見出し画像

1978年秋、呪われる前の”鉄の爪"を訪ねた。ダラスのオフィス。「ちょっと来てくれ」「Yes sir‼」ブルーザー・ブロディは直立不動で、ボスの前に立った。

――by Drifter(Koji Shiraishi)。Tokyo Sports Press NewsPaperに約20年在籍した。1978年9月15日。ニューオーリンズでモハメド・アリの三度目の世界王座復帰を見た。そしてアメリカン・プロレスを探る旅に出た。

【大先輩からの電話】

 2024年4月中旬、車を走らせていると、携帯電話が鳴った。発信元は大先輩、プロレス界のレジェンド的存在、T.Mさんだった。
「あのさぁ、5月の上旬に、藤波辰巳とトークショーやることなったんだけど、空いてませんかって電話です。有料なんで席を埋めないと……」
 そんなに忙しいわけではないので、もちろんOKした。トークショーは巣鴨の闘道館特設ステージだった。
 さらに大先輩は、
「ところでさ、鉄の爪の映画観た? まだやってると思うけど、この前行ってきたんだ。よくできてんじゃないかな」
 と、アイアンクローの映画についてひとしきり。
 ”鉄の爪”フリッツ・フォン・エリック、呪われた一家のストーリーは、『アイアンクロー』という表題で、TOHO CINEMAS系で上映された。
 私は早速、その週末、新宿のTOHO CINEMASで、ワイフと一緒に『アイアンクロー』を観た。プロレスを知らない人でも、「どこまで本当なの? えッ!? ほとんど本当?」と興奮していた。知っていれば、なおのこと、「よく調べたもんだ」となる。
 私は後者の方で、映画の登場人物の”実際モデル"ほとんどに会っているのだ。NWA世界ヘビー級王者として、ハリー・レイスも出ていた。北海道の巡業、たぶん伊達紋別あたりだったか、レイスとサシで飲んでからみ、あっさり、占め落とされてベッドへ運ばれたこともあった。
 
 アメリカのプロレス取材旅行でのいくつかの場面が、つい昨日の事のように蘇ってきたきた。
 Tokyo Sports Pressの第二運動部に所属ていた私だが、プロレス取材に比重を置いていたわけではなかった。普段はサッカー、球技、アマチュア・レスリングなどを中心に取材活動。大物外人が絡むと"英語が使える"ということで、登板した。モハメド・アリを中心としたヘビー級ボクシングも、その範疇だった。

【ニューオリンズからダラスへ】

 1978年9月16日、アリがニューオリンズのスーパードームでWBA王者レオン・スピンクスを15回判定で破り、三度目の王座復帰を果たした翌日、私と写真部のSデスクはテキサスへ飛んだ。ダラスのフリッツ・フォン・エリックに電話を入れて、取材のアポはとっていた。この時はまだ運転免許を持っていなかった。運転不可でアメリカ取材はなかなか無謀。タクシーと地元プロモーターのご厚意に甘えた。ダラスはホリデイ・インに宿をとった。ケネディ暗殺の教科書倉庫も近かった。
 アメリカに慣れると、ホリデイ・インも手軽な安宿の一つなのだが、最初は「中庭にプールもあって、なんて贅沢な……」と思った。
 翌日、タクシーで15分くらいの所にあった、鉄の爪のオフィスを訪問した。
「ニューオリンズから? そうでしたね。何でも言ってください」
 鉄の爪のオフィスはリングと少人数だが、観客席ががあった。
「ここで宣伝用のテレビ素材を撮ったりするんだ」
「テキサスを何ヵ所か回りたいと思ってます。スター候補がいたら教えてください」
「OK‼ ちょうどいい、今とレーニングしているから、呼ぼう」
 鉄の爪は若手スタッフに目配せした。直後、ドアが開いて、長髪、ひげ……粗暴な感じの大男が足早に近づき、直立不動の姿勢をとった。
「Yes Sir‼」 
 売り出し中のブルーザー・ブロディだった。
 Sカメラマンは早速、いくつかのポーズをリクエストして、シャッターを切った。
 ブルーザー・ブロディ。本名=フランク・ドナルド・ゴーディッシュ。ユダヤ系のアメリカ人。ウェスト・テキサス州立大学ではフォットボール選手。先輩にスタン・ハンセン、ドリー、テリーのファンクスらがいて、ある意味名門だ。
 カレッジ・フットボールではスターだったブロディ。NFL(National Football League)の強豪、ワシントン・レッドスキンズのサマーキャンプに呼ばれたが、チーム昇格はならなかった。地元の新聞記者をやったり、腕力を買われて酒場の用心棒……1974年に鉄の爪の範疇、フォートワースでデビュー。76年にブルーザー・ブロディに改名。これを機にニューヨークのマジソンスクエア―・ガーデンでブルーノ・サンマルチノのWWWF王座に挑戦して、存在感が爆上がり。77年、ダラスでフリッツ・フォン・エリックのNWAアメリカン・ヘビー級王座に挑戦して、これを奪取した。
 要するに、"テキサスのドン"の一人、鉄の爪の"代打ち"に指名されたようなものだった。
 この流れで79年1月には、ジャイアント・馬場の全日本プロレスへ初来日している。この後、日本のマットではリングの内外で暴れ回り、団体を渡り歩くようなことになるが、ここでは触れない。

「日本のマットにも乗り込むつもりだ。馬場によろしく伝えてくれ」
 別れ際、ブロディはそう言って握手を求めて来た。前述したように、私はそれほどプロレスを取材するわけではなかったので、ブロディと話したのはこれが最初で最後になってしまった。
 88年7月16日、ブロディはプエルトリコのマットに上がっていたが、ブッカー兼任のホセ・ゴンザレスと口論になり、刺殺されてしまった。
 呪われた鉄の爪一家……この前年、エリックの五男、マイク・フォン・エリックが自殺している。毒素性ショック症候群を押さえるために精神安定剤を日常的に飲んでいたが、この時は過剰に……。

「サンアントニオへ行けば、デビッドが出ている。連絡入れておくよ」
 鉄の爪は次の取材をアレンジしてくれた。
 デビッドは地元の高校で、バスケットバールとアメリカン・フットボールの"二刀流スター"。ノース・テキサス大学に進んだが、中途退学して、レスラーになった。77年にデビュー。2mの体格は逸材。鉄に爪の意思が強く働いたことは間違いなさそうだった。

 エリックの手配に乗って、サンアントニオへ飛んだ。試合前、お上りさん的にリバーサイド・ウオークをぶらつき、アラモの砦も見学した。
 ベッスレー・スタジアムで、デビッドに会った。
「親父から連絡もらってます。ご希望があれば何なりと。今日の試合は荒れるかも」
 デビッドはメーンに登場した。イケメン。黄色い声援も飛んでいた。試合は最初から荒れ模様。リング外にもつれること何度か。そしてハプニングが起こった。凶器で額を傷つけられたデビッド。相手選手が凶器を再度額めがけて振り下ろそうとしたとき、デビッドは何を思ったか、起き上がりかけた。おそらく凶器が深く入り過ぎた? デビッドの額から、鮮血が吹き上がった。すぐさま、ゴングが乱打され、デビッドは控室へ運ばれた。
 プロレスの試合の展開を超えていた。控室を覗いたが、デビッドの周囲は血の海。話をできる状況ではなかった。救急車が呼ばれた。
 84年2月10日、デビッドは全日本プロレスに参戦していたが、宿舎のホテルで冷たくなっているところを発見された。当初から、薬物がらみが噂されたが、この時の渉外担当のYさんは外務省関係に強いコネクションを持っていたようで、それによって"事件性無し"の処理がなされ、"内蔵疾患により"、となった。25歳の若さだった。

【次はアマリロだ】

 我々は、当時は便利だったDeltaの周遊チケットを持っていた。コースをだぶらなければOKで、正規の料金の半額程度だったか。一時間強……居眠りする間もなくアマリロに着いた。お得意の? ホリデイ・インに入った。
 連絡を入れておいた、Western Sportsからスタッフが来てくれて、まずはファンクスのマイホームへ。Western Sportsはファンクスの父ファンク・シニアが仕切っていたが、死後、ディック・マードックとボブ・ウインダムに引き継がれたようだった。
 二人は少し郊外の牧場に住んでいた。アマリロは小さい街でダウンタウンから車で15分も走れば、郊外だった。ドリーは仕事で不在のため、テリーの家へ。ちょうど母屋を建設中でトレーラーハウスに住んでいた。
「広い牧場ですね」
「そうだね、車で案内しましょう」
 車が走り出したので、訊ねた。
「どの辺まで敷地なんですか?」
「あのねぇ、向こうに小高い山があるけど、その手前あたりを一周する感じかな」
「へ~」
 としか答えようがなかった。ちょうど私は、両親が建てた家を二所帯住宅に建て替えようとしていたのだが、50坪弱の敷地に何坪の家が建つのか……と悩んでいたものであった。何ともはや……。 

 アマリロの試合会場は市内のスポーツ・アリーナである。受け付けにWesten Sportsのスタッフが待っていてくれて、リングサイドに案内された。"テキサス・ブロンコ"ファンクスの出場はなかった。

【謎の東洋人……Mr.Pogo】

「メーンは荒れるかも分かりません。流血ファイトの東洋人、ミスター・ポーゴが乱入しそうです」
 若手のスタッフはパンフを渡しながら、教えてくれた。
 ミスター・トージョーというのは、テキサスでは憎まれ役の東洋人のリングネームとしては、代名詞。第二次世界大戦で、日本軍との激戦経験を持つ者が少なくなかったので、東条英機を思い起こさせる、ミスター・トージョーである。アメリカのマットに上がった日本人レスラーの何人かが、このリングネームを使っていたはずだ。

 しかし、ミスター・ポーゴとは? パンフの血ダルマ写真では国籍は分からなかった。
 メーンエベントは、情報通り、流血の大乱戦となった。ミスター・ポーゴは額を割って大流血。対戦相手も道連れにして、場外戦。”謎の東洋人”の反則負けとなった。さて国籍は?
 我々は控室に行った。ミスター・ポーゴは額の傷の手当てをしていた。
「Nice fight‼」
 と声をかけた。すると、
「お疲れ様です‼ 日本からですか?」
 何と正体は日本人であった。
「おッ!? 関さんじゃないの」
 Sカメラマンが相好を崩した。
「ポーゴっていうから、誰だか分かりませんでしたよ」
――本名=関川哲夫。51年2月5日生まれ、群馬県伊勢崎市出身。中学、高校で柔道で活躍。その線で中央大学法学部へスポーツ推薦で。水が合わなかったのか、退学して二所ノ関部屋入門。目が出ずに新日本プロレスに入門。72年3月20日、藤波辰巳戦でデビューを果たすが、"鬼軍曹"山本小鉄とそりが合わずに、解雇される。――日本では大仁田のプロレスにも関係した。2017年6月23日、全身麻酔で膝の手術。不整脈を引き起こし、帰らぬ人となった。66歳。合掌。

 私は、細かい話を訊きたくなった。ポーゴもウエルカムのようだった。
「どうですか、これから私の家へ来ませんか。ビールでも飲みながら」
 ミスター・ポーゴは気さくに誘ってくれた。ビール、いいね。車で20分ほどの”ポーゴ邸”にお邪魔した。
 ポーゴ邸……元気な女性が出迎えてくれた。
「奥さんでしたか。初めまして」

 実は関川と話すのはこの夜が最初であった。
「何か、こっちの水が合っていそうなんですよ。お客が受けてくれれば、ブッカーも、あまり細かい事は言わないし」
「そうなんですよ。日本は上下関係とか、仕事以外の所でも、あれこれ気を遣わなければいけない……かな」
「奥さんも大変ですね」
「私も彼の事を応援したくて、家では反対されたんですが、駆け落ちみたいな感じで」
 ポーゴの奥さんも、結構気合が入っている人のようだった。会話の中に根性も入った英語が混じる。実家は伊勢崎の、老舗的呉服屋さんだったようだ。
 バーベキュー・スタイルで肉を焼いてもらい、ビールを飲んだ。やはり、日本語での取材は楽だ。肉もビールも美味しい。
「ところで、ポーゴって何ですか?」
「それがねぇ、笑っちゃうんだけど、アマリロに来るにあたって、セールスもあって、リングネームを訊かれたんですよ」
「で、私はラフファイトが売りだし、テキサスだから、当然、マイネーム・イズ・トーウジョーって電話で。向うがラジャーって言ったから、安心してたら、ポーゴになってたんです」
 アメリカで電話で名前を伝えたりするときは、電報のように字解きをしたものだが……まぁポーゴでも、お客さんが熱くなっているのだから、それはそれで良いのではないかと思った。
 翌日、アマリロの衛星会場の試合に同行させてもらった。ダウンタウンから1時間くらい郊外へ出た、高校の体育館だった。
「荒れるのは間違いないから、お客さんがいなくなるまで、私に近づかない方が良いですよ」
 この高校はアマリロから南にメキシコ寄りだった。
 ポーゴの流血ファイトに、相手のメキシコ系レスラーも血まみれ。試合中、何度か、メキシコ系の若者がリングに突進しようとしては、関係者に鎮圧されていた。
 試合はもちろん? ポーゴの反則負け。控室に行くと、いつものようにセルフ治療していた。
「Nice fight‼」
「お疲れ様です。しばらく控室から出ないでください」
「えッ!?」
「危ないメキシカンがいるようです。体育館の外で待ち伏せしているかも」
 土地柄、血の気の多い人が多いとのこと。だから、逆にそこをくすぐれば会場は沸いて、良いビジネスができるというわけである。
 控室で様子を見ていると、警備の人が呼びに来た。今ならOKでは……と。
 私とSカメラマンはポーゴの背中に張り付くようにして、小走りに。体育館の非常口から車へ急いだ。襲撃は無かった。ポーゴ自身、これまで何度かナイフで襲われそうになったり、ガソリン・スタンドで給油を拒否されたりしたこともあったそうだ。売れっ子は辛い?
 この夜も、ポーゴ邸でご相伴に預かった。ビールを飲みながら、日本での再会を約した。しかし、叶わぬままとなった。

【タンパでの危ない話】

「えッ!? アマリロにいるの? 終わったら、いつでも来なさい。エアポート、迎えに行くよ」
 タンパでは、"レジェンド"デューク・ケオムカさんのお世話になった。22年4月22日、サクラメント生まれの日系人で、本名・田中久雄。50年代にはあのルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に何度か挑戦。60年代はテキサスで鉄の爪と抗争を繰り広げた。戦争の傷跡を心に残すテキサス人を、憎々しい東洋人として煽った。ケオムカさんはヒールだけでなく、ベビーフェイスとしても、人気を博した。アメリカ・マットでの日系人レスラーとしては、やはり"レジェンド"というべき存在だった。
 ケオムカさんの自宅は、タンパ市内である運河沿いにあった。中庭にプール、勝手口を出た運河には専用のマイボートとポートがあった。
 私とSカメラマンがお邪魔したときは、57歳になっていて、すでに現役は引退、おそらくNWAの株を持ってブッカーとプロモーターとして、フロリダ地区のプロレスを支えているようだった。
 アメリカで一時代を成すと、こんな生活が待っているのか。こちらも日系人だがと思うが、今さら、年齢的にはレスラーにはなれない。
「素晴らしいお家ですね。若いころの苦労が……」
「戦後の日系人だからね。憎しみをバラまいて仕事するわけだから、危ない事も何度もありましたよ」
「今は完全に引退されて、のんびりですか……」
「そうねぇ、朝起きて、軽く泳いで。昼、天気が良ければ釣りに行くかな。時々裏方の仕事(ブッカー&プロモーター)があるからね」

 居間にはビリヤードのポケット台があった。
「一勝負やりませんか?」 
 息子のパットが言って来た。row ballとhigh ballを選択して、最後にブラックの8を落とした方が勝ちというゲームだ。ビリヤードには少しばかり、自身持っていたが、勝負はトントンだった。ケオムカさんは笑って見ていた。
 このパットは91年に新日本プロレスの留学生となってデビューしたパット・タナカである。猪木はアメリカ修行時、やはりケオムカさんにフォローしてもらった"恩義"があったのだ。
――デューク・ケオムカ。本名・田中久雄。91年6月30日、70歳で没。その節はお世話になりました。

 タンパではちょうど、高千穂&M.斎藤の日の丸チームが暴れ回っていた。タンパ二日目、ケオムカ邸で合流した。
 このコンビはペドロ・モラレスとロッキー・ジョンソンとNWAフロリダ・タッグ王座を争い、ダスティ・ローデス、ワーフ―・マクダニエル組とはUSタッグを争って抗争を繰り広げていた。言い換えれば、フロリダ・マットで主要メンバーとなっていたのである。
 私とSカメラマンは二人の試合に同行させてもらうことにした。
 ある日、タンパのダウンタウンから車で3時間ほどの某高校の体育館で試合があった。ハイウェイをガンガン走って、着いて着替えて、軽くトレーニングして、試合は15分程度で場外リングアウト。二人は着替えもせずに車に飛び乗って帰宅へ、また3時間のドライブ……。やっぱり地元の選手を痛めつけるわけだから、のんびり、ウロウロしていては危ないのである。
 ハイウェイをタンパに向かって……すると、二台の車が煽り運転を仕掛けて来た。一台は横に並んで窓を開け、嬌声とともに、白い尻を突き出していた。追っかけギャルである。一台の車に3人くらいの若い女の子が乗っていた。プロレスの追っかけは、ベビーフェイス派、ヒール派がいる。我々の車を煽って来たのは、もちろんヒール派だろう。日の丸コンビがフロリダで売れている証しでもあった。しかし、何ともはや、の光景であった。
 64年の東京五輪に出場経験もあるマサ・斉藤はタンパへは、"単身赴任"。明治大学レスリング部の後輩、タイガー・服部が、リングサイドで日本国旗を振るマネジャー役で一緒の行動が多かった。
――2018年7月14日、パーキンソン病との戦いの末、他界した。戒名も〈マサ・斉藤〉。合掌。

 高千穂は家族同伴出張だった。ある日の朝、御呼ばれして、お子さんたちとカレーライスをご馳走になった。しばらく日本を離れていたので、美味しかったこと。Big thanks‼
 この『アメリカン・プロレスの旅』を書くきっかけとなったのは、"レジェンド”T.M.さんからの電話だったのだが、闘道館のトークショーの第一弾のお相手が、高千穂ことグレート・カブキだったとのこと。何かのつながりを感じてしまう。
 事件もあった。タンパ最後の夜。地元の若手レスラーが2、3人来て、
「食事して、一杯やりましょう。音楽聴きながら……どうですか?」
 アメリカ音楽に揺さぶられて育った世代。誘いに感謝しながら、タンパの夜に繰り出した。ワインを飲んでステーキを食べた。2軒目はライブハウス。軽快にカントリーロックが鳴り響き、ホールでは若者がステップを踏んでいた。我々は隅のボックス席に座った。
「ちょっと気分を盛り上げましょうか? 合法のちょっとだけ外側にはみ出るけど、こっちじゃみんな適当に……」
 ちょっとまずくなってきたかな、と思ったが、郷に入れば……で様子を見ていると、若手レスラーはカウンターでベテラン・バーテンに何かささやいた。すると、バーテンは何かの入った小さな箱を差し出し、ウインクした。
「スムース……OK、軽く吸ってみて。もし気分が悪くなったら、すぐやめて」
 どうやら"葉っぱ”に間違いなさそうだった。これも、アメリカン・プロレスのネタになるかもしれない。万が一、当局系に見とがめられれば、ただでは済まない。しかし、この流れでは行くしかない。
 若手レスラーに言われるまま、吸い込んだ。何だ? 何ともない。
「何とも変わらないんだけど」
 と私は言いながら、ワインを飲んでは吸った。5分くらいすると、口が重くなった。席の他の人たちの輪郭が怪しい。ライブ演奏のリードギターの音が一つひとつ見えるような感覚になった。ギタリストの指が弦をチョークしているのが頭の中に見える。何じゃこれは? 席のみんなが笑っている。こちらの口は重い。
 気が付くと、傍らにインディアン系の若い女の子が立っていた。
「踊らない。何だか、誰かが、タンパのラストナイトとか言ってたし。プロレス会場にいたでしょ?」
 えッ!? えッ!? 追っかけの子だったのか? 口も体も重い。
「踊らないなら、帰るよ」
「明日はどうなの?」
 やっと言葉を絞り出して、笑顔を作って見せた。
「えッ!? ラストナイトだって言ってたでしょ?」
 そうなのだ。何を言ってんだ。すっかり、"特別なタバコ"にやられて、トンチンカンになってしまっていた。
 Sカメラマンの話では目の前のワインを飲み続けたそうで、正体不明で宿へ送られたようだった。翌朝の頭の痛かったこと。

【NWA本部へ】

 当時のアメリカのプロレスと言えば、総元締めはNWA(National Wrestling Alliance……連盟)。これに張り合うことなく、いくつかの団体があった。ただし、ヘビー級王座に"世界"という冠が付くのは、付けられるのはNWAだけだった。1930年9月に設立されていた。サム・マソニックという新聞記者が本業の男によるものだった。本部はミズーリ州セントルイスのワーウイック・ホテルだった。

 アメリカン・プロレスの歴史を肌で味わうために、ワーウイック・ホテルに泊まってみた。ダウンタウンにはあるが、NWA本部がある……でなければ、年季の入り過ぎているようホテルに泊まらなかったろう。
 部屋に入って一息つくと、アメリカ・マットにおける日本選手とは? というテーマが浮かんできた。
 まずは成功した人は? 米国修行と一くくりにして語られることがあるが、決してそうではない。プロレスラーの米国遠征は、学生の留学とはわけが違う。日本の団体から行先のプロモーターへの紹介はあるにせよ、到着後は自分の力で稼がなければならない。"ビジネス会話"はすぐにも覚えなければ、仕事にならない。
 色々な選手が海を越えてきたが……一番の稼ぎ頭はジャイアント馬場で間違いない。2m超の巨体でスピードがあり、受け身のうまさは絶妙。地元のベビーフェイスを引き立て役として、売れっ子だった。アメリカにいれば巨体も目立たないし、本人は日本医帰るつもりがなかったという話だ。力道山の急死で人生は変わった。
 そして、ついさっきまで一緒にいた高千穂、マサ・斉藤……この二人もアメリカで十分に仕事ができる実力派である。日系では、となれば、タンパでお世話になったデューク・ケオムカさん、ヒロ・マツダさんであろう。現在進行形であれば、今、メキシコで人気を博している小沢(後のキラー・カーン)。馬場同様、巨体でありながら、スピードがあって受け身がうまい。さらに、メキシカンよりメキシカンらしかったグラン・浜田……。

 リングに上がった時、お客さんが何を求めているかを瞬時に判断できるかどうか、ここが売れる・売れないのポイントではないだろか。体を使う前に頭を使っているのである。

――色々と考えてしまった。NWA本部と"呉越同舟"になったからだろうか。翌日、NWAの拠点の一つでもある、アイオワのデモンインへ。初めてGreyhoundに乗った。アメリカの映画のシーンで何度も出てくる交通機関。ちょっとワクワクしてセントルイスのダウンタウンのターミナルへ行ったのだが、まず「?」となった。明らかに違う光景が広がっていた。幾つもの荷物、小さい子どもも連れて……。
 大変だなぁと見ていたら、
「何で助けてくれないのさ‼」
 そのご婦人に叱られてしまった。
 そして、楽しみしていた"乗り心地"も決して快適なものではなかった。座席シートをリクライニングにしても、大きさと硬さがジャパニーズには合わなかった。背中がバリバリに張って、治療を怠っていた虫歯を刺激、痛みと腫れに見舞われてしまった。
 デモンインのホリデイイン。取材から戻って来て、ベッドに横になったが、眠れるはずもない。逆効果と知りつつ、アルコールに助けを求めるためにバーに行った。
「いらっしゃい、元気?」
「いや、疲れで歯が痛いんだ」
「OK, まかしてくれる?」
 ウエイトレスは、琥珀色の液体を入れたロックグラスを運んで来て、ウインクした。
「これがbest‼ ね」
 アイオワの地酒、スリップノットだった。地のトウモロコシとライ麦が原料で、40~45度の強いやつだった。一気に飲んだ。歯痛から逃れるために。お代わり。ウエイトレスは喜んでいた。三杯ほどで痛みが薄らいだ。部屋で眠りに落ちた。しかし、3時間ほどで目が覚めた。痛みは倍になっていた。

 この後、ロサンゼルスで、"ショットガン"アルバラードのマネジャー、ノリ・タカタニさんに会って米国ボクシングの情報を訊いた。普段はリトル・トウキョウで金物屋さんを経営していた。また、ガーデナーでは、新日本プロレスへ格闘技系選手の橋渡し役となっていた、ジョージ土門さんにも会った。この人は、FBIとつながっている民間人とも言われていたが、真相は分からない。
 この人たちは、日本選手のアメリカ遠征における"窓口"でもあった。馬場も猪木もアメリカ着で、まずはお世話になったのだ。
 おっと、ロサンゼルスで忘れてならないのは、カメラマンのS.Y.さんだ。Tokyo Sports Pressの写真部員として、キャリアのスタートを切ったが、63年(昭和38年)12月15日に力道山が他界すると、アメリカの取材に重点を置くロサンゼルス駐在員へ名乗りを上げた。力道山の死は一時的に新聞の売り上げにも影響を与えたが、超人、怪物、マスクマン……新鮮なアメリカのプロレスの情報は、売り上げに貢献することになった。Yさんはその後、本社に復帰。しかし、LA駐在期間は社歴にカウントしないなどの不運もあった。その後、小林ひろみ(現JLPGA会長)のアメリカ挑戦を機に退社。ゴルフ報道で活躍されたが、晩年病を患い、他界された。Tokyo Sports Pressを支えた功労者の一人だが、評価には恵まれなかった。

 アメリカン・プロレスに触れる旅の最後は、サンフランシスコで天竜に会った。ダウンタウンの寿司バーへ行き、食べて飲んで、仕事ぶりを訊いた。
「良いのか、悪いのか、よく分かりませんねぇ。相撲スタイルでちょっとは受けているんでしょうけど」
 自分の役柄は何なのか? 悩みの中にいるようだった。表情にも出ていた。しかし、この時期があったから、その後の大ブレーク、レジェンドへの道を歩むことができたのではないだろうか? 深い悩みを通り抜けたことで……。




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?