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球団ヒストリー57.『優勝』の威力

解散も厭わない改革を断行し、チーム名を『鹿児島ドリームウェーブ』と変えて再出港した2012年。
球団創設7年で初の全国大会進出という快挙を成し遂げ、最高のかたちで有終の美を飾った。

去る者、来る者

だがこの年、10人もの選手が退団した。

前年の改革のときには、辞める選択をしなかった選手たちも多い。きっとプレーや成績での手応えを得てから、自分で線を引きたかったのだろう。
全国大会に出場して、大きな達成感を得たことも、ひとつの理由かもしれない。

しかし新聞やテレビにも取り上げられ、確実に知名度は上がったはずだ。
しかも九州制覇するようなチームとなると、イメージもグっとよくなっただろう。それなら入団希望者が増えたのではないか?

そう。
翌2013年の新入団選手は15人。まずもってかなり多い。
そして特筆すべきは、その後主力となる選手が多く入団していること。
学生時代に主軸だったり、目指すはプロという選手も加入した。

ちなみにこのころは、まだほとんど勧誘活動をしていなかったという。
つまり、かなりざっくり言うと選手のほうからドリームウェーブを探し当て、仲間入りしてくれたことになる。

『優勝』の持つ威力ってすごい。

勧誘が実を結ぶ

ただ鹿児島県内の大学には、少し前から國本球団代表が勧誘に行っていた。

特に行っていたのは第一工業大学(現:第一工科大学)。いい選手が多かったらしい。
練習を見に行き、監督と話をし、選手の紹介をお願いした。

もちろん大学側も非常に協力的ではあったのだが、実際の入団者はそれまでに一人だけ。それも大学からストレートに入団したわけではなく、いったん卒業してからの途中入団。

卒業後は鹿児島ドリームウェーブでプレーする、という選択がなかなか現実味を帯びてこないことに、内心ヤキモキしていたという國本代表。

だがこの年、一気に3人の選手が第一工大から入団した。
やはり『優勝』の持つ威力があったのだろう。

受け皿としての役割

鹿児島大学からも3人加入。

この年の登録選手を見ると、8割以上は鹿児島出身。
他県出身でも、鹿児島に進学してそのままドリームウェーブに入団という選手がほとんどだ。

甲子園で県勢の試合があると、天文館(鹿児島一の繁華街)から人が消えるほどの野球王国鹿児島。それなのに、学生野球が終わると硬球を握る場所がなくなってしまっていた鹿児島。

そんな、鹿児島の迷える硬式野球プレイヤーたちの受け皿としての意味もあり発足した鹿児島ホワイトウェーブが、再出発と同時に大いにその役割を果たし始めた。

やっぱり『優勝』の持つ威力だろうと思わざるを得ない。

はるか東北からの新加入

さらに驚くことに、はるか東北からも入団者が。

先の全国大会で敗退したときの対戦相手は宮城の『東北マークス』だったが、おそらくそれでドリームウェーブを知ったのだろう。

九州制覇、だけではなく全国大会に出場することの意味。
それもこのとき初めて実感したことだったのかもしれません。

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