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「願い求める」ということについて

夢見る羊飼いの大切なコンセプトに「願い求める」ということがあります。

私たちの人生を最も有意義にエキサイティングに生きるためにはやりたいことをやるということにあるのではないかと思います。自分は何を望んでいるか、どのようにして生きたいのか、何をしたいのか、何を達成したいのか。それを考え、うちなる自分の思いに気づき、やりたいことをやる人生こそ、充実した人生なのだと思います。

これはノンクリスチャン的な価値観でもあると思いますが、クリスチャンも同じだと思うのです。神様は自由を与えてくださいました。また同時に神様は、イエス様を受け入れた私たちの罪をも許してくれたのです。私たちは律法の元から外れて、自由に歩むことができるようになったのです。隣人を愛し、御霊による新しい律法のもとで自由に歩むことを許されているのです。

やりたいことをする上で大事なことは、自分の内側の願いに気づくということです。そして何より、その想いを願い求めることが大切なのだと思います。

イエス様はこのようにおっしゃいました。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
ヨハネの福音書 15章7節

私たちは神様に繋がっていることで、求めるものを何でも求めていいのです。欲しいもの、やりたいこと、境遇。求めることによって神様は与えてくださるのです。「求めなさい」の箇所はまさに、神様に求めることで神様は与えてくださるということを教えてくれているのです。

願い求めた先に必ず願ったものを与えられるかどうかは、残念ながら必ず与えられるとは言えないでしょう。私たちは人ですし、弱い肉を持っていますから、時に自己中心的に願ってしまったり、間違いを犯してしまうこともあるのです。それが人間です。

でもここで大切なのは、願い求めずして知ることはできないということです。自分自身の内側から溢れてくる思いが、もし悪いものだとして神と繋がる中で願い求める平安がないのであればそれはやめておいた方が良いでしょう。しかし、もし神様と繋がり、平安があり、神様もそれに背中を押してくれていると思うのであれば、心から願い求めるべきなのです。

たとえそれが間違っていたとしても、それが本当の自分の願いではなかったのだとしても、溢れる思いを神様にぶつけて願い求めるべきなのです。その先に、神様が見せたい未来があり、あなたに歩んでもらいたい道があり、神様があなたに得てもらいたい色々なものがあるのです。それは試練かもしれません。困難かもしれません。苦しい道かもしれません。もしかしたら本当の祝福かもしれません。

溢れる思い、願い求める思いこそ、神様に願い求め、ふるいにかけるように余分な思いを削ぎ落として、本当に心から求める洗練された内側の思いに磨き上げられ、その思いを人生をかけて貫き通していくのです。

アメリカで1800年代、キリスト教が人々の中で形骸化されていた時、あるご老人がリバイバルを祈り求めたところから、アメリカの大リバイバルが起きました。心が失われていたクリスチャンが息を吹き返し、世界に影響を与えるほど活気のあるクリスチャン大国へと成長したのです。

願い求めるとはそういったところから始まるのです。そして、願い求めることで神様は私たちが考えてもいない、思いもよらない奇跡を起こしてくれるのです。

私たちの人生に奇跡を呼びたくないですか?神様は奇跡を行う方です。この方に寄り頼むことで思いも寄らない奇跡を呼び起こすことができるのです。その奇跡も、願い求めるところから。間違ってもいい。間違ったら、そこからしっかりと学んでいけばいい。間違いなくして成長はできないのです。

神様は、我が子がつまづき転んでる姿を決してバカにしたり、見捨てたりしないでしょう。むしろ、優しい眼差しで起き上がることを心から望んでいます。それくらい愛のある神様なのです。

この方に期待し、私たちは心から溢れる思いを願い求めるべきです。願い求めた先に、感動や希望、私たちが心から溢れる喜びがさらに溢れてくるのだと思います。

クリスチャンはやりたいことをやるべき!そして、心に思う願いを神に繋がり願い求めるべきなのです!

その先に、神様の大きな夢の実現がきっとあなたを待っているのだと思います。

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