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球団ヒストリー13.陰の立役者

初代マネージャーのかおりさんは、野球という世界を知らなかった。
もとはバレーボールの選手。すでに引退していたが、勝負の世界への渇きのようなものを感じていたのか「どうせやるなら、上を目指す人たちを応援したい」とマネージャー募集の文字に名乗りをあげてくれた。
あっ、ちなみに私も同じ「かおり」だし、野球部のマネージャーを経験しているが、くれぐれも私ではない。

「やる気があって、スコアをつけられるならマネージャーになれますよ」ということで入団(?)したそうだが、実は入団決定後にスコアを学んだらしい。

「野球という世界は全く分からないのに、求められるものはすごくレベルが高かった」。
トーナメント表で左に表記されているチームが一塁側ということも知らず、「マネージャーのクセにそんなことも知らねぇのか!」と宮田キャプテンに怒鳴られたことも。

また、実はいまひとつ意思の疎通がうまくいっていなかった鵜狩監督と斉藤コーチの間に立つことも。試合前、スターティングメンバーを聞きに監督のところに行くと「斉藤に聞け」、コーチに聞くと「監督に確認を」ということも多かったらしく、離れたところに陣取る監督とコーチの間を行ったり来たりするという思わぬ苦労もあった。

遠征時、宿の手配は大変だった。勝ち進む予定で予約するのだが、敗退した場合は早めにチェックアウトするわけで。敗退の悔しさもそこそこに、常にキャンセル料の交渉というオマケがついてきた。
お弁当など食事の手配もひと苦労。数十人という大所帯で入れるお店は限られているし、お弁当を手配しても年齢も好みも違う選手監督全員を満足させることは難しかった。とはいえ、できる限り手を尽くして全員の食欲を満たそうと工夫したのだろう。きっと、だからこんなエピソードが思い出されるのだと思う。

さらに部費の徴収も担っていて「選手の顔を見るたび、私は豚か!というくらいいつも部費ブヒ言ってた」そうだ。

日頃の練習でも大会や遠征のときにも、こうして嫌というくらいの現実を支えてくれたかおりマネに、選手たちの信頼は厚かった。

のちに後輩マネージャーも入団して来るのだが、いちばん大変な草創期を一人で支えたのはこの人。
「あんたたち、遊びに来てるわけじゃないんでしょ」というかおりマネの姿勢は、プロを輩出するチームを目指すのだという鹿児島ホワイトウェーブのスタンスを、がっちりサポートしてくれた。

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