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蟻地獄と、私

ウスバカゲロウの幼虫、蟻地獄を英語で「ドゥードゥルバグ」と言う。

(蟻地獄に限らず、さまざまな昆虫の幼虫を“ドゥードゥルバグ”と呼ぶそうだが)

彼らは体中毛むくじゃらで、後ろ向きにしか進めない。後ろ脚で砂を蹴りながら渦巻き状に円を描いてゆき、すり鉢みたいな円錐形の巣をつくる。巣作りするその姿が、まるで落書きしているみたいだから、“Doodle(落書き)bug(虫)”という名前がついたらしい。
他にも彼らは“Antlion(アリを食うライオン)”という、いかにもな別名も持っている。
砂に足を取られて慌てて這い上がろうとするアリ。その振動を体中を覆う細かい毛でキャッチし、獲物をしたたかに狙う。
確かにアリたちにとっては恐ろしい捕食者だ。

じつはギリギリまで、屋号を「蟻地獄」にしようかどうか迷っていた。
だがしかし、字面にパンチ力があり過ぎるのと、そこはかとなくアングラの香りが漂うのでこちらは僭越ながら却下した。

長いこと、うんうん悩んだ。
そして最終的に、日本人にあまり耳馴染みのないおかしな響きで、だけどどこか憎めない感じの「ドゥードゥルバグ」を屋号とすることにした。私の母はなかなか覚えられず、しばらく「クックドゥードゥルドゥー(※1)」と呪文のように唱えていた…。

(※1.アメリカにおいての、ニワトリの鳴き声。日本で言う「コケコッコー」。)

今日は、屋号にもなったドゥードゥルバグ――つまり“蟻地獄”との出会いを書いていこうと思う。

蟻地獄との出会いは、私がまだ小学校低学年の、三十年ほど前にさかのぼる。

母の生家は、福島県沿岸部の小さな漁港のすぐ側にあり、築100年近くの古い日本家屋であった。家屋のちょうど北西の角に祠(ほこら)があり、年中雨風が当たらない瓦屋根の下、乾いたサラサラの地面の上に、無数の蟻地獄の巣があった。祠が目の前にあるせいか、いつ行っても時が止まったみたいに静寂な場所だった。

小学校に上がったばかりの私は、極度の人見知りでありながら、お人好し、というこじれた性格で、「胃が痛い」と言っては時々保健室へ駆け込むような子どもであった。
(授業参観に来た母が、「あんたは八方美人だねえ」と言ったのを、言葉の意味を知らない当時の私は、褒め言葉だと思ってニヤニヤしていた)

その古い家には、祖父母と曾祖母、そして母の弟である叔父の一家が暮らしていた。
小さい頃から私を可愛がってくれた年上の従姉妹たちと遊びたいがために、小学校の帰り道、足繁くそこへ立ち寄った。

二年、三年と時が経ち、やがて従姉妹たちが習い事などで忙しくなると、手持ち無沙汰の私は決まって西側の軒下へ行った。軒下には、従姉妹たちが読み飽きた少女漫画が地面に山積みされており、それを読みながら母が迎えに来るまでの時間を潰していた。

ある日、生まれて初めて、蟻地獄がアリを捕えるところを目撃した。
砂時計のごとく、みるみる穴に吸い込まれていく獲物を彼らは見逃さない。そこから逃げ出そうと這い出すアリに、これでもかと砂を投げつける。焦れば焦るほど、アリは穴へと落ちてゆく。

これも大人になってから知ったことだが、蟻地獄は大顎(クワガタみたいなハサミの部分)でアリを捕えると、大顎を突き刺して体液だけを根こそぎ吸い取り、その亡骸は豪快に穴の外へ放り投げるらしい。まるで砂中に潜むジョーズだ。
半径5cm程の小さな円の中で繰り広げられる、命がけの攻防戦。
それ以来、私は蟻地獄の巣に夢中になった。
姿こそ見えないが、確実にそこに存在して、じっと獲物が掛かるのを待っている。(しかも獲物が掛かるのは時の運で、ある実験では三ヶ月以上も空腹に耐えたそうだ) 

時々、蟻地獄を手に乗せて対面もした。
うんざりしたように微動だにしない蟻地獄を砂の上に戻すと、後ろ脚で砂を蹴りながら再びすり鉢状の巣穴へと戻っていく。さぞかし鬱陶しかったろうと思う。

彼らの巣、すり鉢状のサラサラとした砂の丸いくぼみは見ているだけで安心した。同じ場所に居ながら言葉を交わさない。
昆虫と人間なのだから当たり前といえば当たり前なのだが、その気兼ねのなさをとても気に入っていた。
蟻地獄の巣の前にしゃがみ込み、昨日と今日、ここ数日と、自分自身に起きたことや感じたことを反芻する。嬉しいなと思ったこと。嫌だと感じたこと。どこに仕舞ったらいいのか分からない、厄介な感情。
ここでは正しさも間違いも判断されない。
何をどう思っても、どう感じても、全然構わないんだぜ、といった懐の深い自由さがあった。

古い日本家屋の裏、祠と蟻地獄。雨風の当たらない静寂。
人付き合いが苦手であった幼い私にとっての、聖域のような場所だった。

時が経ち、私は中学・高校時代を迎えた。
事故もケガも多々あったが、人とコミュニケーションするための筋力は段々と鍛えられ、心身共に逞しくなった。進路の悩みや恋の悩み、部活三昧で忙しい日々を送っていた。
進んだ大学が関西だったということもあり、ますます母の生家からは足が遠退いた。

もっと行けばよかったなとも思う。
蟻地獄の巣を見つめながら聴いた波の音も、白い狐が二匹並んだ薄汚れた祠も、庭に四季を知らせてくれた木々も花々も、古い瓦屋根も、年季の入った外壁も井戸も、畳も縁側も、薪で湯を沸かす懐かしの五右衛門風呂も、離れにあって夜行くのが怖かった暗い和式便所も――私の脳みその中では、くっきりあの頃のままだ。

2011年3月11年の震災が起きてから七年のあいだ人間が立ち入ることが出来ない隙に、野生動物たちがねぐらを求めて出入りを繰り返した。
地震で壊れた屋根には情け容赦なく雨風が吹き込み、雨漏りで七年間醸成された家屋は家中にカビが生え、ネズミやイタチが家主となった。

震災当時まで、人間としてその家の家主であった私の叔母は、家屋解体を国が提示した申込み期限ギリギリまで悩んだ。イエスかノーか。
答えを探したが見つからないまま、解体を決めた。叔母は「壊してよかった、と思うようにしている」と言った。
私が叔母だったとしても答えなど出せなかったと思う。朽ち果ててもカビだらけでも、生まれ育った家という事実に変わりはない。
けれど、果たして「住む」という営みを変わり果てたその家に見出すことが出来ただろうか?

人は悩む。

悩むからこそ、立ち止まる。

けれど、あまりに多くの人が「大事な場所」についての決断を、自分の裁量ではなく、外部からの《期限》に迫られ、悩み、答えが見つからないまま無理繰りイエスかノーかの「答え」を出し続ける十二年間だったのではないだろうか。そんな気がしてならない。

もちろん、国や行政としての広い視点で見た時に、「復興」という名の大きな事業をやり遂げる為には立ち止まられては困るのだろうと思う。

でもやっぱり、人間は立ち止まらないと、本当の意味で考えることは出来ない。

それを、痛いほど思い知る十二年間でもあった。

母の生家は、2019年に取り壊された。
変わらないのは、岸壁を打ち付ける波の音だけだ。更地になった地面には、叔母が残すことを決めた庭木が数本だけ植わっている。
春になると、どこから飛んで来たのか水仙の花とフキノトウがたくましく顔を出す。

除染は、もとあった土の表面を深く削り取って新しい土を入れるという、果てしなく根気のいる作業だ。

あの日のサラサラの土は、砂利の混じった鼠色の土に変わった。
もちろん、蟻地獄はもういない。

演劇コミュニティをつくろうと決めた時、その関係性や空間が、誰かにとって、あの西側の軒下、雨風の当たらないサラサラの地面にしゃがんでいた頃の私のような、自由な心持ちと身体でいられる場所にしようと思った。


見えないけどそこにいる蟻地獄と、自分。


外と中。他者と自分。
あなたとわたし。


そんな蟻地獄と私の、出会いの話。


年を重ねて、日々にのまれて忘れてしまうことが増えてきたので書き留めておく。

砂村砂音里.

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