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28.大金星!そして

2008年。
23年ぶりの地元での公式戦開催に、運営側がドタバタしていたころ。
しかし、グラウンド側の選手たちはその大会の印象が薄いようだった。

なぜこの時期、運営側と選手たちの間の記憶にこんなにも差があるのだろう?予想はしていたものの、その差の大きさにちょっぴり感じていた私の疑問は、この年の公式戦の記録を辿っていたらなんとなくわかってきた。

王者との対戦

『第33回全日本クラブ野球選手権大会 兼 第3回西日本クラブカップ野球大会九州地区予選大会』という長ったらしい名称の公式戦が開催されたのは、2008年4月26日、北九州市民球場。

ここで鹿児島ホワイトウエーブは、新日鐵大分ベースボールクラブというチームと対戦することになった。

新日鐵大分。

社会人野球にあまりにも無知な私ですら、おぼろげにその名前を聞いたことがあった。それくらい名の知れたチーム。
チーム背景をwikipediaで調べてみた。

新日本製鐵の大分製鉄所で『新日本製鐵大分硬式野球部』として1971年に創設。都市対抗野球大会に5回、社会人野球日本選手権大会に2回出場するなど、大分県のみならず九州でも実力を有するチームだったが、1997年に新日本製鐵のスポーツ支援方針の見直しによって翌1998年からクラブ登録に変更し、チーム名も「新日本製鐵」の看板を外し、『大分硬式野球倶楽部』に改称、後に『大分ハーキュリーズ』に改称した(「ハーキュリーズ(Hercules)」はヘラクレスの英訳)。クラブチーム化後も新日鐵大分時代の球場を利用する等の便宜を受けていたが、徐々に新日鐵からの支援が受けられなくなり、2003年のシーズン限りでの解散が決定し、日本野球連盟へも解散届が提出され廃部となった。
その後、新日鐵からの支援を受けなくてもチームを残したいとする有志の動きが活発化し、2004年3月に新日鐵とは無関係ながらチーム名に「新日鐵」の名前を冠し、『新日鐵大分硬式野球同好会』として日本野球連盟にクラブ登録された。チームはその後短期間で急速に力をつけ、2006年に結成3年目で全日本クラブ野球選手権大会に初出場を果たし、同年を含めた6年間で4回クラブ選手権大会に出場して九州のクラブチームでトップの実力を有するまでになった。
2008年3月21日付けで、チーム名を『新日鐵大分ベースボールクラブ』に改称。

その実力は折り紙付きで、大会2連覇中。間違いなく優勝候補筆頭だった。九州を制して全日本クラブ選手権本戦に当然出場する予定でいたのだと思う。

番狂わせ

ところが、この文句なしの優勝候補に、鹿児島ホワイトウェーブは初戦で勝利!しかも6-3という快勝!大金星だ!!

翌日の毎日新聞には、こんな記事が。

『V候補破った』
大会2連覇中の新日鐵大分クを破った鹿児島ホワイトウェーブ。ベンチは試合終了とともにお祭り騒ぎとなった。見せ場は2点差とされた5回の集中力。二死一塁から倉野、七牟礼、磯辺一、芹ケ野の4連打で3点を奪い、試合をひっくり返した。「コールド負けした昨年の悔しさを晴らそうとみっちり打ち込んできた努力が実った」と末廣監督。敗れた新日鐵大分クの岩野監督は「悔しい」と言葉少なだった。

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スポニチにも掲載されるなど、この勝利は誰にとっても予想外だったに違いない。

プレッシャー

そしてそれはホワイトウェーブの選手たちにとっても同じだったようで。

2回戦の対戦相手は、同じ鹿児島の薩摩。
ほんの数か月だけれど先輩チームであるホワイトウェーブとしては、負けたくない相手だ。

結果的に2-0と勝利したけれど、この日の新聞にはこんな記事があった。

優勝候補筆頭の新日鐵大分クラブを破ってのしかかった「優勝せねば」という重圧と、先輩格としての意地。「体がガチガチだった」(末廣監督)というチームを、先発の神崎が救った。
初回からスローカーブとチェンジアップでほんろうし、五回以降は直球を多めに配した巧みな投球。「申し訳なさでいっぱいだった」(鶴田)という打線が六、七回に奮起すると力強さを増し、九回一死満塁のピンチも切り抜けて完封した。

ガチガチだった、という選手たち。
まだ『勝つ』こと自体が目標だった時代、『勝ち続ける』ことへの耐性はできていなかったのかもしれない。

西日本クラブカップへの切符

3日目の準決勝では、北九州市民硬式野球クラブにタイブレークの末5-6と惜敗したが、九州ベスト4。
このときの北九州市民硬式野球クラブは、全日本クラブ選手権でベスト4まで進出するほど強かったから、大接戦を繰り広げたホワイトウェーブも十分力があったんじゃないかと思う。

優勝準優勝の2チームが出場できる全日本クラブ選手権本戦への出場は叶わなかったが、西日本クラブカップ本戦への切符を手にすることになった。

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発足からわずか3年で、九州ベスト4を掴んだ鹿児島ホワイトウェーブ。

興奮冷めやらぬ中、その10日後に開催された都市対抗予選は、いくら23年ぶりの地元開催とはいえ印象が薄くなるのも無理はないかぁと、妙に納得したのでした。

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