「戦争」の対義語は「平和」なのか?いま僕が感じる「平和」について言語化してみた
こんばんは
DREAMERS COFFEEのKoheiです。
最近は、お風呂の中でボーっとしているときに、なんだか大切そうな気がするなぁ…というメッセージを受け取ることがよくあるんです。
感じたことは、ちゃんと自分の言葉にしないと「あれ?あのときの…何だっけ?」と忘れてしまうので、なるべく何かしらのカタチで言葉にするようにしています。
ということで、夜遅いですが、今日はnoteにPCをカタカタさせながらまとめていきます。
このnoteを読んだ人が、何か気付きを得られたら、気付きを得られるキッカケとなったら幸いです。
戦争から何を学ぶ?
現在、ウクライナやイスラエルでは、罪のない一般市民を巻き込む非常に残酷ことが起こっています…。
同じ地球上に住むひとりの人間として、両者にどんな正義があったとしても、罪のない人を巻き込む戦争は正当化されないし、早く終わることを心から願います。
しかし、この残酷な争いなるものをさまざまな角度から考察していると、僕たち一般市民の生活の中にも近しい「争い」が存在しているように感じることがある。
では、具体的にどのようなことが近しい「争い」に感じるのかというと、それは日常的に起こる「言い争い」です。
命を奪っていないので気付かないかもしれませんが、言い争いは、ときに相手の心に一生治らない傷(トラウマ)を与えます。
言葉はときに「強力な凶器」になるからです。心で思ったとしても、絶対に言ってはいけないことってあると思うんです。
ヒートアップしているときって、つい言ってしまいそうになることもあるんですが、本当に気をつけなきゃいけないんですよね。(自分への戒め。)
さらには、言い争っている本人たちは、自分と相手だけでしていると思っているんですが、周りにいる人たちからしたら、すごく迷惑に思うこと、嫌な気分になることもあります。
こうやって捉えると、両者それぞれが自分の考えが正しいと、自分の意見を正当化するために言い争い、ときに関係のない人までも巻き込む、まさにウクライナやイスラエルで起こっていることに近しいと感じるのです。
なぜ人は争いをするのか?
個人的な意見なんだけど、人が争う理由って、お互いの考えの違いだと思う。
そして、その違う考えを両者がお互いに主張し合う、正当化し合うから摩擦が起こり争いになる。
それが「言い争い」なんだと思うし、それを武力でねじ伏せにいくのが戦争…。
相手を説得・納得させるのって不可能で、人を変えられるのは「自分だけ」で、いくら頑張っても他人を変えることってできないのにね。
だから、力でもって無理やりねじ伏せにいってしまう人もいるのかも。
けど、ぼくは、説得も納得もさせることなく、考え方の違う人たち同士が平和的に解決する方法があると思っているし、あることを願っています。
その解決方法は「1つの正解」があるわけではなく、すごくすごく難しい問題であることは間違いないでしょう。
ただ、相手を力(権力や財力、地位)でねじ伏せるのだけは絶対に違う。
平和とは何なのか?
平和って何なんだろう。「戦争」の対義語が「平和」であるのなら、争いのない状態のことを言うのかな?
少しだけ話が逸れますが、
縄文時代は約1万年もの間、平和な時代が続いたと言われています。その証拠に、縄文時代の人と思われる遺体には刺し傷や争い痕がないとも言われています。
平和を知るためには、縄文時代のこと(日本の歴史)を知ることで理解できることがあるのかもしれません。
縄文時代については少し学んでいますが、まだまだ知識が浅いため、いまのぼくには多くを語ることはできませんが、きっと何か大切なことが隠されているように感じます。
考え方は違うかもしれないが、相手の意見を尊重したうえで、自分の意見も述べる。そして、日本人らしく「愛」でも持って接することが大切なのかもしれない。
日本人は、昔から多神教です。1つの神だけを信じるのではなく、柔軟にさまざまな神様を受け入れてきました。
そんな「懐の広さ」を持って生まれてきたことは、心の底から誇れることなのではないでしょうか。
一人ひとりが自分を愛し、また他人のことも愛す、そうすることで争いのない状態「平和」は訪れるのかもしれません。
誰にだって、それぞれの「個性」「考え」「主張」があります。それは悪いことではなく良いことです。あとはそれを「愛」でもって受け入れられるかどうかなのかもしれないですね…。
うまく言葉にできているのかは分かりませんが、いま思ったことをただただ言葉にしてみました。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
DREAMERS COFFEE
Kohei
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