恋花 by 夢野来人
"♪燃えて散るのが花
夢で咲くのが恋"
とある片田舎の古びた喫茶店で、懐かしいメロディが流れていた。1979年CHAGE&ASKAのデビュー曲『ひとり咲き』である。
文恵は久しぶりに故郷に帰って来ていた。都会での仕事にもひと段落がつき、余生は生まれ故郷でのんびり過ごそうと思っていたのだ。
人並みに働いて、人並みに恋をした。いや、人並み外れた激しく燃え上がる恋。でも、恋と呼べるのは一度だけ。あまりにも激しく燃えた恋だったので、終わった時に文恵はもはや燃えかすのようになってしまっていた。
その後、文恵は寂しさのあまり.さほど愛していない人と結婚してしまった。相手は誰でも良かった。一人でいることに耐えきれなかっただけだ。
「隣りの席、空いていますか?」
振り向くと、サングラスをかけた見知らぬ男が立っていた。
「空いてはいますけど」
店内には他に客はおらず、座ろうと思えばどの席にだって座れる。なぜ、よりによってこんなおばあちゃんの隣りを選ぶのだろう。
「それは良かった。じゃ、失礼します」
「どこかでお会いしたことありましたか?」
ナンパ目的でないことは明らかなので、どこかで会ったことのある人かと思ったのだ。
「いえ、ありませんよ」
「では、なぜ?」
「一人では寂しいではありませんか。あなた、そう思ったことありませんか?」
もちろん身に覚えがある。ありすぎるぐらいあるのだ。結婚してしまったのも、そんな寂しさからだった。
「あなた、お寂しいの?」
「もちろんです。実は、私は若い頃、燃えるような恋をしましてね。でも、お互いに夢があって何とか話し合って理解し合おうとしたんですけれど」
「わかるわ。若い頃は相手のことを思っているようでも、自分のことしか見えていないものよ。特に自分の夢がある場合、愛する人でさえ自分の夢を実現するためのツールにしてしまいそうになるものなの」
「これは驚いた。あなたにも、そんな経験がおありなのですか?」
「まあ、昔の話よ」
「いえ、聞かせてください。私も、自分のことしか考えていなかった。それで、愛する人に辛い思いをさせてしまった。でも、今なら、もっと優しい対応ができたような気がするんです」
「そうなの。あなたも辛い思いをしたのね。でも、私の場合は、取り返しのつかないことをしてしまったから」
そう言うと、文恵は目を伏せた。
「取り返しのつかないこと? そんなことは、きっとありません。取り返しのつかないことなど、この世にはないのです」
「あなた、まだ若いわね」
「いえ。取り返しのつかないことなど、生きている限りありえません」
「そう。生きている限りね。私は寂しさのあまり愛していない人と結婚してしまったの。そして、その人は病で亡くなってしまった。もう、お詫びのしようもないの」
「それは、お気の毒な話ですが」
「それに、私の愛した唯一の人も、もう何十年も前に亡くなってしまっているの」
そう言うと、文恵はため息をひとつ漏らした。
「本当にその人のことがお好きだったのですね」
「もちろんよ。もしも、今度会うことができたら、ひと言お詫びの言葉を言おうと思っているのよ。でも、それは叶わぬ夢だわ」
男はしばらく目をつぶり黙っていた。やがて、涙で濡らした目を開けてつぶやいた。
「それを聞いて、私もやっと成仏できそうです。きみは、僕のことを嫌いになったんじゃなかったんだね」
「えっ? あなた、まさか!」
「そう。44年前、君を心から愛していた康彦だよ」
「本当に康彦さんなの?」
目を上げた文恵の前には、康彦はもういなかった。
「康彦さん。今のは幻? それとも霊だったの?」
"♪燃えて散るのが花
夢で咲くのが恋
ひとり咲き"
誰もいない店内に音楽は流れ続けていた……
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