私が10年前キャリアコンサルタント資格(CDA/当時はまだ国家資格前)を取得するきっかけ~岩田氏(仮名)のこと~
プロローグ
今でもふと思う時がある。岩田氏(仮名)がいてくれたらなと。私は人との付き合いが長く続く方である。
しかし、前職の後輩、岩田氏だけは音沙汰無く誰に聞いても繋がらない。このSNSを何処かでみてくれて連絡頂きたいと願いつつも、どちらかで生き生きと仕事しているならそっとしておいてやりたい気持ちもある。
10年前(45)の私は未熟過ぎた・・申し訳ない。
2007年外資系ホテル戦争で急成長
当時の私は全方向で全力疾走状態だった。
スタートアップしたビジネスの10年目で、24時間仕事が頭から離れず何でもこなしていた。主なところで2005年マンダリンオリエンタル、2007年リッツ・カールトン、リッツ・カールトンレジデンス、ペニンシュラと契約しホテルマンを請け負い、激動の急成長を乗り越え、増収増益と色々なトラブル解決の真っ只中にあった。
営業で契約取り人を採用し教育し組織を創り、労務管理し問題事故対応して、、余裕なき状態だった。
ある人が皮肉を込めてカリスマ事業部長と言っていたのを耳にしても、特段何とも思わない位麻痺していた状態だった。
むしろ嫌われても最終的には皆の為、とてつもないリーダーシップで皆を幸せにしてあげているつもりだった。
仕事が終われば、毎晩のように飲みに連れて行ったりと。そういう事して楽しませてあげて、仕事を通じて幸せになってもらおうと本心から思っていた。
何の自慢にも為らないエピソードだが、17年前、長女の生後半年後、重い心臓病の手術を行い、経過が悪くもう持たないだろうと言われたその日も、責任ある仕事を休まなかった。その日一秒の無駄のない動きで仕事をこなし、早めに終え病院に駆けつけ、娘の最期を看取ることが出来たが。その日は私の38歳誕生日だった。その辺のどん底体験はいずれもっとフォーカスして公表しようと思う。
「生きているというより生かされている」という題名で。
その位オーナーに任されたこのスタートアップしたビジネスに人生を賭けていた。
岩田氏について
岩田氏は2005年入社。前職は某大手製紙会社の営業マンで、真面目で人当たりが良く、いつもニコニコ誰からも愛されるキャラ。
頭脳明晰を自慢することなく、縁の下の力持ちを進んで行う自律したおとなの頼もしい部下であった。
本人能力はコミュニケーション能力、ビジネススキル、特に理系的分析マーケティング戦略、経理分野にたけ、約20年前当時PCスキル高く、様々な資料や売り上げ日報から損益計算書等作成して貰った。
そんな優秀な営業マンが、なぜホテルスタッフという私のビジネスの、しかも一般職に応募し転職してきたか・・・
実はかなりのノルマ重圧、早朝から深夜まで働く会社風土、休みも少なく・・
そしてなんと言っても、管理職に抜擢され部下を持たされ更なる仕事量をこなして(ここがキーポイントで、部下に上手くやらせて育てる事が不得意で、自分でやってしまう)
メンタル不調となり退職したのだった。
精神的な負担を無くし心の充実得られる仕事として選んだのが我が社だった。
心豊かにサービスして喜ばれ、シフト制で多少不規則とはいえ、残業少なくきちんと休みが採れる(かなり徹底していた)、部下を持たぬ一般職スタッフとしての入社だった。
入社した当初から好印象で、他のスタッフとのレベルは歴然、2年目には現場のマネージャーに昇格させたくなり、触れ合いとコミュニケーションを取りながら、拒み続けられながらも(ここで本人の本能の叫びに気付かず)、やりますという返事を本人から引き出すまで待ち、副責任者、責任者とポジショニングしていった。
部下から慕われチームを明るく運営してくれ、そこまでは本人も最も順調な仕事であったと口にしてくれていた。
優しすぎて部下を注意出来ない、ゲストやビジネス上の取引先からの高圧的な態度には、固まってしまう弱さも私の目からは確認出来ていた。
しかし、その程度はカバーリング出来ると踏んで、上司の私が厭な役割を担当し、責任取るからと言って援護しているつもりだった。責任感の強く、過去のトラウマある岩田氏からすれば、何の救いにも成らなかったのだろう。と思う(自分が情けない)
震災を乗り越えた2012年ころ
そして今となっては悔やまれる、ターニングポイントとなる時期を迎える。
自業務が大変すぎて組織上の右腕がどうしても欲しかった、自分もオーナーと現場との板挟みもあって。
それと同時に、年功序列では無い実力主義を謳う自分の政策の実現で流れを創りたかった。
岩田氏も謙遜しているだけで、結局は地位も年収も上がり喜ぶ、結局は一石何鳥とさえ信じて疑わなかった。
つまり、私の筆頭の部下のひとりに、ナンバー2の最高幹部への抜擢を考え打診し始めたのだ。
今回はかなり長い間固辞し続けていた岩田氏であったが、層の薄い組織と幹部の苦労を考えに考え、おそらくサラリーマンの忖度で受け入れてくれた。
岩田氏の退職
予想通り就任してすぐ、クライエントから絶大の信用を得た。岩田氏が介入してくれれば何でも安心と頼られ、次第に幹部の中でも特に面倒な仕事を受け持つ様になった。
しかし不調は早かった。部下に仕事を割り振り育てるより、自分が全て抱える様になり、心療内科でうつ症状の診断を受けてしまった。前職と同じ道を繰り返させてしまった。まずはゆっくり休んでもらい、役職を解く等産業医と連動で一番いい復帰を何とか創りたかったが、本人の堅い決意は退職だった。
岩田氏が最高幹部入りを固辞し続けていた気持ちを、当時の私は受け止めてあげられず、本人の適正あるポジションで光らせ続けさせられ無かった。
深い反省で落ち込み、自分のリーダーシップで社員を引っ張るとか、自惚れの様な自分が全て下らないと思う様にもなってしまった。
人のメンタルやカウンセリングを学んだりしなければ、人を幸せに出来ない。上に立ってはいけないのではないかと悩むようにもなり、そんなもがいた中で、出逢ったのがCDAだったのである。
一筋の光
その頃、企業人でキャリアデベロップメントを学ぶ人は少なく、大学職員や人財会社やハローワーク職員の方々が多かった。そんな業界の知人に名刺に記載ある資格を尋ね知ったことで、これだ!と閃き、
キャリアカウンセラーとして部下と接してこそ、その人それぞれの方向性を企業とともに描け双方幸せ発展に繋がると、選択すべき目標が定まり、その後の行動は早く資格取得に至る。
リーダーシップ型で、人の話を聴くより話す方が好きな今までのスタイルは、二次試験二回落ちる苦労も有り、同じ志の仲間の繋がり得ての学びは人生を変えるほどの価値ある経験である。詳しくはまた。
探し当てた鉱脈
現在でも大事な指針となる資格である。2016年CDA取得の年に国家資格となる。大事な学びであった。もちろん現在も進行形である。
出世や昇給で不幸にするなんて当時は判らなかったお粗末なリーダーだった。
この私のいたならさから、現在は改心して個人の選択や価値観を傾聴して、お互い色々な個性を認めながら共に歩むことが出来るビジネスを心がけている。
エピローグ
部下の話を傾聴してその人それぞれの1番輝ける価値ある方向をともに炙りだしていく。その人特有の自律した個々の力を合わせれば、それらが紡ぎ出す結晶が素晴らしいビジネスに発展して行くだろう。
今回は過去の自分の愚かさとある方への懺悔の自己開示でもある。
てっちー
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