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far eastからNew Orleansへ飛ぶ

――by Drifter(Koji Shiraishi)
Tokyo Sports Press Newspaperに約20年在籍。プロレス、ボクシング、ゴルフ、サッカー、アメリカン・フットボールなど、話題性のあるスポーツに深く切り込んだ。――My㊙取材メモから――

【アリは復活する‼】

 アリvs猪木戦から二年が経過した1978年の初夏。私はSデスクと企画がらみの雑談をしていた。
「アリはどうした? もう引退なのかな?」
 Sデスクがパイプをくゆらせながら、つぶやいた。
 この年の冬、2月15日、ネバダ州のウエストゲート・ラスベガスで、アリはレオン・スピンクスの挑戦を受けて防衛戦。予想は圧倒的にアリ有利であった。10-1ぐらいだったか。ミュンヘンでの「ダンに賭けたら億万長者だ。可能性は無いが」を思い出した。
 しかし、結果は15回フルに戦い、1-2のスプリット・ディシジョンでアリは敗れた。大番狂わせだ。大儲けした人はいたはずだ。大金の動くヘビー級ボクシング。時々、首をかしげる事が起きていた。
「いや、確証はありませんが、何となく、もう一度返り咲くためのストーリーのような」
「確かにな。ヘビー級の歴史はいろいろあるからなぁ」
 Sデスクは腕を組んで、少し考え込んだ。
 WBA・WBC王者スピンクスはラリー・ホームズの挑戦を拒否したので、WACの王座をはく奪された。9月15日、ニューオリンズのスーパー・ドームでWBA世界ヘビー級王者として、アリの挑戦を受けることになっていた。
 アリの宿舎はミシシッピ川のフェリー乗り場に隣接するニューオーリンズ・ヒルトン。試合はこのヒルトンの10周年記念もかんでいた。
 アリの三度目の王座奪還。史上初の偉業。アリが負けたら絵にならない……。
「ということは、だ。かなりの確率でアリが復活するってことなんだな」
 Sデスクは言った。もやもやが晴れたような顔だった。
「ヒルトンで、アリの部屋になんとか潜り込んで、また独自の取材をやりましょう」
 私も何だかパズルが解けたような気持になり、ちょっと気合が入って来た。
「一丁やってみるか。カメラマンも付けて、アリ戦が終わったら、プロレスのメジャー・スポットを取材してくれ」
 ニューオーリンズを柱にした、米国取材が決まった。相方は写真部のデスクのKさん。アリvs猪木戦の時、前取材で混乱の中を動き回って額を切り、血まみれになってシャッターを切りまくった猛者。残念ながら、この人もSデスクの後を追うようにして他界された。お世話になりました。
 1978年9月の上旬、サンフランシスコ経由で、ニューオーリンズへ入った。エアポートから、アリを主役扱いの"Super Fight in Super Dome”のデコレーション。街中も。えッ!? まだ試合前だぜ。
 取材に関しては、日本で申請なども済ませていたので、すべてスムーズ。
 練習をレポートしながら、旧知となったアンジェロに挨拶。「何とかアリの部屋で軽くインタビューしたいと思っているのですが」と伝えると、軍団の一人、黒人のB氏を紹介してくれた。そして、「東京からの友人だ。アリのインタビューを助けてやってくれ」と。
 私とKカメラマンは、このスタッフのアレンジでニューオリンズ・ヒルトン10回のアリのスイートルームへ入ることができた。

【How are you doing?  Greatest】

 アリは大きなベッドに座って、家族と団らん中だった。輪の中のひと際美しい女性は、三度目の妻、ベロニカ・ポルシェだ。手品師がトランプを神業的に操っていた。その度に嬌声が上がっていた。
「Tokyo からだって? どこかで会ったかな? えッ!? ミュンヘンとTokyo……そうだったか」
 アリはご機嫌のようだった。
「練習を見てますが、軽そうですね」
「当たり前だ。勝つために来ているんだ。今度は俺に賭ければ儲かるぞ」
 こんな会話を交わしているうちに、30分が過ぎてしまった。この時も得意の「5分でいいから」が切り口だった。Kカメラマンはプライベート・タイムのアリを撮りまくっていた。材料は十分だった。
 アリの部屋を出た。エレベーターに乗ってKカメラマンは大きく息を吐いた。
「凄いカットがたくさん撮れた。これから現像に行って、東京へ送る。腰を抜かすだろう」
 興奮冷めやらぬ、Kカメラマンの声は弾んでいた。

【ワンカット100$では?】

 我々はタクシーでAFP(Agence France Presse)のニューオリンズ支局へ向かった。Tokyo Sports Pressはこの通信社と契約関係にあり、あらかじめ、現像と電送の便宜を図ってもらうことになっていた。
 AFPは、ニューオリンズ・オフィス街の真ん中あたりにあった。
 支局に入り、名刺を出して仁義を切った。支局長、フォト・キャップが親切に対応してくれた。Kカメラマンは5~6本のフィルムを渡して、まずは現像を頼み、上がったところで、東京へ送る5~6枚を選定することになっていた。
 私の仕事は段取りをつけるところまで。後はKカメラマンに任せて、私は街へ散歩に出た。
 30分ほどで支局へ戻った。すると、Kカメラマンが私の腕を取って、暗室へ連れて行った。「どうしました?」と聞くと、引き伸ばし機のそばにAFPのフォト・キャップが、現像から上がったネガを握って、こちらを見た。
「あのねぇ、アリの写真なんだけど、東京で使わないやつ、ワンカット100でどうかって話なんだ」
 Kカメラマンは、「どうする?」と何度か聞いてきた。どうする? と言われてもねぇ、会社の出張費で来て、機材もフィルムも、会社のギャラの中で仕事をして、出てきた結果。どう考えても横流し。言わなきゃばれない。10カットも流せば1000ドル。フレンチ・クオーターで一騒ぎできる……いや、こうした話は簡単にバレる。飲んで酔えば、「ここだけの話」になるからだ。
 仕方ない。私はフォト・キャップにこちらの考えを説明した。
「OK, OK。無理を言って悪かった。忘れてください」
 フォト・キャップは笑顔を作って、詫びた。こちらも何だか申し訳ない気持ちになった。目をつぶってアリの写真を横流ししていれば、通信社として、良い思いができたのではなかったか。
 1978年9月15日、ニューオリンズのスーパードームでアリは復活した。レオン・スピンクスを15ラウンドの判定で破り、史上初の三度目のWBA王座奪還となった。
 予想通り。しかし、なぜか、やったぜ‼ という感情は湧いてこなかった。

 1964年2月25日、マイアミ・ビーチのコンベンション・センターで、アリは無敵・最強と言われたソニー・リストンを7回TKOで破って、WBA・WBC王座に着いた。大番狂わせ。リターン・マッチは1965年5月25日、メイン州ルイストンのシビック・センターで行われ、1回2分12秒、アリの右ストレートが炸裂してKO勝ちとなった。この試合には謎が残った。APのカメラマンが撮った写真は「アリのパンチは当たっていない」と。真相は分からない。リストンはその後、アルコール依存になったも言われ、1971年6月5日、自宅で変死体で発見された。ヘロインが発見され、腕には注射痕が残されていた、という。
 1974年10月30日、ザイールのキンシャサでもアリは奇跡を起こした。無敵・最強のジョージ・フォアマンを8RKOで葬り、WBA・WBC王座に返り咲いた。この時は、試合前、夜な夜なアリ陣営の誰かがフォアマンに電話で囁き続けたという。
「スパーリング・パートナーで雇ってやった恩を忘れるな」
 精神のバランスが崩れそうになったフォアマンは、試合をキャンセルして出国を試みたが、ザイールの保安局にやんわり止められた、とも言われている。

 だから、"ニューオリンズの奇跡”にストーリーがあったと言うわけではない。しかし、ヘビー級の歴史を辿ると、謎と思われるポイントがいくつもある。番狂わせは大きなお金が動く。競馬の大穴である。
 アリが三度目の王座返り咲きを果たした後、ニューオリンズ・ヒルトンのロビーはお祭り騒ぎだった。
 私はもう一度、アリに会いたいと思い、Kカメラマンとともにエレベーターに向かった。しかし、地元の警察官が立ち、使用不可であった。私たちは非常口の扉から入って、業務用のエレベーターに乗った。何とノーマークでアリのいる10階へ。非常口から廊下へ出ると、アリの部屋の前は地元警官がガードしていた。
「中へ入れてもらえませんか? 知り合いがいます」
「誰も入れないことになっている」
「そこをなんとか」
 粘っていると、警官は拳銃を抜いて、
「怪我をしないうちに、下へ降りてください」と。
 すべてはここまで。私たちは喧騒のロビーに戻った。アジア系の男性が近づいて来て、言った。
「アリの所から出て来られたのですね。どんな様子なのか、教えてくれませんか?」
 男性は売り出し中のノンフィクション作家のK.S.だった。
 私はありのままを伝えた。彼は小さくうなずき、礼を言って、喧騒の中へ消えた。
 さあ終わった。ホテルの外へ出た。フェリー乗り場。大きな蒸気船が動き出したところだった。CCR(Cleedence Clearwater Revaival)のProud Maryが聞こえてきそうだった。
 アリに直接あったのは、ニューオリンズが二度目で最後であった、
 1981年12月11日、バハマのナッソーでトレバー・バービックに敗れて引退。
 1984年、パーキンソン病と診断され、闘病生活に入る。
 2016年6月2日、74歳で逝去。
 もう一度会って、話を聞きたいと思っていたが……。
 


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