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鹿児島ドリームウェーブ球団ヒストリー

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2005年に、イベントをきっかけに誕生した社会人野球チーム『鹿児島ドリームウェーブ』。生まれては消えていく球団が多い中、17年目を迎えた2022年現在も「クラブ日本一」を目標に走…
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#鹿児島

球団ヒストリー71.第一工大からの入団が新時代を作った理由

昨年12月に書いた『球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立』について、さらにお話を聞く…

加納かおり
3週間前
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球団ヒストリー66.混迷を極めた監督人事

熱意の大功労者 2007年、初代監督の鵜狩道夫さんが急に退任されたことにより、思いがけず監督…

加納かおり
3か月前
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球団ヒストリー63.スポンサー企業に訊く~(株)ゼンケイⅠ

2024年現在、鹿児島ドリームウェーブで一番多いのが株式会社ゼンケイの所属選手・スタッフだ。…

加納かおり
5か月前
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球団ヒストリー61.動物園⁉

即戦力の入団 2013年の新入団は15人。新卒でブランクのない選手も多い。 全国大会に出場した…

加納かおり
6か月前
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球団ヒストリー60.新時代~入団ルートの確立

大学からの入団がなかった理由 2009年ごろから、選手を求めて第一工業大学(現・第一工科大学…

加納かおり
6か月前
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球団ヒストリー59.新時代~キャプテン交替

優しいキャプテン 解体の危機から九州制覇、全国大会初出場という激動の時代を牽引してきたの…

加納かおり
6か月前

球団ヒストリー58.就職斡旋草創期

先述したように、2012年から就職の斡旋を始めた鹿児島ドリームウェーブ。 受け入れ先企業であるユーミーコーポレーション株式会社(当時は弓場建設株式会社)の理解もあり、就職斡旋第一号の捕手・北迫太樹さんと、第二号の内野手・田上幸司さんは、確実に試合に出られるようになった。 職場に遠慮することなく野球を優先できる環境。 主軸が仕事で抜ける心配がないこと。 それが持つ意味は、チームにとってとてつもなく大きかった。 その結果が、初の全国大会進出に繋がったと言っても過言ではないだろ

球団ヒストリー55.いざ、全国デビュー

あっさり叶えた全国大会 『鹿児島ドリームウェーブ』とチーム名を変えたとほぼ同時に入団した…

加納かおり
9か月前
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球団ヒストリー49.あとは、投手だ

鹿児島ドリームウェーブ球団代表國本正樹さんが、特に投手を探しに大学の練習を見に行きはじめ…

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球団ヒストリー44.スポンサー企業に訊く~ユーミーコーポレーション(株)Ⅰ

2012年4月、チーム名を『鹿児島ドリームウェーブ』に変更したと同時に発足した後援会。 発足当…

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球団ヒストリー43.後援会の発足

2012年春。 『鹿児島ドリームウェーブ』と球団名を変更すると同時に、球団の後援会も正式に発…

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球団ヒストリー42.誕生『鹿児島ドリームウェーブ』!!そしてチーム名の切実な理由

『ホワイトウェーブ』の由来 『鹿児島ホワイトウェーブ』というチーム名の由来は、欽ちゃん球…

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球団ヒストリー41.心機一転

これからどうなるのかな2005年、一晩限りの予定で立ち上がった鹿児島ホワイトウェーブ。 都市…

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球団ヒストリー37.棄権の危機

2次予選2011年8月。 鹿児島ホワイトウェーブの選手たちは宮崎ひむかスタジアムでの公式戦に臨んでいた。 第82回都市対抗野球大会への出場を懸けた九州地区2次予選。 初戦の対戦相手は福岡の沖データコンピュータ学院だ。 ここは引っぱるところでもないのであっさり言うと、0-4で敗戦。 都市対抗本戦出場を目指しているとはいえ、このころはまだ週に2~3回の練習。 当時チームを率いていた末廣昭博監督も、そのころを振り返って「勝てないって言っちゃいけないしなぁ」と思っていたそうだか