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この世ではなく御国に期待するという生き方

こんばんは!カモミールです。

今日、祈っていてこんなことを思い起こされました。その内容をツイートして、いろいろな方々にいいねをいただいたので今日はこのお話をしてみたいと思います。

祈りの中で思わされたことがありました。それは、御国に期待を置きたいということです。この御国に期待を置くというのは、この「夢見る羊飼い」の「夢」に関する大事な部分であると思います。

私たちが生きていく上で希望はとても大事なものです。今、目の前に直面していることに頑張る理由、なぜ私はそれを頑張らなくてはならないか、という理由づけしてくれるものが希望なのではないかと思います。こういったことがしたい、こんなことができるようになりたい、こんなこと叶えたい。そういった希望があるから私たちは、今目の前にしている、大変なことや困難を乗り越えていけるのではないかと思います。

僕はこの「夢」、希望というものがとても大切だと思っていました。今もそう思っています。しかし、一昔前までは、この夢、希望を少し間違えて設定してしまいました。

その間違えとは何か?

それは、この世に希望を置く、ということです。僕は今年の3月に、4福音書を連続して何回も読む機会を与えられました。そして、この福音書を連続して読む中で、繰り返しイエス様が言っていることがありました。

それは、この世にあるものに期待を置くのではなく御国に期待しなさい、ということでした。

自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。
マタイの福音書 6章19~21節

ここであるように、この世に宝を積み上げるために頑張ろうとしていたのです。

僕は、実は昨年まで起業して会社を経営したいという思いがずっとありました。父が中小企業の経営者で、子供の頃から自分の会社を作ることが憧れでしたので、僕も社会人になって経験を積んだらいつか会社を立ち上げたい、そして父の会社よりも大きくしたい。そう強く願っていました。

そして、その思いもいつしか、ただ会社を立ち上げるだけではなく、業績を伸ばして大人数の社員を抱えて大きな会社にし、自分自身は裕福な暮らしをしたいと願っていました。神様もそのような願いに応えてくださると思いましたし、そんな僕の姿を見て、自分もそんなふうな経営者になりたい、とたくさんの人たちに思ってもらうことが伝道につながるのではないかとすら思っていました。

しかし、社長になりたい、お金持ちになりたい、と思う一方でいつも心の中でマタイ6:19-21のみことばがずっと引っかかっていました。なんだかこのみことばが解決されていない、何かが違うと思いながら、でもずっとその夢を追いかけていたのです。

しかし、去年の10月ごろ、神様から言われた一言で、今までの人生が全て変わりました。それについてはまたいつか書きたいと思いますが、そうして僕が変えられて、そして今年の3月に、4福音書を改めて連続で読み通している時に、完全に神様は、この世のものにではなく、御国に期待すべきなのだと伝えていることがはっきりとわかったのです。

御国ってどんな場所なんだろう、天国ってどんな場所なんだろう。苦しみも、悲しみもない世界で神と共にそばで暮らしていけるってどんな気持ちなんだろう。そんなことを、想像して楽しむ、楽しみにする。そんな、期待が僕たちを楽しませてくれるし、ワクワクさせてくれるのかな、と思ったのです。

そう考えた時、御国がゴールなのだとしたら、今の人生はなんなのだろう?と思うのです。クリスチャンとして救われてしまえば、御国にいくことは約束されます。であれば、それでもうほぼ人生は終わりなのではないでしょうか?

おそらくそうだと思うのです。救われた時点でほぼもう試合は終わったと言ってもいいのかもしれないなと思ったのです。大事な部分は乗り越えることができた。救われるまでに険しい道のりを辿った人たちはようやく上り詰めたその状態でようやくゴールを迎えたということになります。もしクリスチャンホームで生まれて、子供の頃から教会に行き、若くして救われたのなら、若くして大事な試合を終了したということになります。

では、残された人生はなんなのでしょうか?つまるところは、それは余生なのではないかと思います。地上で御国に行くまでに生きることができる時間。その時間なのではないかなと思います。

私たちは救われた時点で天の御国の国籍を手に入れたのです。そして、日本国民であり、同時に天国の国民でもあるのです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
ペテロの手紙 第一 2章10~11節

ペテロは私たちを寄留者と呼んでいます。これは昔の訳ではこの世は仮住まい、ということでした。つまり、この世で生きているということは仮住まいなのです。本当の住まいではないということなのです。

でもそう考えてみれば、よくわかるのではないでしょうか?僕は、地上での報いを考える時いつも思い起こすことがあります。それはアメリカで何百年にもわたって起きた黒人奴隷制度です。なぜ、黒人の人たちはあんなにも苦しめられたのだろうか。どうしてそんな酷いことが起きたのか。奴隷となった黒人たちも、たくさんの人が福音を聞いて信じていたのです。それなのにどうして神はその人々を憐れまなかったのだろう。どうして祈りは聞かれなかったのだろうと。

でも、仮住まいなのだと言われればそうなのかと納得できますよね。この世で、それだけ苦労して、死ぬ思いで生きてきた人たちは、御国に行き、それはそれは天のお父さんは彼らを抱きしめて、辛かったのによく頑張った。もう苦しみは終わりだよと言って彼らを大いに報いてくれるのだろうな、と想像できるからです。

そしてこの世に期待しないということは、お金にも、住むところにも、どれだけすごい人たちと仲良くなるかとか、そういったことに期待をおかず生きていくのが幸せな道なのかもしれません。

そんなのつまらないではないか!味気ないではないか!と思いますよね?

でもそうではないと思うのです。なぜなら、私たちは「互いに愛し合って」生きていくから。互いに愛し合って生きていくことが、幸せの根本なのではないかと思うのです。人を幸せにすればその幸せは帰ってくる。そして、人と共に愛を持って生きていくことこそ、楽しくて、充実して、満たされて生きる正しい生き方なのではないかと思うのです。

そんなことを思わされて、思い立ってこのツイートをしました。最近祈り求める中で、神様が与えてくださった知恵です。

そしてこの生き方は、これから説明していく「夢見る羊飼い」の生き方の根本であり、最も重要な考え方の一つになると思います。

そんなことを悟らせてもらってもらった昨今でした。このことを悟らせてもらってまもないうちにここに書く恵みにあずかれたことも本当に嬉しく思います。

この考え方が、少しでも信仰生活の参考につながるのであれば幸いです。

読んでくださって、ありがとうございました!

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