全力戯言はじめるよ

ハイサイどうも。なんでも鑑定団です。

どうやらネットの海には賢者が多く住んでいるらしい。その扉をたたく前んに、賢者はずかずかとやってきてこう言う「君は本質がわかっていない」

したり顔の賢者に背を向けることはすなわち負けであり、彼らは正しくあり続ける。


私はいわゆる意識高い系が苦手で仕方ない。「起業」「ビジネス」に片足を突っ込んで面だけデカくした馬鹿・・・お口が悪いですね、お調子者が非常に苦手だ。嫌悪という感情が一番近い。できれば関わり合いを持ちたくないのである(意識高い系も私とは関わり合いを持ちたくないだろうが)

さてこれには理由があって、もちろん夢を持つこと、目標を持つこと、それを実現させるために口に出す事は良いことだろう。私も卒業文集に「松本潤と結婚したい」と書いたクチなので、とりあえずかなえたいことを口に出すこと自体は否定できない。だけれどもその大抵は「は?」で終わってしまうものだ。大学生社長は珍しくもないし、何かしら目標を見つけて努力するという意味では企業というフィールドを選んでいるというだけでその時点では決して「偉くも」「すごくも」ない。これだけ言うと負け犬感マックスの戯言に聞こえるだろうけど、正直「社長」というネームを手にして気持ち良くなっているだけの「社長」があまりにも多すぎる、と、感じる。

小学生の時いたじゃない、我々が青い鳥文庫を読んでいる間に、クラスの隅で分厚くて小難しそうな本を読んでいた子。「人間失格」「老人と海」「春琴抄」分かりやすく難解で子供向けではない本を、わざとらしく広げてた、彼ら。悪くない。悪いことじゃないし、下手にやーいと横やりを入れればわかってないねと肩をすくめられる。それでもわたしは思ってしまう、器量に合った選択をするべきだと。日々漢字ドリルや計算ドリルを持っている私たちに「春琴抄」の気味の悪い美しさは似合わないし、ふさわしくもない。背伸びはだいたいオナニーでしかないし、それをわからずに難解な本を読む自分に酔いしれるのはいかがなものなのか?

もちろん、私の性格は悪いです。


少し話はそれるけど「偉い」話をしたい。さっきも少しふれたように「偉い」と「すごい」をはき違える人が多いと、間違ったほめ方が生まれる。若いのに企業してえらいね、いやいやあなたこそ学生なのにボランティア団体を設立してえらい、いやえらいのか?それ。すごいかもしれないけど、偉いのはまた別の話だろ。偉さのたたき売りのせいで、勘違いを相互に生み出し続けるのは何とも気色悪い構図である。 

「結果を出せばいいだろう」その通り、能力を持て余して学業や部活動では飽き足らずその才能を十二分に発揮する人らもいる。その人たちでさえ、偉くはない。すごいけど。いやめちゃくちゃすごいよ、というか生きてるだけで偉いから根本はみんなえらいねと思ってるけど。めっちゃ行動力あるやん自分、すごいねやるじゃん。でもえらいの?それって。若い人たちだけじゃない、世の中にはいっぱい「すごいけどえらいわけじゃない」人たちがいっぱいいる。私には彼らのすごさはわからないけれど、偉さのインフレは自意識を助長するだけな気がして、ならない。


「●●(私の名前)は本読むの?読んだほうがいいよ、本は投資だよ、自分への。」投資した割には想像力も自己評価能力も乏しいな。プライドだけぬくぬく育てやがって、てめえの読んだ自己啓発の活字の量なんてたかが知れてる・・・・・・・・お口が悪いですね。

「僕は会社を作ったよ、で、君はサークルにも部活にも入らず何をしているの?」多分お前のものさしでは私のしていることに価値を見出せず何もしていない人になるだろう、けどそんなことは言わない。性格がねじ曲がっているので悪口さえ言わず、お望み通り「なにしてんだろね笑ねてるかな笑」と語ろうか。

とにかく、そういう謎の自意識優位の偉さに触れてしまうと途端に自分は泣きたくなってしまう、どっちづかずの、本人の評価と乖離した姿を見ると、オーマイガーと叫びたくなってしまう。夢は身の丈に合わないほうがいいけど、目標は自分の器量に合わせたほうが良いのではないか。 


ふう