『おくのほそ道』を詠む⑧
白河
心もとなき日かず重なるままに、白河の関にかかりて、旅心定まりぬ。
いかで都へと便り求めしもことわりなり。
中にもこの関は三関の一にして、風騒の人、心をとどむ。
秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢なおあはれなり。
卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。
古人冠を正し、衣装を改めしことなど、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花を かざしに関の 晴着かな(曽良)
須賀川
とかくして越え行くままに、あぶくま川を渡る。
左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地さかひて、山つらなる。
かげ沼といふ所を行くに、今日は空曇て物影うつらず。
須賀川の駅に等窮といふものを尋ねて、四、五日とどめらる。
まず白河の関いかにこえつるやと問う。
「長途のくるしみ、身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧に腸を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の 初やおくの 田植うた
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつづけて、三巻となしぬ。
この宿のかたわらに、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧あり。
橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚えられてものに書き付はべる。
其詞、栗といふ文字は西の木と書きて西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生杖にも柱にもこの木を用いたまふとかや。
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗
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都会で暮らしていて、風流などとは無縁だが、きりたんぽ鍋を食べるときだけは、田舎を思い出し風情を感じる。
いくらでも 食べれてしまう きりたんぽ
芭蕉の俳句には、わびさびが感じられます。
素材は、どこにでもあるような馴染みのもので、それでいて、派手な言葉がない。
ホッとするような句です。
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