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1970年代から、ゴルフ界もバブルに包まれていた。その裏側で様々な人種が蠢いていた。経済人、反社、マスコミ、政治家……㊙取材メモを紐解いてみよう。

――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports NewsPaperに約20年在籍した。日本のゴルフ界はもちろん、米国PGA、LPGAの会員記者としても活動した。

【病院を取られた?】

「うちのメンバーさんがやられたらしいんですよ。賭けゴルフでね」
 1980年前半、埼玉県でも評判の良い、I.C.C.の支配人が語り出した。このゴルフ場はフロントの女性が、一度来場した人の名前を憶えていて、二度目には「○○さん、お早うございます」と。これも評判になっていた。
 支配人の話では、メンバーで埼玉県内で開業していたAさんが、ある日、面識のないメンバー、X氏(としておこう)と同伴プレーとなった。Aさんはハンディ10前後、アマチュアとしては上手な部類で、前半はほぼ互角の展開だったという。
 後半に入る前、X氏が、
「お上手ですね。授業料のつもりでチョコいきませんか?」と。
 売られたオニギリは買うべきだ――という"ゴルファー・イズム"もある。Aさんはそこそこのゴルファーだったから、気軽に受けた。
 チョコ一枚は100円が一般的だ。そもそも戦後のチョコレートが高級品だった頃、ゴルフ場の売店では板チョコが売られていたため、賭けの小道具になったという話もある。

 ラウンドは後半戦に突入した。一進一退。中盤からAさんが好調に進め、16番を終わって3ポイントの勝ち。
「いやいや、お上手ですね。ここはプッシュで」
「これならいける」
 Aさんは受けた。プッシュだから、もし17番を取られてもスクエア―になるだけである。勝てば倍だ。
 17番、Aさんは手堅くパーで、X氏はボギー。Aさんは6ポイントのリードになった。
「いや~悔しい。次もプッシュで願いますよ」
 Aさんは当然受けた。18番も同様に、AさんはパーでX氏はボギー。Aさんは12ポイントのリードでラウンドを終えた。
 チョコ1枚100円だろうから、1200円。開業医だから、”別に”ってくらいの金額だ。
 Aさんはシャワーを浴びて帰り支度をしていると、X氏が笑みを浮かべて近づいて来た。
「今日はありがとうございました。勉強になりました。チョコです」
 X氏は封筒を差し出した。
「いやいや、形だけですから、お収めください」
 A氏は封筒を戻そうとしたが、やはり、結局は受け取ることになった。後で明けてみると、1万2千円が入っていた。
「1枚千円のチョコだったか」
 悪い気はしない。Aさんは半月後くらいに、I.C.C.を訪れた。フロント・ロビーにX氏がいた。ニコニコしながら、近づいて来た。
「おやおや、またお会いしましたか。良ければリベンジさせてもらえませんか?」
 断れない。二度目は最初からニギリになった。2,3ホール終わってX氏は、
「ちょっとだけチョコを上げませんか?」と。
 A氏は"いくら?"とも聞きにくいので、
「いいでしょう」と太っ腹に答えた。"勝った分を吐き出せば済む"と考えたわけだ。一方で"腕はこちらが上"との思いもあった。ゲームは同じような展開となり、後半はX氏のプッシュが続き、Aさんの20ポイント勝ちとなった。
 ロッカー・ルームで着替えていると、Xが近づいて来て、笑みを浮かべながら、
「いや~お上手ですね。勉強になりました。ちょっと持ち合わせがないので振り込みます。番号を教えてくだい」
「いえいえ、遊びのことですし、またお会いするでしょうから」
 しかし、X氏は"口座番号を是非"と意思を変えそうもなかったので、Aさんは教えた。Aさんは実行されなくても良いと思っていた。賭けて遊んだ金である。
 3日ほどして入金があった。なんと20万円だった。
"えッ!? ちょっと高くはないか? チョコ一枚1000円だったのか?"
X氏が何物なのか? 何も知らないが、I.C.C.のメンバーなのだから、その気になれば調べはつく。それに勝っているのだから、負ければスクエア―で終わりにすれば……。
 半月後にまた会って、レートを上げてラウンドして、そして勝った。今度は200万円が振り込まれた。
"一体どうなっているんだ? それに行くと会う……”
 こんなにピッタリ遭遇するのはおかしい。予約が入ったことを知っていたか、ということにもなる。
 Aさんはさすがにちょっと怖くなった。ゴルフ場に行くのをためらっていると、電話がかかってきた。
「ここのところ、お見えにならないようですが、お体でも?」
 こう言われては行かざるを得ない。次の週末にラウンドの約束をした。
"負けたら吐き出せばいい"
 ラウンドは一進一退で進んだが、勝負所でX氏の技が光った。これまでには見られなかった技だった。Aさんは前の勝ち分を吐き出した上に100万円ほど負けた。
「いや~今日はついていました。たまたま良い方向に行って、勝たせてもらいました。払いなんていつでも。それより、また教えてください」
 今度はAさんが振り込んだ、"腕はこちらが上。何とか取り戻して縁を切りたい"、Aさんがそう考えていたとところに、また電話が鳴った。X氏からだった。
「いつでも良かったのに。義理堅いですね。近々お手合わせ願えませんか?」
 取り返せるかもしれない……Aさんは誘いに乗った。ここから深みに入ったようだった。ナッソーだ、オリンピックだ、竿一だ、と巧妙にポイントを積み重ねられて、プレースコア以上に負けた。
 自分の病院のお金にも手を付け始めたAさんは引くに引くない状態で、クラブを振り続け、負債はあっという間に雪だるまの如く膨らんで、遂には病院を手放すことになってしまったのだ。
 

【危うく賭けゴルフへ】

 私は自分でもゴルフに没頭した時期があった。たまに先輩の評論家と前述のI.C.C.にもお邪魔した。そこで支配人にこの話を聞いたのである。このケースは他のゴルフ場でもあった。評判の良い中からやや上くらいのコースが舞台になることが多かったようだ。
 名門と言われるコースは、メンバー入りには厳しい審査があった。その下なら、少々緩いので、付け入るチャンスがあったのだ。

 私は気楽な河川敷が多かった。空いてはいないが、夏場などは"暗くなるまでOK"の薄暮プレーなどがあって、手頃だった。
 ある日、記者仲間とA.C.C.に行くと、ちょっと体格の良いジェントルマンと出会った。
「どうです? ご一緒しても構いませんか?」
「下手ですから、あっちこっちです。それでもよろしければ……」
 ラウンドを始めようとした時、中年の紳士は語りかけて来た。
「どうですか、軽くニギっときますか? お仕事は?」
 こちらも"素人"には見えなかったのだろう。万が一、警察関係でもあったりしたら、即御用になってしまう。
「えッ!? マスコミでしたか? じゃ、やめときましょう」
 半分お遊びのラウンドになった。聞けば近くのやや大きめの割烹を経営していて、時間があると、このゴルフ場へ来て、"賭けゴルフ"を楽しんでいるという。楽しんでいるいるのか、ひょっとしたら、"生業"に近いのか、この人のゴルフは鋭かった。
「そう、相手が受けるなら、結構高めですね」
 昔、若い頃に雀荘で他流試合をやって、ツキまくり、しこたま勝ったことがあったが、ゴルフの勝負において実力差は絶対的なものがあった。ツキでは勝てない。その力は、パッティングを見れば一目瞭然だった。
 話はちょっと横道にそれる。時期を同じくして、評論家として人気者となり、テレビを点ければ解説者として映っていたS.T.という男がいた。プロでパットがうまくないと言われていたN.Y.選手に、賭けパッティングを挑んだ。結果はマンション一軒分くらい負けた。払ったかどうか不明だが、レベルの違う世界なのである。

 リバーサイド・コースに陽が沈もうとしていた。
「お世話様でした。今度は店の方にでもいらしてください」
 中年の男は引き揚げて行った。背中には素人にはない雰囲気が漂っていた。

【ゴルフ錬金術】

 "金の生る木"のゴルフ場を新規に始めようとすれば、土地の取得、環境アセス調査など様々な準備が必要となる。書類関係が揃ってその管轄役所に申請して、スムーズに認可に至ったとしても、早くて5年……と言われていた。
 開発会社の多くは銀行から借り、会員権を売って集めた資金元手に勝負するわけだから、できるだけ早く認可にこぎつけたい。
 そこで、役所内部の力関係、出入り業者をチェック、地元の実力者は役員に誘う、そして最後はその地出身の代議士に当たりをつける。献金である。しかし、"現生"は足が付きやすいし、手が後ろに回る危険大だ。
 ではどうする? ゴルフ会員権が有効な道具だと言われた。バブルの時代はたとえ、イモ・コースの評価を受けようと会員権は1000万、1500万とかの相場となった。
 会員権は刷れば"金券"に早替わり"というわけである。これを政治家の先生に進呈する。先生はどこかで売りさばく。見事な"裏金"の成立である。
「えッ!? 会員なのに予約がとれない?」
 オープンすると、そんなコースがいくつもあった。ゴルフ場発行の紹介誌などでは、"会員は限定で○○人"などと少な目に謳うことが少なくなかった。現実は何人いるのか分からない、というのが実情だった。
 イモ・コースは我々でも判断できた。目くらまし、とも呼んでいたが、往々にしてキンキラのクラブハウスが多い。良いコースのそれは、景色に溶け込んだ、シックな、言い換えれば地味なものが多いのだ。主役はコースなのだから、クラブハウスが目立つ必要がないのだ。
 記者コンペは、実情を書かれないために必要だったのだ。ばらして、ごめん。 

【ゴルフ場経営者から、”億”をむしり取った地面師】

 90年代に入って、まさかのバブル崩壊がやって来た。
 "ゴルフ場の経営は相当きついはずだ”と思っていたところに、電話が入った。
「ゴルフ場の経営者にインタビューして、まとめてもらえませんか?」
 ゴルフ関係のAゴルフ社からの依頼だった。飯田橋で編集者に会って、詳細を聞いた。
 ターゲットはR開発の社長、M.Y.氏。元々芝生の改良・開発が専門でコース造りに進出。あっという間に、関東に幾つものゴルフ場をオープンさせた仕事人だった。
 一度会ってみたいと思っていたので、とりあえず本社を訪問して仁義を切った。
「自伝ですねぇ。そんなに本にするような仕事もしてませんけどねぇ」
 Y.社長はあまり乗り気でもなさそうだった。そもそもが芝の研究家。派手なことは勘弁してもらいたい、という感じだった。
「とりあえず、芝生の話を中心に進めてはどうでしょう? ゴルフ・コースの心臓みたいものですからね」
「そうですか。それなら話せるだけ話して、それで方向を考えるってことでよろしいですか?」
 こうして、訊きおろしにての自伝製作が始まった。
 二週に一回くらいのペースで面会をして、データの蓄積を始めた。
 Y.社長はインタビューが一段落すると、"ここだけの話”を打ち明けた。
「フリーのKさん、知ってますか?」
 もちろんである。業界ではちょっと有名なフリーランサー。金儲けに長けていた。ゴルフ雑誌、夕刊紙に"ゴルフ場探訪"みたいな記事を書いていた。これが金儲けの道具、仕掛けだ。筆先一本で良いゴルフ場も、そうでないゴルフ場になってしまう。夕刊紙の読者はサラリーマンだから、記事の良し悪しはゴルフ場の営業に直結する。また、会員権の相場にも影響を与えることになる。だから、この手の記事にはゴルフ場関係者ピリピリしていたのだ。
「新規オープンを控えていたコースに、ちょっとした歴史的なグッズを飾ろうと思っていたら、アンティーク・グッズならまかせろ、と言って来たのでしぶしぶ……でした」
「で!? うまくいったんですか?」
「古そうなクラブ、バッグ、ウエア、ティーマーク、文献、19番ホールの酒、グラス……締めて3億円だっていうのでびっくりしたんですよ。どういうことなんですかねぇ」
 バブルの頃、銀行を始めとした金融関係はゴルフ場関係の会社に日参状態だった。"何とか億単位で借りてください"である。Y.社長の所など、一日10社くらいの金融関係の営業マンが押しかけていた。そうした状況を金の匂いに敏感なフリーランスのKが知らないわけがない。
 骨董品に3億の根を付けたって、銀行を動かせば……と思ったかは分からぬが、資金が足りなくなれば、すぐ何とかなったのは事実である。
 この一件の前に、Y.社長はグループの中でも老舗的なコースの会員権をKに"進呈”したという話もあった。
「色々あって、会うたびにその話が出てくるので、根負けしたんですよ」
 結局、ハイエナのようなマスコミ人に逆恨みされたら、後で何が出て来るか? それを恐れたのである。マスコミ? 反社とどこが違うのかいな。

 それにしても、"ペンの力"で、これだけ言いなりになってしまうものなのか? もう一つの噂を重ね合わせると、すべて納得がいきそうだった。
 それは? タイトルにもある[地面師]である。Y.社長の会社のように、グループ・コースを各地に効率よくオープンさせていくには、土地の取得、申請などをスムースに展開させなければならない。色々な分野で多くの人が関わることになる。次はどこなのか? 知る人ぞ知るになる。ここにプロが付け入る"チャンス"ができる。用地の地権者を当たる。近い将来、決定的となりそうなポイント……1番のティーグラウンド、18番グリーンなどを狙って押さえてしまう。コース建設の正式な動きが始まれば、高値で吹っ掛けるという仕組みである。
 一般に地面師とは、架空の土地をいかにもという段取りで商いを成立させる"詐欺"なのだが、ゴルフ関連では、予定コースのピンポイント買い上げも地面師の仕事と呼ばれた。マスコミ人を含む情報屋、実働部隊などがチームを組んで……。

【記者コンペは開業税】

 私自身も、"オープン記念 記者コンペ"に招待を受けて、遊ばせてもらったので、あまり偉そうな事は言えないのだが、時には目をそむけたくなるようなこともあった。
 記者招待コンペの朝。コースに到着すると、関係者の笑顔に迎えられる。彼らには大切な仕事である。クラブハウスに入って、受付に進む。芳名帳にサインして、組み合わせ表と挨拶状、封筒を受け取る。封筒にはお車代とか書いてある。その場では開けない。”できるだけ良い紹介記事を”という意味が込められている。大体3万円くらい入っていた。最初は”えッ!? こんなに?”と思ったが、次第に慣れてくる。しかし、ただでゴルフさせてもらって飲み食いしてだから、お車代なんておこがましい話なのだが、慣れは怖い……。
 ある記者コンペ。受付を終えてロッカールームへ移動しかけたところ、やや大きめの男の声が響いた。
「何だよこれ!?」
 続いて、「普通はさぁ」と聞こえてきた。
 私は聞き流してロッカームに入って、荷物の整理をしていた。すると、遅れて入って来た知り合いの記者が、隣へ来て言った。
「あのさぁ、例の人たちがさぁ、車代が少ないんじゃないかって、いちゃもんつけてたんだ」
「あッ、そうだったのか」 
 封筒を開けてみると、確かにいつもより、少ないと言えば、そうだった。
「でも、お車代なんていくらでもいいんだよな」
「そうだけど、変に相場ができちゃったからね」
「で、騒いでたのは?」
 名前を聞いて、さもありなんと思った。黒い噂のあるフリーランスKとAの二人組だった。
 
 某日。手造りクラブで有名なメーカーの東京店で、Kを見かけたことがあった。今度は何だったのだろう?……つい、そう思った。

 日本のゴルフは兵庫は六甲山の4ホールから始まった。英国のビジネスマンたちのレジャーの場として建設された。おそらくは武器の販売をメインにした商社の財力によって、である。
 1910年には東京の駒沢に、日本人のための9ホールの東京ゴルフクラブができた。20年代にはこれが18ホールになった。
 30年代に入ると、ゴルフ場の建設がめざましいものになるが、戦争で一時後退する。
 そして70年代、ジャンボ・尾崎の登場によって一気にブレーク。衰退するボウリングと反比例するように、75年にはゴルフ場の数は1000を超えた。巧妙な"反社のしのぎの場"にもなり出したのである。かけマージャンはばくちのニュアンスが強いが、ゴルフのニギリは何となく紳士のお遊びのような感じに……。
 90年代にバブルが弾けて、銀行から融資を受けている多くのゴルフ場の経営はハードなものになった。02年に2460コース、15年に2343コース。そして現在は2123コースまで減少しているという。
 経営のお金の出所は銀行がメインだが、法律ギリギリ、時にははみ出たところで商いをしている"町金融"の名前を聞かない日はない。また、"はめられた"という話が消えたこともない。
――ゴルフはオリンピックの種目にもなっているスポーツである。しかし、一方でビジネスの舞台であり、様々な金額の賭け事の舞台になりうる、多面性を持った世界である。



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