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球団ヒストリー46.就職斡旋第一号は

斡旋第一号は元独立リーグ選手

チーム名を『鹿児島ドリームウェーブ』と変更した2012年4月。
チームとして就職斡旋の第一号が決まった。

北迫太樹さん。
大学卒業後、長野の独立リーグ『信濃グランセローズ』でプレーし、家庭の事情で野球を辞めて帰って来たそうだ。当時24歳。

ちなみに、独立リーグというのはいわばプロ野球。
私たちがいつもテレビで見ているセ・リーグとパ・リーグから成るプロ野球(NPB)は日本の最高峰リーグ。それとは少し(だいぶ?)違うが、独立リーグも野球をすることそのものが収入になるという世界。
そこからNPBへと夢見る選手も少なくないという。

北迫さんもその一人だった。
いずれNPBのプロ野球選手に、という想いがあって野球に打ち込んでいたが、ご家庭の事情でプロ野球の道は断念して帰鹿、契約社員として働いていた。
当時の北迫さんの様子は、以下の動画に詳しい。


一年更新の契約社員では収入が不安定なのもあるだろうけれど…実際にお話をお聞きしてみると、ちょっと違うのかも。
「動画ほど悲惨じゃなかったですよ」という笑顔と、そのあとに何時間でも続けられそうな野球の話題に、本当にキツかったのは野球をできなかったことなんだなと感じた。

ほんとうの夢は

このとき北迫さんは、教員採用試験を受けて高校野球の指導者になろうと考えていたそうだ。実はそれも幼いころから目指していた道のひとつ。

これを聞いた球団代表の國本正樹さんが尋ねた。
「どうしても教員じゃなきゃダメなのか?」

答えはNo。
ならばということで弓場建設株式会社(現・ユーミーコーポレーション株式会社)の入社試験・面接を受けることが決まった。

想像するに、教員という目標はもちろんあっただろうけれども、根っこにあるのは”野球に関わること”だったから、プレイヤーとして復帰できることが大きかったのではないか。そしてやはり、経済的な安定は自分の気持ちも家族も安心させてくれる、そういう面も大きかっただろう。

面接での様子は、ユーミーコーポレーション(株)の弓場社長がよく覚えていらっしゃった。
当時専務だった弓場社長はじめ、役員面々がずらりと揃っておられる中に、北迫さんが一人緊張した面持ちで座っている。
「夢はプロ野球選手です」との言葉に、役員からは「うちは腰かけなの?」というちょっぴりイジワルなツッコミが。「言葉に詰まってましたよ」と弓場社長は笑っておられた。

ありがたい環境

晴れて入社。

実際に仕事しながらで、試合に行きづらいということはなかったんですか?
そうお尋ねすると、「まったくなかったです!」と食い気味に否定してくださった。
前回の記事でご紹介した弓場社長の心強い言葉、「仕事で試合に行かないということは認めていない」という姿勢は、社内にしっかりと浸透しているのだと感じた。
ほんとうにありがたい環境だ。

先輩…いやアニキとして

それから10年。
選手を引退してからもすでに6年。
現在も北迫さんはユーミーコーポレーション(株)で働いている。
ここでも「終身雇用のつもりで」という社長の姿勢が証明されている。

そして、実は選手の受け入れとしては試験的な採用だったという北迫さんが「非常によく働いてくれた」(弓場社長談)こともあり、その年のうちにもう一人の就職も決まった。

現在も、ユーミーコーポレーション(株)には3人の現役選手が在籍している。
野球人としても社会人としても、いい先輩…というよりアニキのような存在で現役選手を支えてくださっているのだろう。
お話をお聞きしているあいだも、私も名前を知る選手から何度も仕事の電話が鳴っていた。

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