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球団ヒストリー15.気のいい”ザ・野球人”

鹿児島ホワイトウェーブの初代監督、鵜狩道夫さん。
この方について少し詳しくお話をお聞きした。

以前にも触れたけれど、元プロ野球選手、広島カープのピッチャーだった鵜狩さん。1958年、長嶋茂雄さんが伝説の幻のホームランを放ったときマウンドに立っていたのが、他でもない鵜狩さんだ。
ちょっと調べると、ウエスタンリーグで史上初の完全試合を成すなど”持っている”方。

お会いすると、本当に「気のいいおじちゃん」だったそう。大らかで細かいことは気にせず、「そいでよかとよ(それでいいよ)!」というタイプだった。

野球の指導経験はなかった。

そのため、練習メニューを考えたり試合のオーダーを組んだりという、まさに『監督』としての仕事は、ほとんど…というかすべてコーチの斉藤巧さんにまるっと任せていたらしい。

一方、元プロ野球オリックスの選手だった斉藤さんは、引退後6年にもわたってオリックスでコーチを歴任。
”勝つ”を仕事にしているプロ野球での指導経験というのは、どんなに大きなものなんだろう。キャッチャーだったこともあり、選手の心理を読むのもきっとお手の物だったろうと思うのです。

年齢はもとより、プロ野球選手としてもだいぶ先輩である鵜狩さんが監督を務めるのは、至極当然の流れ。

とはいえ、当時70歳ほどだった鵜狩監督は体力的にもきつかったのか、練習も毎回参加というわけではなかったようで。
当然のように毎週練習に参加し熱心に指導する斉藤コーチとは、折り合いが今ひとつだった。

オーダー編成から戦略や戦術までも全てコーチにお任せ、というのはちょっと監督としてはありえないやり方ではある。それでも、プロの一軍のマウンドを守った投手。野球人としてのプライドはあるわけで。

たとえば試合前のオーダーはまず監督に尋ねに行かないと機嫌を損ねたよう。「斉藤に聞け」と言われるのは分かっていながらも、初代マネージャーかおりさんは、いつも最初に監督のところに行っていたという。
折り合いの良くない斉藤コーチは離れた場所に陣取っているから、監督とコーチの間を行ったり来たり。
気のいいかわいいおじちゃんだけど、そんなちょっぴりめんどくさい面もあったため、かおりマネはだいぶ苦労したようだ。

当時のことを鵜狩さんご本人からもお聞きしたいものだったが、残念ながら2018年に他界なさった。


鹿児島ホワイトウェーブがクラブチームとして船出した、最初の1年間だけの監督。実質的に監督だったのかしら?という疑問は残れど、それでも無名チームの大切なスタートを担ってくださった、“ザ•野球人”だった。
それはとりもなおさず、野球への、ホワイトウェーブへの愛であったことは間違いないのだろう。

ただその指導経験のなさが、ある事件へのきっかけになるとは、誰も予想していなかったと思います。

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