。 
 この楽曲には、とある事件(コンテクスト)の影が付きまとう。
 それは「オルタモントの悲劇」である。
 1969年、アメリカ、カリフォルニア州の同地でのフリー・コンサートで黒人青年メレディス・ハンターが、警備を行っていた暴走族ヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使)によって刺殺されたという事件であり、その瞬間に演奏されていたのが「悪魔を憐れむ歌」であったと誤報されたため、以降この楽曲には同事件のイメージが「憑りつく」ことになった。(実際に演奏されていたのは「Under My Thumb」であった)。(注10)
 そしてこの事件は「コンサートで起きた殺人事件」という意味を越えて、1967~8年に世界で頂点を迎えていた革命の時代が、無残にも挫折し終焉を迎えたという悲劇の象徴として語られるようになっていく。
 つまり、ここには「連合赤軍事件」という日本の「革命の時代」の終焉の象徴に、「オルタモントの悲劇」という世界的な「革命の時代」の終焉が重ね合わされ、カルチャーや国をまたいだ共時性が提示されていることになる。
 加えて、曲の成立背景、歌詞の内容そのものに注目すると、さらに興味深いものが見えてくる。
 この曲の歌詞は、キリストの受難、ロシア革命、ナチスの電撃戦、ケネディ一家の悲劇など、人類の歴史の変革の現場に、常に「悪魔」が存在し、その「悪魔」が我々に自己紹介という名の「挑発」を行い、「人間」と「悪魔」の共犯関係を暴露するというような内容になっている。
 そして、この歌詞は「ソ連」のスターリン時代下に書かれた、ミハエル・ブルガーコフの奇想小説『巨匠とマルガリータ』からの影響がある。この小説でも「悪魔」が登場し、キリスト審判の時代を語り、幻覚でモスクワ中を混乱させる。(注11)
 さらに『巨匠とマルガリータ』のエピグラフには、ゲーテの戯曲『ファウスト』の一節が引用される。この物語の中でも、ファウスト博士がメフィストーフェレスという「悪魔」と契約を結ぶこととなる。
 この、人類の歴史の中において共通して現れる「悪魔」という存在を媒介に「革命の暴力性」さらに「人類の歴史の暴力性」という通時性が重ねられている。
 そして、2つ目に本格ミステリーというジャンルへの変則的な準拠がある。後に詳細に論ずることになるが、本格ミステリーには、古典において守らなければならないとされる戒律が存在し、そのなかの一つに「犯人は相当重要な最初からの登場人物の一人でなければならない」(注12)というものがある。『バイバイ、エンジェル』では「革命の観念」に憑りつかれ、天使から堕ちた「悪魔」(また憑りつく「悪魔」そのものとしての「革命の観念」)を犯人として追っていく。つまりこのエピグラフの「悪魔」(犯人)への言及はそのルールを変則的にではあるが準拠していることになる。
 そして、ロックファンや、ミステリー読者にとっては、エピグラフに引用されていない歌詞の「終盤」部分「tell me baby what’s my name」(ベイビー俺の名前を言えるかい)のリフレインが「挑発的」なダブルミーニングの機能を果たす。(注13)
 これは、ミステリー黄金期の筆頭、エラリー・クイーンが誕生させた、解決編の直前(終盤)に挿入される「犯人を当てて見ろ」という「挑発」、「読者への挑戦状」の変則的な準拠でもある。
 現代の日本を代表する作家、森博嗣が「一つ一つのパーツが精度が高く」「どこにも緩みがない」「とにかく完璧な作品」(注14)と評するのも理解できる、その片鱗が、エピグラフ一つに触れるだけでも、見えてくるはずである。
 そして、後述する本文終章での「悪魔を憐れむ歌」への言及によってこのエピグラフは完璧な「枠組み」としても完成されることになる。

第2節 始まり、舞台設定(序章 マドリッドからの手紙)

 ここからは、実際に本文の考察に入っていく。
 物語は1970年代末、5月のパリ、ワトソン役の大学生ナディア・モガールの一人称(内的焦点化)で始まり、昨年12月の事件の発端へ回想する錯事法をとる。ナディアの学友であるアントワーヌの叔母たち(ラルース姉妹)に届いた、死者からの「赤い」署名の脅迫状という事件の発端と遺産問題、時代背景が語られた後、ナディアが矢吹駆と出会う秋までさかのぼる。
 現象学とサンスクリット語を操り、マーラーの口笛を吹きながら、簡単な生活を送る、矢吹駆という「探偵」の登場も大変に印象的だが、まず『バイバイ、エンジェル』の主な視点人物(ワトソン役)に「ナディア」が設定されていることが、この作品の普遍性を支える部分であるだろう。この点も後の第3章において詳細に論ずる。
 また、パリという舞台は『バイバイ、エンジェル』の草稿執筆時の笠井の滞在先であること以上に、エドガー・アラン・ポーによる史上初のミステリー小説「モルグ街の殺人」(1841年)の舞台でもあること、さらに「革命」を語るべき場所としての歴史的必然性(フランス革命)、そして「連合赤軍」という要素が、フランスを舞台に描き直されることにより異化されるという効果がある。
 そして、多く指摘されていることだが、この序章の終盤でなされる駆とナディアの会話の中において、駆はいわゆる「探偵の推論」はその「推論」以外にも、無数の解釈が存在しえたはずであることを「テーブルの上にひっくり返された砂糖」という例を挙げて展開して見せる。ここで引き合いに出される「砂糖」の議論、そして「探偵の推論」はエラリー・クイーン『Xの悲劇』(1932年)の内容のことであり、なぜ探偵が唯一の真相に到達しえたかという答えに、駆は「本質直観」と答える。

第3節 ミスリード、黄金期の影響(第一章 ヴィクトル・ユゴーの首なし屍体)

 12月28日から1月6日まで。ラルース姉妹のアパルトマンで、次女オデットの誕生日会が行われ、関係者一同が紹介される。しかし不審者が出現し、不吉な「赤い」モチーフ(ラルース=赤毛、赤い部屋の飾りつけ、ホーソーン『緋文字』、ポー「赤死病の仮面」など)の影が頻出、そして、ついに年明け、そのアパルトマンで首なし死体が発見され、ナディアの父であるモガール警視と、部下のジャン=ポールたちによる現場検証が行われる。
 ここで注目するべきは、視点がナディアからモガール警視の三人称へ移る際の「これからは、わたし自身の証言の部分と、客観的な報告の部分とを、大好きなヴァン・ダインの方法にならって日付け順に配列していくことにしよう」(注15)という文章である。
 ここには、この小説が「ナディア」による記録であり、彼女の物語であることの明示の意味もあるが、さらに「ヴァン・ダイン」という名がもたらすミステリー読者へのミスリードの効果がある。
 ヴァン・ダインとは英米のミステリー黄金期(1918~1939年)に活躍した、アメリカのミステリー作家であり、ミステリー小説が守るべきルールである、前述の「二十則」を考案したことで知られ、この名を出すことは「二十則」のルールを守るであろうことを暗黙に意味する効果がある。実際、冒頭のエピグラフや各事件現場の間取り図の挿入、「ラルース家殺人事件」という古典的なサブタイトルの設定など、本格ミステリーの伝統的なルールや慣習は(変則的なものもあるが)守られている。しかし、実のところ『バイバイ、エンジェル』の犯人(ら)はマチルドやアントワーヌ、ジルベールなどナディアの学友たちであり、彼女らは〈赤い死〉(ラ・モール・ルージュ)と呼ばれる秘密結社のメンバーなのである。これは古典において一種の反則技であり、「秘密結社など複数犯人の事件は避けるべきである」(注16)というルールの一つを明確に破る。   
 しかし、この実験的な要素は、この物語の犯人(たち)を印象的にするため、そしてこの作品に込められた「複数犯人」という「タブー」を破った「先」にある「観念」という真犯人への跳躍に説得力やリアリティ、そして衝撃性を付与させるために重要であり、多くのルールの準拠や、ヴァン・ダインへの言及というミスリードはその積み重ねの一つである。
 その「跳躍」の向こうにあるものこそ、作品に組み込まれた「連合赤軍」そして「革命の観念」への批判という社会性であり、これらを描くために、戒律は必然的に、そして意識的に破られなければならなかった。
 そして、ここまでの考察でわかるように、笠井にとって「本格ミステリー」の作家の中でも、このヴァン・ダイン、そしてエラリー・クイーンという作家こそ、その手本となり、かつ乗り越えようとした明確な対象であったことがわかる。
 特にエラリー・クイーンの〈国名シリーズ〉の最高傑作『エジプト十字架の謎』(1932年)の「首なし(切り)死体」を巡る謎は、この『バイバイ、エンジェル』においても中心的な謎として再提示されている。
 「二十則」、また同種の「ノックスの十戒」などについては、乱歩が紹介した時点(1950年)で「もう戒律などの時代は通りすぎているのだが」(注17)とされているが、戒律を含め、笠井自身が影響を受けた、これら英米のミステリー黄金期に活躍した作家たちの、様々な要素(歴史)を経由することによって『バイバイ、エンジェル』のミステリー小説としての「強度」は跳ね上がっている。
 ゆえに「新本格」を代表する作家「綾辻行人」は、まずこの『バイバイ、エンジェル』(を含む初期三部作)の「単なる本格ミステリー」としての完成度を愛する、とし「笠井潔」の「稚気」を評価している。(注18)
 しかし、社会派が主流であった当時のミステリー界においてなぜ、笠井はこのような作風を持つようになったのか。
 飯城勇三が指摘する経緯は以下のようになる。
 デビュー前、笠井はミステリー小説ではなく、テロリズム小説で文藝賞への応募を行い、これが刊行される予定であった。しかし偶然にも『バイバイ、エンジェル』の草稿が友人である編集者の手から別の編集者へと渡り、こちらが先に発表されたという経緯があり、当時、ミステリーの主な新人賞であった江戸川乱歩賞の「戦後の探偵小説」的な「傾向と対策」を意識せずに既に書かれたため『バイバイ、エンジェル』は〈黄金時代〉と直結した作風になっているという。(注19)
 しかし、笠井がこの「本格ミステリー」を骨格に選んだ理由には、さらに切実な理由があったのではないかと考える。
 それは、笠井が追い求めていた「倫理」の器(聖杯)としての「本格ミステリー」である。

第4節 本質直観(第二章 モンマルトル街の屋根裏部屋)

 1月6日、モガールたちが事件の関係者へ尋問を行い、失踪したもう一人の叔母である三女ジョゼットへ疑惑が向けられる。その後、駆は本質直観という推理法を行い事件の中心は「首のない屍体」にあり、その「首切りの本質」は「殺人という事実の隠匿」であり「犯人が被害者の首を切断することにより、誰に対して、何を隠そうと努めているのか」(注20)が重要であると語る。そしてナディアは駆に対して推理競争を挑む。
 さて、序章と、加えてこの節で駆が行う現象学的推理とはなにか。
 現象学とはフッサールが創始した現代哲学のひとつの分野であるが、この定義には深く踏み込まない。この手法により何が行われているかに注目する。
 小森健太朗は、駆の行う「現象学的推理法」を二つの段階に分け、➀先入観なしに物を見る「還元」、➁事態の真相を見抜く「本質直観」に分けられるとするが、この「本質直観」の段階において駆は、誰しもが働かせている一般的な概念としての「本質直観」を逸脱し、特殊な「探偵」のみが行える「本質直観」になっていると批判する(注21)
 飯城勇三は、この推理方法が、『バイバイ、エンジェル』だけでなく、〈駆シリーズ〉の「観念」に挑むという特徴的な推理方法であると結論付けている(注22)本論では小森の指摘するように「還元」という段階に注目したい。この過程において「首切り」という概念はミステリーという『ジャンル的思考」から離れ、死霊を恐れる部族社会、死刑制度へと広がっていく。これが第6節において「意味沈殿」として暴露される固定観念、つまり「既成」の本格ミステリーへの「挑発」と「破壊」、そして第8節の真相の開示による「更新」につながっていく。
 つまり、「現象学的推理法」や「本質直観」とは、単に矢吹の推理法という意味を持つだけでなく、またミステリー読者の固定観念の急所を突くという機能以上に、本格ミステリーで使い古されたモチーフを根源的に洗い直し、新しい可能性を模索するための手段でもある。この試みはシリーズを通して成され、「二十則」のタブー破りと同様に「本格ミステリー」でありながらも、それまでの「本格ミステリー」そのものを逸脱し、超越しようとする、笠井の意志を反映したものであるだろう。

第5節 「生物的な殺人」と「観念的な殺人」(第三章 リュクサンブール公園の霧)

 1月7日から1月10日まで。ナディアが学友に駆を紹介し交流が始まる。駆によるローリング・ストーンズと「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル」への言及。犯人が「ルシファー」であるとの指摘。そして事件の関係者であるマチルドの兄、アンドレが逃走の後、ホテルの一室で爆殺されるという事件が起こる。
 ナディアの視点で描かれるアントワーヌとの関係や、マチルドと駆の親密な態度に対して嫉妬する恋愛以前の心理などは、コミカルでもあり、また繊細でもある。この部分は作品の普遍性に寄与する重要な要素である。

 (前略)だいたい、もともとわたしの友人である矢吹駆にたいしてマチルドがとっている態度あんまり馴れ馴れしすぎる。カケルの方も、わたしには人を人とも思わない不愛想な顔つきで接することが多いのに、マチルドにはまるで違うのだ。どこかしら理不尽な気分に襲われて、少し乱暴に言った。
「カケル、今晩はわたしの家に夕食に来るのよ。いいわね、約束よ」(注23)

 実は、ここにも笠井による「既成」の本格ミステリーからの逸脱がある。
 「二十則」のひとつ「作中に大きな恋愛興味を取入れてはならぬ」である(注24)。
 現在のミステリーでは、この「探偵役」と「ワトソン役」の恋愛はそれほど珍しくはないが、『バイバイ、エンジェル』が発表された当時、この恋愛という要素は新しく、衝撃を持って迎えられたはずである。しかし、この要素はシリーズを重ねることで、本格ミステリーというジャンル、また20世紀という時代を乗り越えるための可能性を提示する「希望」に繋がっていくことになる。
 加えて、この章では事件(作品)の本質的な話題が提示されている。それが「生物的な殺人」と「観念的な殺人」である。

 「孤島に二人の男が漂着したと考えるのです。飢えが彼らを苦しめています。そして、
 ついに耐え切れなくなった一人の男が、殺してその肉を喰うためにもう一人の男を襲ったとしましょう。(中略)人間のあらゆる行為は、物質的欲望の充足と生命が生命である限り避けることのできない個体の死を一刻でも先に延ばそうとする自己保存の衝動に還元されるという認識に対する、そうした殺人」
  (中略)
 「そうです。僕はこの型の殺人を生物的な殺人と名付けました」
 「それでもうひとつの型は」わたしが促した。
 「さっきの例で言えば、襲われた男が、自己保存のためのではなく襲った男を殺すという可能性を考えてみるのです。たとえば、飢えに狂った男に殺人と人喰いという許し難い罪を犯させないために、もう一人の男が敢えて犯す殺人。神や、正義や、倫理の名において犯される殺人。これは生物的な殺人に対して、いわば観念的な殺人ともいうべきものです。つまり、殺人のもうひとつの理念型です」
(中略)
 「君のいう、人間によるのでない殺人、つまり悪魔による殺人がそれかね」
 「そうです。観念という、現実のかたちは決して持ちえないもの。どこにもないもの。生存の露骨な具体性から見れば馬鹿馬鹿しいほどに影の薄い、抽象的なもの。目も口もない、手も足もない、虚ろな宇宙に漂う亡霊に似たもの……。これが時として人間に憑くのです。その時、人は真空状態で放電する火花のような状態になる。ぶよぶよした細胞の塊が、なにかまるで別物ものに変わってしまうのです。これに憑かれて行われる殺人は、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人です。つまり、犯人は、彼ではない。彼に憑き、彼を操っているものこそ真の犯人なのです」(注25)

 「本格ミステリー」は、作品の中心的な「謎」がどのようなものかにより、3つに分類されうる。それが「フーダニット」(誰が犯人か?)、「ハウダニット」(どのように殺したか=犯行方法=トリック)、そして「ホワイダニット」(なぜ殺したのか?)である。しかし、この章で特にフォーカスされる「犯人とはだれか?」「なぜ殺したのか?」という議論は、駆の抽象的な発言によって、ナディアやモガール警視たちのように、客観的な証拠、論理的な推理、具体的な犯人の提示を期待する読者を煙に巻くような議論になっている。  
 前述の「首切り」の議論も同様である。
 しかし、これらの一見回りくどいような抽象的な議論は事件の「本質」をしっかりと捉え、「フーダニット」の先に仕組まれた「ホワイダニット」の衝撃、この作品の「倒錯観念」へたどり着く重要な道筋なのである。

第6節 「意味沈殿」(第四章 ラマルク街の真相)

 1月15日から1月17日まで。オデットの遺言状が公開され負債と破産が暴露される。そしてオデットの愛人であるデュロワが逃亡し、ジョゼットとの共犯説が持ち上がる。
 そのあと、ナディアは学友たちの前で「首なし屍体」の入れ替わりを利用したオデットとフロサールの犯人説を真相として披露するが、駆により否定される。そしてここで提示されるのは現象学の「意味沈殿」という概念である。

  本来無限の意味を秘めている事物が、ただひとつの意味にだけ固定化されて扱われていく事態を、現象学者は〈意味沈殿〉という言葉で表現しました。オデット殺しの現場に残された首なし屍体にもまた、このコップ同様に無限の意味が隠されているはずです。ところが、マドモワゼル・モガールをその一員とする探偵小説愛好家の眼には、首なし屍体という事物はたちどころにある種の〈意味沈殿〉を惹き起こすのです。それは無限に多様であるべき首なし屍体の意味を、犯人による被害者の顔の隠匿であり、つまるところその屍体が誰のものであるか判別し難くするための作為であるという点においてのみ一義的に固定化するものです。この固定観念は、そこにかならず犯人と被害者との入れ替えがある、というもうひとつの固定観念に結びついていく。マドモワゼル・モガールがたてた、事件を解釈するための論理の出発点は、首なし屍体に関するこの探偵小説愛好家風の臆断にありました。(注26)

 謎の提示と解決という構造を持つミステリー、特にこの「本格」と呼ばれるルールが明確化されたジャンルにおいて、書き手は「フェアプレイ」を求められ、読み手は作品内の手がかりを頼りに探偵と疑似的な推理競争を行う。この駆とナディアの関係は、そのような我々の比喩である。
 この独特の遊戯性は、しかし一種の閉鎖性をもたらし、「首なし屍体」や「密室」などの古典的要素は「意味沈殿」、つまり異化論での「自動化」を引き起こしやすい。「首なし屍体」という重要ではあるが、使い古されてしまったモチーフを再提示すること。この作品は既成の「本格ミステリー」の先へ行く、という宣言が、ついにここで明確になされている。

第7節 真相の開示へ(第5章 ボワ・ドゥ・ブローニュの屍体)

 1月25日から1月26日まで。ジョゼットの死体と洗われたオデットの生首、その前日にはデュロワの死体が発見される。このニュースに打ちのめされるナディアは、さらにアントワーヌを「装った」駆の電話に激怒するが、駆がついに真相の開示に動き出す。
 このコミカルな駆とナディアのやりとりの場面に、「他人を装った電話」という重要な伏線が埋め込まれている。ヴァン・ダインが否定した「恋愛」(以前ではあるが)の要素、二人の関係性がミスリードとしても有効に機能している場面である。
 その後、ラルース家の家政婦バルトを訪ね、彼女がラルース姉妹の長女ジャネットであり、かつアントワーヌの生母であること、さらに生家の因縁が明かされる。
 ここには「戦争」に翻弄された人々の背景が丁寧に描かれる。
 そして、駅でアントワーヌとジルベールの出発を見送ったあと、駆とナディアはアントワーヌのアパルトマンでマチルドと対峙する。
 加えて、このシーンではさりげなく「本格」への目配せが行われている。容疑者候補を次々に出す演出のなかで、ナディアはバルト夫人の息子、10歳の「ジャック」にも一瞬疑惑を向ける。殺人事件の犯人が10歳の子供という可能性は、ミステリーを読み慣れていない読者にとっては、ナディアの混乱ぶりを表現しているようにも映るだろう。事実そのような意図もくみ取れる。しかし実は、前述したクイーンの著作『Xの悲劇』の次作『Yの悲劇』(1932年)では、明かされる真犯人が「ジャッキー」と呼ばれる13歳の少年なのである。名前の類似と、未成年という年齢の共通点のみで『Yの悲劇」への目配せと断じるのは早計と感じるかもしれない、しかし、これまでの本格への準拠とクイーンの引用以外にも決定的な共通点がある。次の第8節は思想闘争へと集中するため、この第7節で先に述べておくが、駆とマチルドの対峙の最後、「毒入りの珈琲」を巡る静かなシーンが存在する。これは『Yの悲劇』における探偵レーンによるジャッキーの毒殺(の暗示)とその是非をめぐる問題の「アップデート」なのである。

第8節 思想闘争と『テロルの現象学』(第六章 サン・ジャック街の悪霊たち)

 場面は飛び、1月27日、駆はルネたちに事件の真相を語る。首謀者はマチルドであり、彼女を中心としたアントワーヌ、ジルベール、アンドレが所属する秘密結社「赤い死」<ラモール・ルージュ>であった。動機は、「結社の資金調達のための遺産狙い」と「裏切り者(アンドレ)の抹殺」である(これもマチルドがアントワーヌたちを「追い込む」ための操りであったことが示唆される)。
 オデット殺しの実行犯はアントワーヌであり、彼のアリバイのため、「オデットを装った」マチルドが電話によって、オデットの生存を錯覚させるトリックであったが、アリバイを成立させる被害者の日課の化粧は、偶然にもその時間されておらず、首の切断によりなんとか隠そうとしたものは、その「化粧をしていない顔」であった。アンドレ殺し(爆殺事件)は同じく電話や変装などでジョゼットを「装う」マチルドによって、アンドレが滞在する部屋自体を錯覚させるトリックにより成立していた。
 時は遡り1月25日、矢吹は、「殺人」の重さに耐えられず疲弊しきったアントワーヌ、そしてジルベールと対峙。2人に48時間の猶予を与え、マーラーの旋律を残してその場を去る。
 そして1月26日、ついに真犯人であるマチルドと対峙する。彼女から秘密結社「赤い死」<ラモール・ルージュ>への勧誘が行われた後、ついに、それまで無感情であった駆が吠えるように行う思想闘争という、この作品のクライマックスへと至る。
 さて、この場面に入る前に、笠井によって『バイバイ、エンジェル』と同時期、並行して書かれていた「観念批判」の評論書『テロルの現象学』(1984年)を確認する必要がある。
 これはマチルドと同じく、連合赤軍を含む、革命をめざす観念が暴力やテロリズムに帰結する論理過程を詳細に暴いている。ここで示されるテロリズムへと転化する「観念倒錯」の理論は大変難解だが、要約すると以下のようになるだろう。
 共同観念(社会、世界)から疎外されてしまった者の一部に、他者より深刻に世界を喪失するという経験を「受け取ってしまう」者がいる。
 かれらの中で、苦痛なく生きる「他者」や、その「世界」の「憎悪」が始まり、社会を変革(革命)する希望と同時に、自己の「救済」を希求し、喪失された世界の観念的な「私所有」に向かう。
 さらに、この「憎悪」を正当化する「自己観念」が生まれ、「他者」や「世界」は無化されてしまう。そして、この「自己観念」はかれら自身を規定し、不完全な状態を許さず、その絶対化を絶え間なく自身に迫り続ける。ここで絶対化された観念が「肉体」に拘束されていると悟ったとき、これが「肉体憎悪」に、そして、その「肉体」生存のための「生活」へ「憎悪」が向かい、最終的にはその「生活」を営む「民衆への憎悪」へと転化していく。これが(自己)「観念の倒錯」である。
 このように極限化された自己観念は、自己観念の内部と観念の外部を弁証法的に<止揚>、つまり統一することで、観念の内部と外部を超越した上位の観念「党派観念」へと転化し、「世界」の観念的所有(観念の外部の内部化)が完成され、党派観念的暴力、総体的テロリズムに至る。(注27)
 マチルドは、この「観念倒錯」に陥った「連合赤軍」の副委員長「永田洋子」を部分的に。「赤い死」は「連合赤軍」をモデルにしていることはほぼ間違いないだろう。
 だが、飯城勇三は以下のように指摘する。

 そもそも『バイバイ、エンジェル』執筆時点では、永田洋子の著作は刊行されておらず、その思想も断片的にしか知られていなかった。
 では、マチルドとは何者なのだろうか?それは「笠井潔が永田洋子から読み取った”観念“を先鋭化させて生み出した思想家」に他ならない。マチルドが語る思想は、実は、笠井潔のものなのだ。(注28)

第9節 思想闘争と『テロルの現象学』(第六章 サン・ジャック街の悪霊たち)

 第1章で確認したように、「連合赤軍」という事件を「自身の責任」であるとも考えていた笠井にとって、乗り越えなければならない対象はその「連合赤軍」または「永田洋子」という個人以上に、「革命の観念」に憑りつかれていた、かつての自分自身であったはずである。 
 それは、駆がマチルドを「自分自身」「半身」(注29)と呼んでいる点からも伺える。
 では、マチルドと永田洋子の違いとは何か。
 飯城はそれが、観念倒錯の到達点のひとつ「民衆憎悪」の有無であるいう。
 彼は『テロルの現象学』と『バイバイ、エンジェル』の比較を行い、マチルドに関しての「肉体憎悪」は目的のためにデュロワやアンドレと肉体関係を持ったこと、そして次の段階の「生活憎悪」は〈赤い死〉における「生殖」と「労働」の禁止に見られるとする。(注30)
 この指摘に該当する部分を、飯城の著作と重なる部分があるが、重要であるため以下に引用する。
 「いちばん大きな犠牲を払ったのは誰でしょう。オデットですか、ジョゼットですか、アンドレですか。いいえ、いいえ、それはわたしです。あなただって、このことを否定することはできませんわ。率先して肉体も生命もすべてを惨めなぼろ屑のように扱ってきたわたしなのです。(後略)」(注31)

「盟約の原則は二つあります。第一に、婚姻の、したがって家庭の所有の禁止。第二に、労働の、したがって定職の所有の禁止(後略)」(注32)

 しかし、これらの次の段階である、「民衆憎悪」は「連合赤軍」そして「永田洋子」には見られない。『テロルの現象学」の以下の記述からも確認したい。

 そもそも市民社会から山岳アジトへの主体の自己分離こそが、生活憎悪の直接の原因だった。もちろん都市部での権力との組織攻防に敗北した、組織保存のためには山岳アジト路線をとる以外ないという事情もあったろうし、中国式の根拠地革命のイメージもその選択に多少の影を落としていたかもしれない。しかし最大の根拠は、革命という観念が成熟した市民社会のただ中では不可避に摩滅させられてしまう危機感にあったはずだ。(注33)
 ここで「連合赤軍」は市民社会から山岳アジトへ「撤退」を余儀なくされている。
 そして飯城は重ねて、マチルドに「民衆憎悪」を持たせた理由について、「殺人」が外部に向くことで『バイバイ、エンジェル』を本格ミステリーにするためだったとする。(注34)

 「(前略)あらゆる歴史の現実が露骨に示しているのは、革命の最悪の敵が人民そのものであったという事実なのではありませんか。革命の真の敵は、刑務所や軍隊や政治警察や武装した反革命ではなく、……人民という存在だったのです。(中略)革命が、果てしなく永続する敗北の宿命から解放されるためには、自身の背理を徹底的に自覚しなければなりません、人民という名の迷妄を胎内から引きずり出し、渾身の力で醜い肉塊となるまで踏みつぶさなければなりません。これだけが、真実の、最後の革命を可能にする唯一の道です」(注35)
 もちろん、ここでの「人民」とは「民衆」を意味する。
 「観念倒錯」を背景に、マルクス主義の「階級闘争」が徹底化された末に帰結した革命の隘路がここに暴露される。

 「あなたの理論によれば」日本人は陰気に囁いた。「……人民と国家は永遠の共犯者なのですね。人民とは、国家の足元で、窮極のところ生物的な殺人に還元される利害闘争に明け暮れ、ある時は飽食して眠り、ある時は飢えて暴徒化し、この両極を無意味に機械的に往還するだけの自然状態にあるような人間たちなの別名なのですね。しかし、それでは、果たしてあなたの考える革命とはどんなものなのですか」(注36)

 これに対してマチルドはこの「共犯関係」を徹底的に破壊するために必要なのは「全面核戦争」であると語る。駆はこれに応戦していく。

 君は、自分のことを無私の革命家だと信じているのだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されなければならないのだと君は言う。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持て余した果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(注37)

 この「観念で正当化してしまう自分」を認めることしか術はないと駆は話す。しかしマチルドはこれを拒否し、結果的に自殺という幕引きを選びとる。
 この「思想闘争」では、関係者が一堂に集まり、探偵が犯人を告発、それに犯人が応戦し、探偵はさらに推理で犯人の逃げ道を絶っていく、というような既成の「解決編」の展開はまったくない。
 マチルドは自身の犯行の「正当性」を狂信し、その「正当性」こそ、彼女の「思想」そのものである。しかしそれこそ、長い間彼女の「魂」を守ってきたものでもあるのだ。この思想が粉砕されることは彼女の「死」を意味する。
 文字通り「命」を懸けた戦いである。
 それでいて、最後のシーンの「マチルド」は自身を止める者、殺す者を長い間待っていたかのような印象がある。苛烈な観念から解放され、やっと安らぎを得られることを期待する天使として。
 飯城は、この部分の駆の反論は「反論」ではなく、「理想」の域にとどまっているが、むしろそれが、評論書ではない「小説」であることの魅力につながっていると言う。(注38)
 飯城の説には大筋では異存はない、しかし、この部分(魅力)にはさらに踏み込んでみたい。
 この場面で現出したのは何か、それはすでに「取り返しがつかない」事態になり無駄であろうともなお、「政治の季節」に絡めとられた彼女らに言葉をかけなければ、一歩も先に進めないという「理論」以前の「叫び」の記録である。
 かつて、革命を語る言葉が若者を支配した。笠井もその若者の一人だろう。しかし、その言葉(マチルド)に対抗するためには、同じく革命(観念)を語る言葉以上に、その先を希求する「態度」「叫び」でなければいけなかった。その言葉がいまだに決定的な反論の形を完成させていなくとも、また、その想いが届かない相手でも、駆(を通じて笠井)は叫ばなければならなかった。
 この「論理」を越えた「叫び」という「倫理的な熱」こそ『バイバイ、エンジェル』なのである。
 そして、その「取り返しのつかなさ」は駆がマチルドにかける言葉以上に、この状況を傍観することしかできない「ナディア」という視点人物(むしろ我々と言ってもいい)の距離感にも象徴される。手は届かない。ナディアには二人に言葉をかけることさえできないのである。しかし、この瞬間の「倫理的な熱」により『バイバイ、エンジェル』は「本格ミステリー小説」という枠を超越した普遍性を得ている。
 そして、笠井という作家が「哀歌」を、そして、ナディアという視点人物に込められた「希望」を語るために、この時点で「美化」や「正当化」された「観念」の欺瞞は徹底的に暴かれ粉砕されなければならなかった。

第10節 天使たちへの哀歌(終章 ピレネーからの手紙)

 視点は事件後のナディアへ移る。戦地へ向かったアントワーヌからの痛切な手紙の内容が明かされ、ナディアが駆に絡まった感情をぶつける苦い結末で物語は幕を閉じる。
 そして、ここでは、前章のような「激しい魂の叫び」ではなく、「静かな哀切さ」が支配する。革命という観念に憑りつかれ、青春の時代を生き延びられなかった繊細な魂たちを「救済」しようとする「倫理」的視点がアントワーヌ、そしてマチルドへの描写に見られる。

 そう、マリー・バルトが実の母親であることを僕は知っていた。オデットが囁いたのだ。そしてイヴォンとの約束のことを忌々しげに話し、逆に母が昔犯した過失を暴露するといって僕を脅しさえした。その時の気持ちを君は理解できるだろうか。僕は最後まで母をラルース家の家政婦として扱った。オデットがそれを要求したのだ。また、ほんの赤子の僕を捨て去った彼女のことを、どうしても許せない気持ちもあった。けれど、僕があの〈殺人〉を後悔していないことも伝えておきたいと思う。生の終る日までその責任の一切を全身で支え抜くことを誓おう。決して、自分の過去から逃げ出そうとはしない。(注39)

 そして、ここでは第三章に続き、エピグラフとして引用されていたローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」の歌詞への言及がなされ、冒頭とこの結末において完璧な枠組みが完成される。

 堕天使……。硝子の天使さ。確かに天使だったけれど、硝子のように硬く、冷たく、砕けやすかった。この世界では天使だからこそ地獄に落ちることになる。何かが憑いたんだ」
 わたしの頭のなかで、ストーンズの歌の一節が微かに響いていた。それは、リヴィエール教授の書斎でアントワーがカケルを冷笑するようにして口笛を吹いた曲だった。

  ペテルブルグにいた時にゃ

  革命を起こしてやったのさ

  皇帝と取り巻き 殺し

  アナスタシアに悲鳴を上げさせた

アントワーヌに憑いたのは、革命という魔だった。ドストエフスキイがあれほどに憎まねばならなかった悪霊……。しかし、アントワーヌは、憑きが去った後にさえその行為の正当性を証すために自分の生命を支払ったのだ。たったひとつしかない自分の命でその負債を支払ったのだ。(注40)

 さらに、第三章ではマチルドの幼少期の陰湿であり閉鎖的である環境、そこから「倒錯観念」と革命に憑かれたであろう背景が描かれていた。世界の残酷さに耐えられず堕ちた天使としてのマチルドが見えてくる。

「(前略)マチルドは、外部には固く閉じられた狭い村のなかの、ちいさなちいさな子供社会で、悪意の集中砲火を浴びて生きていたんだ。大人たちや教師たちまで、それに見てみぬふりをしていた。(中略)村で辛い生活をしていた子供の時、きっとマチルドを支えていたものは、いつかイヴォンが帰ってきて自分をどこか遠くに連れて行ってくれるという切実な思いだったに違いないんだ……」(注41)

 これら「戦争」というものに翻弄された人々たち、そして、自分ではどうすることもできない理不尽な環境に身を置かれた子供たちが、切実に「希望」を求めた結果、激烈な「観念」に憑かれてしまう背景がある、このような「観念に憑かれる」ことが、現代の我々に無縁であるはずはない。ここに響くのは、笠井自身が生きた「革命の時代」において、消えていった命や、道を違えたものたちへの「哀歌」であると同時に、いつの時代も存在する観念に憑かれざるを得ない「砕けやすい天使」たちへの「哀歌」でもあるだろう。
 しかし、このような「哀切さ」は最後に「美化」を徹底的に排除もする。
 わたしのなかに、突然激しいものがつきあげてきた。それは胸いっぱいに膨れ上がり、口から溢れ出した。

 「あなた、あなたが殺したのよ。マチルドだけじゃなく、アントワーヌもジルベールも、あなたが殺したのよ。あの二人を最後の場所まで追い詰めたのはあなただった。バルト夫人がそうしたように、あの二人だって片隅で苦しみながら生きていくことはできたはずだわ。(後略)」(注42)

 「あなたが殺したのよ」。この結末の「苦さ」には様々な意味が込められているだろう。「ナディア」が事件に推理小説的な興味に駆られていた間に、友人たちの異変に気付かず「取り返しのつかない」地点まで来てしまっていたこと。また、それ以上に、笠井自身がこの『バイバイ、エンジェル』以降も「連合赤軍」という、自身にとって解決されえない問題に向き合い続けるための戒めでもあるように思われてならない。

第3章「希望」

第1節「ナディア」という視点人物と文体

 飯城は「ナディア」という視点人物には当時のミステリー界では珍しかった「ワトソン役による一人称記述」、「探偵小説マニア」、(シリーズを通じての)「駆に対しての恋愛感情」「ワトソン役から探偵役へのジョブチェンジ」などを挙げている。(注43)(丸括弧内筆者)本論では、最も重要な点を、この物語が、「ナディア」という「若い世代」を代表する「女性の視点」で語られていることであり、であるからこそ徹底した批判の先に「哀歌」、そして「希望」を描くことができた、という点であると考える。
 これまで挙げたように、この作品は「観念」批判の奥に笠井自身の〈政治の季節〉のパーソナルな体験や、「連合赤軍事件」という歴史的に重要な要素を扱うが、「ナディア」という視点人物が導入されることで、それらに適度な「距離」が生まれる。そしてその繊細な視点により笠井の世代を支配していた「革命を語る文章」やその「攻撃性」が和らぎ、より「小説」としての普遍性が増している。
 『バイバイ、エンジェル』とほぼ同時期に書かれた、前述の「テロリズム」小説である『熾天使の夏』(発表は1997年)の冒頭の文章と比べると、その差は歴然である。

 寝具の汚れを嫌って、傍らの小卓の隅で昨夜から多量の吸殻に埋もれた灰皿の底に風化する軽金属の肌に増殖し脆く盛り上がった灰白色の錆めいて見える、煙草の先端でどのように微かな振動にも呆気なく崩壊し去るほど成長した棒状の灰を誤りなく落とすための、注意深く抑制された腕そして肩の微細な動きにさえ、硬い発条の軋む耳障りな金属質の呻き声で克明に反応する、時代がかった大型の寝台の上に怠惰な姿勢で横たわりながら、一様に煤、脂、埃で汚らしく黒ずんだ天井と壁の交差する部屋の隅の窪みを獏として眺めあげ、頭蓋の仄暗い内奥にいつしか確かな存在感をもって凝固し終えた想念をあらためて、その意味の重さを噛みしめるように低い声で呟いてみる。
完璧な自殺それが問題だ。<『熾天使の夏』>(注44)

 春が来て、わたしは二十歳になった。
 しかし透明な陽光と微風の五月のパリも、去年までのようには私を楽しませない。私は少し大人び、以前のように気軽にはしゃぎまわったり、何かを単純に決めつけたりはできなくなった気がする。ルシファーの冬の経験が、どこか深いところで私を変えてしまったのだ。<『バイバイ、エンジェル』>(注45)

 そして物語は、この冒頭の「春が来て、わたしは二十歳になった」ナディアの回想であり、読者はこのナディアという繊細な視点人物に添いながら、彼女を通して最初は一種の「探偵ごっこ」の対象であった事件において、恋人となったアントワーヌを含めた学友たちを失うこと、ラストにおいては駆に解決しようのない絡まった感情をぶつけるという苦い結末へとむかう、しかし冒頭に戻れば季節が巡るように、生き残った若い彼女に未来(物語)が託されていることがわかる。大枠が彼女の通過儀礼の、ある種の青春の物語として成立しているのだ。
 そして、シリーズが進むごとに、この「ナディア」には様々な「希望」が託されていくようになる。

第2節 『哲学者の密室』と「大量死理論」
〈矢吹駆シリーズ〉はこのあと、南仏での「黙示録」の見立て殺人を描いた『サマー・アポカリプス』(1981)。猟奇殺人事件を扱った『薔薇の女』(1983)という初期三部作を経て、途中〈ヴァンパイアー戦争シリーズ〉などの伝奇小説をはさみながら1992年、最高傑作として名高い『哲学者の密室』を上梓する。この小説では、ハルバッハ(ハイデガー)の死の哲学、そして現在と過去で起こる、二種類の三重密室の謎に挑む。
 駆は、現代で起きたダッソー邸の密室事件の支点的な現象として、当初「密室」を選んでいたが、途中、ガドナス(エマニュエル・レヴィナス)教授との会話から「宙吊りにされた死」へと訂正する。そして、この密室が作者の存在しない自動生成した「竜の密室」と仮定し、誰が、いかにして三重密室にまでたどり着けたかではなく、三重密室の「外」へと逃れえたかに逆転した結果、唯一の犯人フランツ・グレにたどり着く。そしてグレは、30年前のコフカ収容所で起きた集団脱走を計画し、ナチスを反逆した、武装親衛隊少佐ハインリヒ・ヴェルナーであったこと、事件の動機が元恋人と息子の復讐であったことが明かされる。さらに、ヴェルナーは脱走事件の直前に出現した、元恋人ハンナが被害者である三重密室「ジークフリートの密室」の作者(自殺幇助)でもあった。さらに、このジークフリートの密室は駆の「本質直観」によって、その本質を「特権的な死の夢想の封じ込め」と暴露される。
 そして、ヴェルナーは回想しながらこのように語る。

 直視できないほど不気味なものに変貌したハンナの実存を、私は『自殺』という虚構で隠蔽しようとした。そうすることで、揺らぎはじめていた死の哲学を、なんとか保持しようと見苦しくも作為した。無理にもハンナを収容所から救出し、その惨めさを、おぞましさを、そして魂が底冷えするような狂気を、ともに生きることが求められていたかもしれないのだ。だが、そんな勇気はなかった。そうすることが、真に勇気ある行為であると考えうるような倫理を欠いていた、あの時には。(注46)

 通読すればこの『哲学者の密室』の主役とは、このハインリヒ・ヴェルナーであること、そして、小阪が指摘していたように、ここで言及される「倫理」という概念がやはり笠井にとって重要な要素であることが分かる。
 また、このヴェルナーとハンナの自殺ほう助という関係が、『バイバイ、エンジェル』における、マチルドの自殺を巡る駆の行為の問題と類似している点である。つまり、笠井により『バイバイ、エンジェル』における駆の行動は問い直され、さらにその問い直しが駆という青年の成長を描くことにもつながっていることになる。
 しかし、このヴェルナーを支配したハルバッハ(ハイデガー)の「死の哲学」とは何なのか。
 要約すれば、「死に先駆することにより、本来的自己に覚醒する」ための思想である。

 「(前略)ハルバッハによれば、死の可能性は無数にある生の可能性から、その人間にとって本当に大切な可能性、特別の可能性、人生の中心的な可能性を、はっきりと映し出す特別の鏡なんだ。死という鏡がなければ、人間は無数にある可能性の中で道を見失うだろう。(後略)」(注47)

 だが、この「死の哲学」は、本来凡庸なものである(特権的ではない)特に20世紀の戦争以後に露呈した人間の無残な死を隠蔽し、若者を「英雄的な死」へと駆り立てる思想として機能したという。
 さらに言及されるのが『バイバイ、エンジェル』のあのアントワーヌである。

 彼は考え始める。死という鏡さえ与えられるなら、自分にも英雄のように真実の人生を、選ばれた人生を、特権的な人生を生きることができるだろう、とね。それが、ようするに地獄の入り口なんだ。平和的と繁栄に自足した社会では、死の可能性など、どんなに凝視しようと少しも見えてきそうにない。
 そこで青年の思考は、ほとんど必然的に観念倒錯の罠に落ちてしまう。(中略)死の危険に満ちた暴力的な環境を、何とか捏造してしまえ。(注48)

 そして、この「死の哲学」とともに、この「戦争」から生まれた小説形式があった。
 第一次世界大戦終結後から、第二次世界大戦がはじまるまでの期間(1918-1939)に誕生し、黄金時代を成した、笠井の言う「大戦間探偵小説」。
 そう「本格ミステリー」の誕生である。
 これにはミステリー界に議論を呼び起こした「大量死理論」を確認するのが早い。

 「(前略)数百万の死者を数えた第一次世界大戦は、人類がはじめて経験した、恐ろしいほど効率的に組織され機械化された殺戮戦争でした。(中略)英雄的な死や、固有の死や、尊厳ある死が完膚なきまでに破壊しつくした後の、意味のない大量死。
 (中略)そのような大量死の事実に直面して戦慄し、死骸の山が漂わせる不気味さから目をそむけようとして捏造されたのが、ようするにハルバッハの哲学でした。そして二十世紀の探偵小説もまた、ハルバッハ哲学と同様に第一次大戦を通過した時代精神の産物ではないか。ハルバッハが死なるものに、華麗で厳粛な冠を与えたのと同様、探偵小説もまた瑣末で凡庸な大量死から自国別するものとして、選ばれた死を復権させようと努めたのですから。
 二十世紀の探偵小説の被害者は、第一次大戦で山をなした無名の死者とは、対極的な死を死ぬように設定されている。ようするに、彼は二重に選ばれた死者、特権的な死者なんです。精緻なトリックを考案して殺人計画を遂行する虚構の犯人と、完璧な論理を武器に犯人を追い詰める虚構の探偵は、立場は対極であるにせよ被害者の死に、聖なる光輪をもたらさんがために奮闘するのですから」(注49)

 この『哲学者の密室』では、「密室」という古典的なモチーフを洗い直すだけにとどまらず、既成の「ミステリーの構造の意味」、さらには「本格ミステリー」というジャンルそのものを歴史と接続することで「異化」する離れ業があらわれる。
 このような点から見れば、「本格ミステリー」とは紛れもない「戦争文学」であるともいえる。 

 「大戦間の時代に完成された探偵小説の形式は、禍々しいものを隠蔽せざるをえない必然性において時代的であり、かつ最後には禍々しいものを隠蔽しきれない逆の必然性において、また結果として生じるだろう懐疑や錯乱や狂気において、二〇世紀的な死を固有に思考し表現する文学たりえたのである。(注50)

 加えて、笠井は「そのようにして復活させられた『人間』は、探偵小説形式に適合的な、抽象化されたパズルの項でしかない」(注51)とするが、しかし、この「大量死理論」をそもそもとして発想するという視点(死者の尊厳の奪い返す)にも笠井の「倫理」が大きく表れているだろう。
 だが、繰り返すように『哲学者の密室』では、この大戦間の本格探偵小説と同根を持つ「死の哲学」は粉砕されている。
 ミステリー作家である法月綸太郎は、「ハルバッハ(ハイデガー)を斥けながら、なぜ大戦間探偵小説を斥けないのか」という疑問を呈している。(注52)
 『哲学者の密室』において粉砕される死の哲学は、若者を死へと駆り立てる、「観念倒錯」の性質、また20世紀の「凡庸な死」を隠蔽する機能を暴露されている。だが、『哲学者の密室』では「死の哲学」がすべて否定されている(斥けられている)わけではない。 
 アントワーヌやヴェルナーなど若者を支配し、また死に駆り立て、大量死に帰着し、さらにそれを隠蔽した「絶望」である「死の哲学」の廃墟から、そう、逆に「ナディア」は、その20世紀という戦争の時代の先を生きるための、渾身の「希望」を見つけ出していく。

 ハルバッハ哲学は死んだ。ヴェルナーもカケルも、そう結論したらしい。ハルバッハの死の哲学は、たしかに自滅したのかもしれない。でも、わたしが『実存と時間』から学んだものは、まだ無に帰してはいないのだ。はじめから死の哲学なんて、わたしには関係がない。
 死の可能性を凝視することでのみ、真実の自分が見出されうるのではない。最後にヴェルナーが告白したように、そんな考え方は間違っている、絶対に。
 不安は死から生じるのではない。人間の可能性の中心点が破壊され、奪われる可能性が、人を不安にさせる。でも、もう不安ではない。わたしはもう、ちゃんと理解できたから。死の可能性に直面して生きることに、人間的な意味なんかありはしない。(中略)五月からの濃密な不安感は、矢吹駆という青年がわたしの存在可能性の中心にあることを告げていた。(注53)
 (前略)ダッソー家の事件を経験して、わたしは無数の可能性の束から、ほんとうに大切なものを探りあてることができた。死のそれの対極にある、愛の存在可能性。そうだ、わたしはもう迷わない。わたしがわたしであるかぎり、最後まで愛の可能性を生きるのだ。ひたすらに……。(注54)

 蛇足ではあるが、ここで強調しておきたい。
 当初『バイバイ、エンジェル』はシリーズ化を意図して書かれてはいなかった。にもかかわらず、そこから始まったナディアと駆との関係は、20世紀最高の哲学者とよばれたハルバッハ(ハイデガー)の「死の哲学」から、「愛の存在可能性」という概念、そしてナディアにとって、その対象である「駆」を見い出し、これが同時に「死の哲学」と同根である「本格ミステリー」の「死の隠蔽」という性質の先へと、確かに進もうとするという地点へ同時に到達しえている。
 この「希望」へ至るために『哲学者の密室』は、文庫本で1100頁以上の分量を費やされているのである。

第3節 貫かれる「倫理」
ここでは、笠井にとって「倫理」という概念が、『バイバイ、エンジェル』、そして『哲学者の密室』以降も、現在の活動まで貫かれる問題であることを確認したい。
 笠井がライフワークと宣言している〈駆シリーズ〉は以降、『オイディプス症候群』(2002年)、『吸血鬼と精神分析』(2012年)と進み、雑誌連載後、改稿作業が続く『煉獄の時』『夜と霧の誘拐』『魔の山の殺人』そして、連載中の最終作である『屍たちの昏い宴』と続く。また番外編である日本編も存在する。
 これらの作家としての活動と並行して、笠井は本格ミステリーの「理論家」「批評家」としての顔も持つ。前述の「大量死理論」もその一つであるが、「倫理」的な観点では『容疑者Xの献身』を巡る騒動にそれが顕著に見られる。
 『容疑者Xの献身』は2005年、東野圭吾が発表したミステリー小説であり、後に映画化もされた〈ガリレオ〉シリーズの代表的な長編作品である。この作品が『本格ミステリ・ベスト10』など、例年のランキング企画において軒並み第1位を獲得した。しかし、作家の二階堂黎人のエッセイを発端に、その評価について2006年に論争が巻き起こる。笠井は批判的な論者であった。
 その理由として、➀本格ではあるが、その難易度が高くないこと(注55)そして、核心的な部分に、➁死体の「入れ替わり」のトリックとして利用され、殺害される「ホームレス」が読者に「見えていない」こと、作家や評論家の多くにさえ、その「ホームレス」が「見えていない」という点を挙げている。しかし、笠井は社会的弱者が目に入らない読者を、ヒューマニズムの観点から批判しているわけではなく、このホームレスが見えないという21世紀の「社会」への違和や批判がこの作品から「消失」してしまっていること、そのような読者を前提に書かれているという点を指摘する。ゆえに、ここではリアルな社会への「違和」を掴み得ている「脱格」系やライトノベル作家の側を評価している(注56)
 単純なヒューマニズムには回収されない、「このような社会で良いのか?」という「倫理」的な反応とその抵抗、やはり、笠井にとって「倫理」という概念が一貫しているのがわかるはずである。
 そのような「社会」への目線は、思想家としての活動にも現れている。
 笠井は『バイバイ、エンジェル』また、『テロルの現象学』以後、マルクス主義から離れながらも、新しい「革命」の形を希求し「社会」と関わり続けているが、近年では、2011年の東日本大震災以後の反原発運動、そして2015年の戦争法案反対運動においての直接または間接の関りが顕著である。
 しばき隊の野間易通との交換エッセイを書籍化した『3.11後の反乱』には、2015年9月19日、「集団的自衛権」の行使を認めた「安全保障関連法」の強行採決に関して、笠井が継続的に行われていた国会前他のデモ活動へ参加していた経緯が記されている。そして、この抗議デモで世間的に注目されていた「SEALDs」に関してこのような記述がある。 

 SEALDs主催の路上集会に紛れ込んだ中核派などが、警備の鉄柵を揺さぶり、警官隊と押し合いを演じて逮捕者を出した。SEALDsは集会参加者が混乱に巻き込まれることを憂慮し、「あざらし」が中核派などを排除するにいたる。
 反原発/しばき隊/SEALDsという運動の系譜で、セクトの排除は当初からの前提だった。(注57)

 このデモ、そしてSEALDsに対しての、笠井の実際の関り方、その詳細は不明ではある。
 しかし、この中核派が代表する新左翼セクトの残存する「暴力性」、つまり「観念倒錯」に、新たな「希望」の世代である「若者たち」が再び連れ去られないようにすること、決して、過去の過ちを繰り返させないという強い「倫理」的な視点に、守護者としての笠井が見える。

第4節 ポスト・トゥルースと「実践倫理」

(前略)われわれには出来事の連鎖と見えるところに、彼はただ一つの破局を見る。その破局は、次から次へと絶え間なく瓦礫を積み重ね、それらの瓦礫を彼の足元に投げる。彼はおそらくそこにしばしとどまり、死者を呼び覚まし、打ち砕かれたものを繋ぎ合わせたいと思っているのだろう。しかし、嵐が楽園のほうから吹き付け、それが彼の翼にからまっている。そして、そのあまりの強さに、天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐は天使を、彼が背中を向けている未来のほうへと、とどめることができないままに押しやってしまう。そのあいだにも、天使の前の瓦礫の山は天に届くばかりに大きくなっている。われわれが進歩と呼んでいるものは、この嵐なのである。(注58)

 ここでは、この「嵐」と呼ばれる「進歩」の現在地である「ポスト・トゥルース」という時代、そして現代ミステリーの議論に関して考察し、ジャンルに現在まで貫かれる「倫理」の流れを確認したい。
 まず、一般的にポスト・トゥルースとは「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会」(注59)と定義される。
 藤田直哉は『娯楽としての炎上』(2018)において、そのようなポスト・トゥルース時代に反応する現代ミステリーの可能性について論じている。
 アメリカの評論家ヘイクラフトが主張する、ミステリー小説は民主主義の産物であり、ゆえにその国の変化に反応する性質をもつというミステリー小説観を前提に、そのような民主主義を支えていた推理、証拠、公平な裁判という要素がポスト・トゥルース時代に効力を失っているとする。(注60)
 現代のTwitterを代表としたSNSにおいて、この「感情に訴えかけるもの」の優位性や、確証(証拠)がない情報を安易に拡散できること、ゆえに日常的に起きる「炎上」という名の「私刑」、そして、その結果を誰も「倫理的」に背負わないという「社会」。これは身近なものとして、いま現在も我々が目の前にしている事態であるはずである。
 そこで言及される抵抗こそ「実践倫理」である。

 現代日本のミステリを見渡して、新しい重要な特徴と見るべきなのは「実践倫理」である。人工的で自律的な空間でのパズルやゲームとしての完成度を誇るよりも、読者の現実世界で感じるモラル・ジレンマを思わせるものを作中に導入し、読者に「我が事」のように感じさせる作風を選ぶ書き手が増えているのである。
 当たり前だが、犯人を見つける、被害者を助ける、という物語構造は、読者の倫理的な欲望を前提として成立している。ミステリの持っているその基本的な欲望の原初的な力に立ち戻ることで、現代日本のミステリは、ポスト・トゥルースに抗しようとしている。(注61)

 笠井は、これに対して近作である『例外社会の道化師』(2020年)において応答するのだが、藤田がヘイクラフトの説を「真に受けてみた」ことに批判的である。その理由に、ヘイクラフトが提示した民主主義(とその産物である探偵小説)と全体主義という対立構造は、アメリカの戦争を正当化するためのプロパガンダの性質があった点、そして、デュパンを祖先とする「探偵」というキャラクターと警察/警官を同一視している点を挙げ、笠井自身は、逆に司法制度/警察が民主主義の「市民」側であるなら、「探偵」とはボヘミアン的な「市民の屑」であり、対極的な知であると示し、その偽物性が「市民」側の良識を「異化」していたと主張する。しかし、これらの点を除けば、「屑」や「偽物」が溢れ返るポスト・トゥルース時代において「探偵の力が消失せざるを得ない」こと、そのような時代に抗うために行われている現代ミステリーの試みに関しては同意を示している。(注62) 
 この議論において注目すべきは、藤田が「倫理」を、ミステリーが持つ「原初的な力」であると主張している点である。しかし、この「倫理」はヘイクラフトの探偵論を援用することで「論理」や「証拠」「裁判」という民主主義的な概念たちとある種「同等」の概念に落ち着いてしまっている(回収されてしまっている)ように思われる。
 これには、さらに笠井が反論として司法制度/警察=民主主義対、それを異化する「探偵」という構図で反論してしまっていることもあるだろう。
 藤田が「原初的な力」と主張するように、この「倫理」という概念は、藤田(ヘイクラフト)の「民主主義」(の中の倫理)対「全体主義」という構図、またそれに反論する笠井の民主主義「市民」(とそれらに回収されてしまっているように見える「倫理」)対「屑性で良識を異化する探偵」という構図をも「超越」する概念ではないのか。つまり、藤田は自らが提示した「倫理」という概念がこのような構図よりも、より深い「(本格)ミステリー小説」というものの本質に届き得ていることに気づいていないのではないだろうか。
 何故なら、何度も指摘してきたことであるが、その「倫理」こそ、本格ミステリーの本質であり、笠井が貫いてきた本質であると本論では考えるからだ。
 ミステリーが大戦間に「本格」という、より人工的で厳密なゲーム性を発展させ「殺人事件」を娯楽として消費するという「非常識」な部分が際立ったにせよ、しかし、笠井の主張するように、その発展の背景にあるのは、20世紀という戦争の時代と、そこでゴミ屑のように殺される人々の(その時代の避けられない死を隠蔽していた性質を少なからず持っていたにせよ)死者の尊厳を奪い返そうという「倫理的な熱」であり、これがなければ為されなかった発展である。
 (本格)ミステリーそして「探偵」とは、その時代の市民的な良識を異化する「屑性」(非常識さ)と同時に、その時代が失った(失いかけている)「倫理」を突き付けるジャンルであり、それらを併せ持った存在なのである。
 「(実践)倫理」とは、ポスト・トゥルースという、真実や論理が軽視される時代との応答の中で、ミステリーが変化(進化)したもの、というよりも(そのような面も確かにはあるが)、真実や論理というものの効力が、まだ依然強い時代から、より深い部分でミステリーを支えていた本質ではないか。
 例え、どんなに「エキセントリックで非常識な探偵」が登場し、「非現実的な状況やトリック」が存在しようとも、われわれ読者は、多かれ少なかれこの「倫理」とその問いかけを「(本格)ミステリー」というジャンルに感じているはずであり、その切実さこそ、これらの要素を支えるリアリティでもあるのである。
 そして、その「倫理的」な試みは、今のポスト・トゥルース時代のミステリーにだけ顕著なのではない。これまでの考察で既に見えているはずである。
 そう、笠井は「倫理」を切実に求めた結果「本格ミステリー」という形式にたどり着いたのではないのか。そして「本格ミステリー」という聖杯はその笠井の「倫理」に答えたともいえる。笠井のデビュー作『バイバイ、エンジェル』にはその切実さが込められていたはずだ。いや『バイバイ、エンジェル』だけではない。
 『哲学者の密室』においてヴェルナーが語っていた「倫理」、そして笠井自身のミステリー評論や社会運動でも見られた「倫理」……。
 なぜ笠井が、常に本格ミステリーの最前線に存在し、現在も重要な作家であり続けるのかの答えがここにあるだろう。
 さて、衰退が叫ばれて久しい「本格ミステリー」というジャンル。これに果たして未来はあるのか?
 ここでは、「ある」と断言したい。
 笠井が『バイバイ、エンジェル』において、「連合赤軍」を忘れ去ろうとする「時代」に抗い、渾身の力で提示しようとした「倫理」、そしてその「時代に対しての切実な試み」は、形を変えて日本の現代ミステリーに正しく引き継がれているように思われる。であるならば、本格ミステリーが消え去ることは決してないだろう。
 人間の「倫理」を置きざりにしていく「進歩」に対抗するヒントが、「本格ミステリー」にはあるはずだ。

結論

正義をその核心に抱き、ただ人々の解放のためにのみ闘うという献身と自己犠牲に満ちた運動が、逆説的にも悪と犯罪と誤謬を全身から滴り落としているのを見る時、人は多かれ少なかれ絶望的な気分になるものだ。(注63)

 ここまでの考察をまとめよう。
 「笠井潔」とは、この「絶望」から出発した作家である。
 しかし、笠井の「倫理」は、この「政治の季節」が帰着した「連合赤軍」という「絶望」から目をそらさず、それを自らの、そして自身の世代の「有責」であると受け取り、人間の歴史的暴力である革命と、テロリズムへ至る「観念倒錯」の理論へと展開した。さらに、その「批判」の先の「哀歌」そして「希望」を語るために、「本格ミステリー」という形式、そして「ナディア」という視点人物などが論理的に選ばれていることがわかる。
 また、ミステリーのなかでも、この「本格」とよばれる形式は、20世紀という大量死の時代に死者の尊厳を奪い返すという「倫理」的性質を背景に発展し、時代への抵抗と「倫理」の試みを切実に希求した笠井の想いに応えたのだ。
 笠井が「本格ミステリー」を求めたのは、偶然ではなく必然であった。
 以降も、笠井はこの「倫理」を貫き続けながらも、その「倫理」や「本格ミステリー」自体を貪欲に更新させながら、現在にいたるまで本格ミステリーの世界をも越えた影響力を放ち続けている。
 そして、現代ミステリーは現代のネットに顕著な、真実を軽視するポスト・トゥルースの時代にこそ、その本質を前景化し、「倫理」を置き去りにする反射的で「考えない」速度に抵抗し、カウンターになりうる「深く考え続けるため」の試みを常に繰り返している。
 その「置き去りにする時代」に対する、抵抗の試みの先駆としても『バイバイ、エンジェル』は存在し、徹底した「観念批判」の先に理想や信念を打ち砕かれた者や、傷つけあった魂たちを「救済」しようとする視線が貫かれている。
 この、笠井の「倫理的な熱」は、いつの時代も「絶望」に打ちひしがれる者の心に届き、再び生へと立ち上がらせる力になり続けるはずである。
 「政治の季節」の中心にいた彼が「徹底的」に自己や時代を「批判」しなければ到達することのできない〈哀歌〉そして〈希望〉にそれはなったのだ。
 なによりも、そう、「彼女」の名がそれを表している。
 「Nadia(ナディア)」は、 ロシア語名、Nadezda(ナヂェージュダ)の愛称から来ており、その意味は「望み(hope)」、そう、


「希望」である。(注64)


(最後まで読んでいただきありがとうございました)


  1. ゲーテ、高橋義孝訳『ファウスト(二)』新潮社、1968年2月25日発行、pp.458₋459

  2. 田中博「バイバイ、エンジェル」浅井清・佐藤勝『日本現代小説大事典増補縮刷版』2009年4月10日発行、p.811を参考に適宜まとめた。

  3. 笠井潔―コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)

https://kotobank.jp/word/%E7%AC%A0%E4%BA%95%E6%BD%94-1516818(2020年11月24日閲覧)を参考に適宜まとめた。

  1. 笠井潔「私の隠し玉&私の宝物」『このミステリーがすごい!』編集部・編『このミステリーがすごい!2014年版』宝島社、2013年12月23日第1刷発行、p.61を参考に適宜まとめた。

  2. 笠井潔『新版テロルの現象学 観念批判論序説』作品社、2013年2月5日印刷、pp.466~467

  3. 小阪修平「観念の外部という「観念」―『テロルの現象学』」『両翼の騎士 笠井潔の研究読本』北宋社、1985年5月5日発行、p.32を参考に適宜まとめた。

  4. 笠井潔、押井守『創造元年1968』、作品社、2016年10月10日発行、を参考に適宜まとめた。

  5. (注7に同じ)p.84

  6. 笠井潔『バイバイ、エンジェル』創元推理文庫、1995年5月19日発行、p.9

  7. 遠藤利明「『巨匠とマルガリータ』と〈悪魔を憐れむ歌〉」『ROCKJET 2005 SUMMER vol.20特集ローリング・ストーンズ ベガーズ・バンケット』2005年6月22日発行p.37を参考に適宜まとめた。

  8. (注10)に同じ。p.35を参考に適宜まとめた。

  9. 江戸川乱歩「探偵小説の定義と類別」(1950)『幻影城』光文社文庫、2003年11月20日発行、p.30

  10. Mick Jagger/Keith Richards、America Austin 新対訳「悪魔を憐れむ歌Sympathy For The Devil」The Rolling Stones 『Beggars Banquet』ロンドンレコード、1989年4月25日発売(国内盤)、ライナーノーツp.6

  11. 森博嗣「森博嗣のルーツ・ミステリィ100」『森博嗣のミステリィ工作室』講談社文庫、2001年12月15日発行、pp.170-171を参考に適宜まとめた。

  12. (注9)に同じ。p.80

  13. (注12)に同じ。p.30

  14. (注12)に同じ。p.33

  15. 綾辻行人「付録 矢吹駆へのオマージュ 本格ミステリーとしての矢吹駆シリーズ」笠井潔『天使/黙示/薔薇 笠井潔探偵小説集』作品社、1990年12月25日発行、pp.2-4を参考に適宜まとめた。

  16. 飯城勇三『数学者と哲学者の密室 天城一と笠井潔、そして探偵と密室と社会』南雲堂、2020年9月23日発行、pp.74-79を参考に適宜まとめた。

  17. (注9)に同じ。pp.148-153を参考に適宜まとめた。

  18. 小森健太朗『探偵小説の論理学-ラッセル論理学とクイーン、笠井潔、西尾維新の探偵小説』南雲堂、2007年9月14日第1刷発行、pp.141-152を参考に適宜まとめた。

  19. (注19)に同じ。pp.112-120を参考に適宜まとめた。

  20. (注9)に同じ。p.182

  21. (注12)に同じ。p.30

  22. (注9)に同じ。pp.194-196

  23. (注9)に同じ。p.270

  24. (注5)に同じ。参考に適宜まとめた。

  25. (注19)に同じ。P.125

  26. (注9)に同じ。p.383を参考に適宜まとめた。

  27. (注19)に同じ。P.26を参考に適宜まとめた。

  28. (注9)に同じ。p.367

  29. (注9)に同じ。p.366

  30. (注5)に同じ。P.168

  31. (注19)に同じ。P.127を参考に適宜まとめた。

  32. (注9)に同じ。pp.358-359

  33. (注9)に同じ。p.361

  34. (注9)に同じ。p.370

  35. (注19)に同じ。pp.128-129

  36. (注9)に同じ。pp.377₋378

  37. (注9)に同じ。pp.385₋386

  38. (注9)に同じ。pp.203-204

  39. (注9)に同じ。p.386

  40. (注19)に同じ。pp.85₋88を参考に適宜まとめた。

  41. 笠井潔『熾天使の夏』、講談社文庫、2000年12月15日発行、pp.9-10

  42. (注9)に同じ。p.11

  43. 笠井潔『哲学者の密室』、創元推理文庫、2002年4月12日発行、p.1151

  44. (注46)に同じ。p.681

  45. (注46)に同じ。pp.682-3

  46. (注46)に同じ。p.1047

  47. 笠井潔「序章 探偵小説という時代精神」『探偵小説論Ⅰ 氾濫の形式』東京創元社、1998年12月15日発行、p22

  48. 笠井潔「第一章 世界戦争の小説形式」『探偵小説論Ⅱ 虚空の螺旋』東京創元社、1998年12月15日発行、p26を参考に適宜まとめた。

  49. 法月綸太郎「笠井潔論」笠井潔編『本格ミステリの現在』東京創元社、1997年9月20日初版発行、pp.50-51を参考に適宜まとめた。

  50. (注46)に同じ。pp.1158-1159

  51. (注46)に同じ。p.1160

  52. 笠井潔「『容疑者Xの献身』は難易度の低い「本格」である」(2006)笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、2008年11月28日発行、pp.133-139を参考に適宜まとめた。

  53. 笠井潔「勝者と敗者」(2006年)笠井潔『探偵小説は「セカイ」と遭遇した』南雲堂、2008年11月28日発行、pp.140-149を参考に適宜まとめた。

  54. 笠井潔「第1章「8・30」の光景を背景に」(2015年)笠井潔、野間易通『3.11後の叛乱 反原発・しばき隊・SEALDs』集英社新書、p.27

  55. ヴァルター・ベンヤミン、山口裕之編訳「歴史の概念について Ⅸ」『ベンヤミン・アンソロジー』河出文庫、2011、pp.367-368

  56. ポスト・トゥルース―コトバンク、大迫秀樹「知恵蔵」朝日新聞出版発行、2017年

https://kotobank.jp/word/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9-1748296 (2021年11月26日閲覧)を参考に適宜まとめた。

  1. 藤田直哉『娯楽としての炎上 ポスト・トゥルース時代のミステリ』南雲堂、2018年9月19日第1刷発行を参考に適宜まとめた。

  2. (注60)に同じ。pp.17-18

  3. 笠井潔『例外社会の道化師 ポスト3・11文化論』2020年11月12日第1刷発行、pp.281-302を参考に適宜まとめた。

  4. (注9)に同じ。P.369-370

  5. エリック・パートリッジ、吉見明德『英米人名語源小辞典』春風社、2021年3月22日発行、P.114を参考に適宜まとめた。


参考文献

・笠井潔『サマー・アポカリプス』創元推理文庫、1996年3月22日

・笠井潔『薔薇の女』創元推理文庫、1996年6月28日

・笠井潔『哲学者の密室』創元推理文庫、2002年4月12日

・『ユリイカ1999年12月号ミステリ・ルネッサンス』青土社1999年12月1日

・ゲーテ『ファウスト(一)』新潮社、昭和42年11月25日発行、

・ブルガーゴフ、水野忠夫訳『巨匠とマルガリータ(上)』2015年5月15日発行

・〃『〃(下)』2015年6月16日発行

・カール・マルクス、フリードリヒ・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳『共産党宣言』2008年4月15日第88刷発行

・エラリー・クイーン、鮎川信夫訳『Xの悲劇』創元推理文庫、2010年11月19日105版

・エラリー・クイーン、鮎川信夫訳『Yの悲劇』創元推理文庫、1999年3月5日108版


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