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最愛の母は今もきっと私のそばに。

私の母は昭和6年に満州で生まれました。

5人兄弟の一番上、母・4歳下の弟・8歳下の妹・10歳下の妹・15歳下の妹がいる家庭の長女としてとてもしっかりした姉御肌の性格でした。

満鉄(満州鉄道)に勤めていた父の影響で小学生まで満州で過ごし、病気がちだった実母の代わりに弟や妹の面倒をよく見ていたといいます。

終戦直前、満州から天草に引き揚げてきて、天草で女学校に通いました。弟や妹を抱えつつの貧しい生活は続きました。実母(私の祖母)の病気は重くなり、父(祖父)は母(祖母)とは離縁しました。そののち、五人の子のいる家に継母が来てくれたけれども長女である私の母が働いて子供たちを食べさせなくてはと思ったようです。

当時GHQによる戦後の看護教育が行われ、大都市にいくつかの国立病院付属看護学校が設立されていたので、母は一人大阪の看護学校にやってきました。

当時は、卒業後の病院勤務をすることと引き換えに、学費も不要・寮費も不要・三食食べさせてもくれる、そんな時代。どんなに貧しくても身一つで看護の道を目指すことができました。

母も学校(病院?)の寮に入り、学校生活を終え、卒後国立病院に勤めることで給料を得、熊本の家族を助けていたようです。

その後、兄弟のうち何人かは母を頼って京都や大阪にやってきているので、妹たち(叔母)は今も大阪在住だったりします。

そして京都の国立病院勤務時代に縁あって父と出会い結婚しました。父と母26歳の時です。

なかなか子供に恵まれず、結婚11年目(二人が38歳の時)に私が生まれるまで、二人は当時珍しいダブルインカムの生活を謳歌し、夫婦二人の生活を楽しんでいたようでした。

父と母のアルバムにはスキーやスケートをしている様子、赤倉や白樺湖に出かけている様子、富士急ハイランド、伊豆高原など・・・楽しそうな様子がたくさん写っています。

時代は日本の高度経済成長期。働けば働いた分だけ地位も名誉もお金も手にすることができる時代。儲け方も使い方も豪快だったと聞いています。

昭和44年、父の転勤で二人が東京に住んでいた時に私が誕生します。

今でこそ30代後半でも40代でも妊娠出産される方がたくさんいますが、当時は35歳を過ぎたら高齢出産の烙印を押される時代。戦後の栄養不良の時代も経験した父と母です。二人はそれほど大柄に成長することもできず、母の子宮の発育も悪かったようで、未熟児で生まれた私が大きな病気もせず元気に成長したことは奇跡のようだと何度も何度も母は私に話してくれました。

母は亡くなるまで、『あなたを一人授かってよかった』『産んでおいてよかった』と何度も言ってくれました。

そんな私は、両親に間違いなく愛され大切に大切に育てられましたが、父は昭和一桁生まれの男子にありがちなワンマン亭主・頑固おやじでしたのでなかなか娘とのコミュニケーションは上手に取ることができず、専ら私は母とばかり話す子になっていました。(不器用な父でした)

母は、私を産んで育てる6年くらいは家にいてくれたようですが、看護師でしたので仕事のお誘いが多く、私が小学生になるころには看護学校の教師としてお声がかかり、教務主任として働いていました。

家に帰っても母がいない。小さなころから鍵っ子で、近所のおばさんたちが一緒に留守番をしてくれるような生活の一人っ子。寂しくないわけがありません。

何度も『お母さんは学生と私、どっちが大事なのよ!!』と言い合いになっていました。

今思えば、何度も何度も母を責めたり反抗したり、不満をぶつけたりしましたっけ。母にだけは我儘が言えたのです。

母は都度悲しそうな顔をしましたが、『ゆみちゃん、寂しいのよね』といつも気持ちを受け止めてくれる人でした。

確かに寂しかったですが、いつしか、母は誇らしく、私の尊敬する人になっていきました。

私は、『自分が寂しい思いをしたのだから、母と同じ道は選ぶまい』という娘ではありませんでした。我が子にも寂しい思いをさせるかもしれないと思いつつも母と同じ道を選びました。

高校の時に進路を看護に決め、看護大学進学を決めたのです。

母は本当に嬉しそうに、いつも応援してくれました。

親元を離れて一人暮らしをしながら大学に通った4年間も、いつ帰ってきてもいいからね、と旅費をくれましたし、相談したいことはいつでも相談に乗ってくれました。

当時携帯もない時代。手紙やFAXで何度も何度も書簡を交わしました。

いつも肯定的に温かく受け止めてくれる母の手紙は…今読み返してみても愛に溢れていて涙がこぼれます。

これ以上ないくらいの太陽の光でいつも私を包み込み、『あなたは教育に向いていると思うからいつか教員になるといいかもね…』なんて言ってくれていましたっけ。

そんな、母にとって宝物のように大切な一人娘であったはずの私が、看護師になって6年目に産んだのが障害を持った娘でした。

私の人生の目的は、【広く社会の役に立つ人間でありたい】というものから【この子をとにかく必死に護り育てる】という目的に変わりました。

看護師として、医療職として社会貢献ができる生活からすっかり遠ざかり、こじんまりと家の中で燻ぶりつつ娘の育児に格闘する私を、母は私以上の悲しみや苦しみで見つめ続けてくれていたことと思います。

愛しい娘が、どこにもお手本がないとんでもなくマイナーな育児に翻弄されてもがいているのをどんな思いで見つめてくれていたことでしょう。

なのに、私は、そんな愛情を丁寧に感じ取ろうともせず自分のことだけで必死で、時に八つ当たりし、時に蔑ろにしてきた親不孝者です。

それでも、母は最期まで『あなたを産んでおいてよかった』『あなたは自慢の娘、大切な娘』と伝え続けてくれました。

私はその母を、2018年の8月に、突然失うことになりました。

晩年、少し認知症状が進み、一人にしておくのが難しくなってきた母は有料のホームに入ってくれていました。

娘と母、二人を私一人でお世話するのは無理…との判断でした。

一人にしておくには確かに不安がありましたが、まだまだ元気な母でした。大きな病気もなく、足腰もそれほど弱っておらず。

それなのに、2018年の夏の暑さで一気に体力を奪われ、あれよあれよという間に脱水症などになりやすくなり、弱った状態で食事をし、のどに詰めてしまい、あっけない別れとなったのでした。

がんの闘病の末、私にできることは精いっぱいできたかなと思いつつ見送った父と違い、母にはもっとこうしてあげればよかった、もっと時間を大切に使えばよかったと後悔しかありません。

まる3年が経った今でも、胸の中でチクチクと私を刺す痛みがあります。

「ああ、これを世の皆さんは『お悔み』というのだ」と痛感しています。


そして、今。

私は母を失ったちょうどそのころくらいから。

ご縁を頂戴し、私立の短期大学・国立大学・有名私立中学高校・地域や職能団体などで、授業のような講義のような講演のような・・・そんな時間を持つことが少しずつ増えてきました。

思わぬ方向からのお声掛けでご縁が繋がり、たくさんの方に話を聞いていただく機会をいただいています。


『ゆみちゃんは教育に向いていると思うよ』

と言ってくれていた母。

母に見せてあげたかった、聞かせてあげたかった、な。

公立大学から恐れ多くも非常勤講師の辞令などをいただいた折には仏壇に報告し、喜んでくれているだろうかと思ったり・・・。


でもきっと、今私がここにいるのは、母がこの道に導いてくれているような気がするのです。

きっと見てくれているような気がしています。


今私が、息子や娘のことをどれほど愛しても愛しつくせないくらいに愛していて、どんなことが起ころうとも、たとえこの命が終わろうともわが子たちを守っていけると信じて疑わないのと同じくらい、きっと母は見守ってくれているのだろうなぁ…と、そんな感覚が私の頬を撫で、肩を抱いてかすめていくような…そんなふうに感じられる今日この頃です。



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お読みいただきありがとうございました。

地域の保健室をしつつフリーランスとしてお仕事している笑顔大好きな【なつまま】が、重度障害であるアンジェルマン症候群のキュートな娘との豊かな生活と、医療や福祉について思うこと、日々の小さな気づき・感動などを綴っております。

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