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キントキ、家に帰ろう 【第三章:ごめんねとありがとう】

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門 #猫 #猫好き #猫のいる風景 #猫の想い出 #闘病日記

■ありったけの想いを込めて

ゴールデンウィークが明けても、相棒は小さな身体で毎日病院に通い、頑張っていた。
もしかしたら、何とかなるんじゃないか、と思えるくらいになった時もあった。

5月27日に院長から会社にいるわたしに電話があった。
「血管が全て潰れてしまって、もう点滴の針を刺せるところが首以外にありません。」
毎日8時間以上病院で点滴をしてきた結果、両手足の血管がどんどん潰れて使えなくなっていた。

ずっと消えていたケトンがまた出てきていた。
だけど、静脈点滴ができないから、どうしようもなかった。
だんだん食欲もなくなってきて、強制給餌をするようになった。

静脈にできないなら、皮下点滴をするしかない。
皮下点滴では薬は入れられないけど、水分を補って血液循環をよくしないといけない。わたしも家でやれるよう、やり方を練習した。病院で飼っている猫でもやらせてもらった。

だけど心筋症のせいで、今度は胸に水が溜まってしまう。
皮下点滴しては、胸水を抜く、そんな繰り返しだ。

今の生活は、平日は朝8時半に病院から迎えがきて、夜19時半に、家に送ってくれる。
1日の報告を聞いて夜のインシュリン注射の量の指示を受ける。インシュリンを打って6時間後の様子を確認する。
オシッコをしたら、すぐケトンと尿糖を検査して、次のためにトイレを洗っておく。

朝、玄関のチャイムが鳴ると、相棒はおぼつかない足で必死に逃げようとした。最後には、もう諦めてうずくまっていたけど、抱き上げるとわたしの身体にイヤイヤをするように顔をうずめた。

もうイヤだよな、わかるよ。ほんとにごめん。

でも、静脈点滴が出来ないなら一日中病院にいる必要はない。家で、朝晩夜とわたし自身が必要なことをやることで、ずっと家にいることができる。
自分のベッドにいられる。

土日に病院でやることを実際にやってみた。

皮下点滴60mlを1日3回
インシュリン注射を1日2回
強制給餌を1日3回
錠剤と粉薬の服用
ほかにご飯も出してスプーンで何とか食べさせようとする
それにオシッコ毎にケトンと尿糖の検査

ウンチは我慢できず、コロコロと落としてしまうので後から拾っては掃除する。
ヘトヘトだった。

それでも絶望の中で、もしかしたら何とかなるかもという希望に何度もすがった。

平日にも、朝晩夜とそれができるようになれば、何とか出来る。仕事をセーブしてでもやれることはやる、そんな思いだった。

でも、そんなわたしの決心に反して、一進一退が徐々に下がっていく、そんな感じだった。

プラセンタ注射のせいか、肝機能の数字はいいのに、ビリルビンがどんどん上がってきた。胆管、膵臓にも障害があり、もう肝細胞自体が壊れてしまっているということだと知った。

脚がますます弱ってきて、ヨタヨタと歩きながら横に倒れることもあった。それでも必死にトイレに行こうとする姿が痛々しかった。

6月11日の夜、とうとうまったく歩けなくなった姿を見た時、ああ、もう時間があまりないのかもと思った。
今週末は、ゆっくり一緒に過ごそう。
来週は会社を休んで一緒にいてやろう。

木曜日は、夜戻っても家では一度も飲食をすることなく、オシッコもしなかった。金曜日には寝たままウンチをするようになって、翌日届く店でオムツを注文した。オムツ姿は美意識の高い本人としては不本意だろうが、土日はオムツを履かせて、二人でゆっくり過ごそう。。。

猫は死期を自分で悟るという。
だけど相棒は、何が自分に起こっているのか、さっぱりわからない、そんな顔をしてた。倒れても、びっくりした顔をしていた。

だから、今まで悲しみや怯えを悟られないように、普通に話しかけてきた。

でも…

いつまで続くんだろう、そう思ったわたしの気弱な心に気づいたかもしれない。

金曜日の昼間に、院長から電話があった。わたしは会社のデスクにいた。貧血なので、最後の手段である首の静脈を使って輸血をするか?と聞かれた。

だけどもう、ボロボロに禿げて、かさぶたや傷だらけになった両手足を思って、わたしはちょっと待ってと断った。輸血をすると肝機能が悪くなる。今まで何度も輸血してきて、また肝機能を戻すのに、一苦労した。

もうそんな体力は残っていないし、それをやって命がこの先ずっと助かるなら、どんなことでもやるけどきっとそうではない。それは一時しのぎでしかないに違いない。

針を刺すからには薬を入れるために留置針になり、また入院になるかもしれない。これ以上、痛い思いで首にまで留置針を入れるのは、あまりにも可哀想に思えた。

「もう少しだけ待ってください」苦渋の決断だったけど、相棒は、こんなわたしの諦めとも言える判断を悟ったのかもしれない。

だけど、こんなに急にその時がくるとは思わなかった。

金曜日の夜に家に戻った相棒は、そのままベッドで寝たきりだったのだけど、インシュリンを打ったあと、いつも丸くなって爆睡のはずが、その夜はわたしが前を通るたびにいちいち頭を上げてわたしの方を見た。

なんだかんだで夜中の2時頃になって、わたしのベッドの横の床に、いつものように相棒のベッドを置いて、さあ寝ようね、と言った。

一度は寝たと思った相棒がゴソゴソ起きるので、トイレに行きたいのかと、連れてったけど、支えてトイレに入れてもオシッコをしなかった。床におろしたそのとき、「オーン」という奇妙な声を出した。

ベッドに戻ってうとうとと眠った4時前に、また動く気配に気がついた。
声を出した気がして、よく見ると、呼吸が荒かった。

よしよし、キントキ、大丈夫?苦しいの?と身体をさすったとき、今度はもっと大きな声で、「オオーーン」と鳴いた。
今まで聞いたことのないような大きな声だった。

目を開いて口を大きく開け、脚を伸ばしてあまりに呼吸が苦しそうなので、これは救急に連れていったほうがいいのか??と焦って、院長に電話した。

「もうあと1時間くらいかもしれません。もっても2〜3時間かも」
悲しそうな声で院長が言った。

…いつかはくると予想していた言葉にも拘らず、え?今?ちょっと待ってと頭がパニックになって、電話を持ったまま「キントキ、キントキ!」と叫びながら、身体をさすってさすって、、、気づいたら、、、呼吸が止まっていた。

あっけなかった。

いつ止まったのかさえわからなかった。

ほんとかどうか、何度も身体を揺すって呼んでもまったく反応がなくて、愕然とした。
わたしはなんて間抜けなんだろう。。
これが最期なら、どうしてぎゅっと抱きしめてあげなかったんだろう?ずっとずっと抱きしめたまま、逝かせてあげたかった。

明け方に、大きな声で泣いた。
何度も名前を呼びながら、子供のように泣いた。

こんなに急に逝くなんて、もう少し待って、わたしが「ありがとう」って言う時間が欲しかった。
あまりに早く「ありがとう」って言ってしまったら、それはもう死を知らせることになるから言わなかったのに。。

おんおん泣きながら相棒をタオルでくるんでわたしのベッドに載せた。
泣き続けながらそのうちものすごい眠気が襲ってきて、そのまま横になって寝てしまった。

8時頃、目を覚ましたら、相棒は同じ格好のまま眠ってるみたいだった。

なんてことだろう。。。
これが現実なんだ。

6月14日の未明。
院長曰く「病院始まって以来の最強の(治療がきかない手こずる)猫」はこうして14年6ヶ月の生涯を終えた。

誰もがよく頑張ったねといってくれる。
でも頑張ったならではの結果ではない。
欲しかった結果ではない。

あの時、ああしていれば、こうしていれば、という後悔は尽きない。
それらはどれも、わたしの自分都合のせいだ。
「後悔がないなんてことは、どうしたってないんだからしても仕方ない」と友人は言う。
それでもメソメソと泣きながら後悔した。

相棒には土日なんか関係なかったのに。
食欲がないと思った時、次の休みにじゃなくてすぐに病院に行くべきだった。
またわたしは時間を人間時間で考えたのか。。
大馬鹿者だった。

そもそも病気の発覚が遅れたのはわたしのせいだ。
わたしが時間を人間感覚で捉えたせいだ。もっと早く病院に連れて行っていれば、こんなに苦しい思いをさせずに済んだかもしれない。
もしかしたら糖尿病だけで、インシュリンコントロールだけで済んだかもしれない。

金曜日、院長の言う通り、首からでもそれが最後でも輸血をすればよかった。
そうしたら、土日は一緒にゆっくり過ごせたかもしれない。
わたしが死期を早めた。
この後悔は一生続く。

その日は抜けるような青空だった。

身体を丁寧に拭いて、ベッドに寝かせた相棒をベランダに出し、ベンチでボーっと空を眺めていた。
空と雲をこうしてのんびり眺めるなんて、何年ぶりだろう。。
風が気持ちよかった。

生きていたら今日一緒にそうするはずだったのに、、相棒はこの空をもう見ることはない。

キントキを眺めては撫でながら一日泣き続けた。

夕方、友人がきてくれても、ただただ泣き続けた。
顔がまたダボハゼみたいに腫れた。

翌日はお葬式だった。
お寺から電話がきて、段取りやコースの料金などを遠慮がちに言った。お任せコースなんかにしないよ。ちゃんとキントキを見送る。

「お棺に入れる、何か好きだったものがあったら持ってきて下さい」と言われた。おもちゃはすぐ飽きたし、キャットニップ枕くらいしかないから、手紙を書くことにした。
ありったけの想いを込めて、ごめんねとありがとうを繰り返した。

3歳くらいのころ、膝のお皿が外れて歩けなくなったことがあった。院長は手術の準備をしたけど、ブリーダーさんに相談したわたしはダメ元で馬や大型犬を診る獣医さんを紹介してもらい、家から片道1時間はかかる病院まで、毎朝会社が始まる前に連れて行った。

病院が開く前に注射をしてもらい、1週間を1クールとして、間を空けて3クール、通った。そしてなぜかその注射の効き目があって、奇跡的に治った。

でもそれは、恐ろしくて言えなかったけど、もしかしたらわたしのベッドの上で寝ていた相棒を、寝返りを激しくうったわたしが床に振り落としたせいかもしれない、、寝惚けててよく覚えてないけど、そのせいで膝を打ったのかも。
そんなことも正直に書いて謝った。

その手紙を相棒の身体の側に置いた。

お葬式は人間と同じように、告別式、読経、焼香、出棺、火葬の儀式がある。
お坊さんがきて、
「あいびょ〜う〜きんとき〜の〜」と言ったときだけ、少し笑いそうになった。「あいびょう?愛猫て、あいねこって言うんじゃないの?」
「あいけん=愛犬なんだから、猫はあいびょうだよ」
そんなことをコソコソ話した。
こんな話ができる友人が付き添ってくれたことが何よりも支えだった。
ひとりでは耐えられない。

蓮華堂に入って最後のお別れをと言われて、花でいっぱいにうずめた相棒の頭を撫でた。固くなった感触が、もうここにはいないよと告げていた。
そしてお棺は、火葬炉に入ってしまった。

1時間くらい経っただろうか、呼ばれて焼かれた骨を拾った。
骨壺に入れて四角い箱を抱えて家に帰った。白い箱を抱えた自分の姿は、なんだか安いサスペンスドラマで見る光景みたいだった。

こんな骨の姿、いらない、キントキにもう一度逢いたい…
逢ってまだ話したいことがある。謝りたいことがある。
そう言って家で泣き続けた。
寝ては泣き、覚めては泣いた。

キントキはわたしにとって、初めての猫で、かけがえのない相棒で、いて当たり前の存在だったから、その喪失感はハンパない。猫かわいがりとかしなかったけど、とにかく「いて当たり前」だった。キントキのいる風景がわたしの暮らしそのものだった。

この家に引っ越してきたその初日に来て、乳母友のエプロンのポケットの中でスヤスヤ眠り、オネショした。
そしてこの家で今まで14年と少し、これといった大きな病気もせずに育ってきた。

医療の発達は、治る者には有り難いけれど命をなくした者には残酷だ。
果てるまでの間、少しでも希望を持たせるから。
それが叶わなかったときの失望感は、最初からわかっていたときより、それはそれは大きくなる。

亡くなって感じたわたしの後悔は、もう一つあった。
キントキに望みがなかったのだとしたら、少しでも楽に、安らかに過ごせるように、あんなに嫌がる入院や苦しい治療をしないほうが良かったんじゃないか?
どこかでその判断をするべきじゃなかったのか?

できるだけの治療をすることは人間のエゴじゃないだろうか?
自分の贖罪のために治らない(とは思っていなかったけど)治療を強いていたんじゃないだろうか?
ただ苦しめただけなんじゃないだろうか?
キントキの気持ちを考えてあげただろうか?

そして、キントキは最後、幸せだっただろうか??

それから一週間、抜け殻のように情けない姿で過ごした。
抜け殻、腑抜け、幽体離脱、みたいだ。
脳貧血みたいな症状と頭痛が止まらなくて寝込み、それでも女々しくっていうか、女なので、とにかくメソメソ泣き続けた。
ただ歩いてるだけで涙が溢れてきた。
いい歳してみっともなかったけど、どうしようもなかった。

わたしはいつだって完璧でちゃんとしてると思われてるけど、本当はいいかげんだし、抜け抜けだ。
3日目にようやくモソモソと起きて、トイレやご飯台やベッド、カーゴを少しずつ片付けた。
ひとつずつ、洗うたびに泣いた。
ふと匂いを感じて泣いた。

トイレをしたか、ちゃんとベッドにいるか、確認する癖がなおらない。
いつだったか、クローゼットに入り込んだのを知らずに閉めて出かけたことがあったね。。ほとんど鳴かない猫だったから、帰ってからいないと大騒ぎで探した。それからはいつも出かける前にどこにいるか、気をつけた。

ドアの陰からヒョイと覗いてる気がした。
ふと足元にいる気がした。
よくシッポを踏んで怒られた。

思い出して、悲しくなって、思い出して、悲しくなって、を何度も繰り返しながら、少しずつ楽になるんだという。。。
そうだろうか、本当に時間が解決してくれるのかな、そんなことは永遠にないように思われる。

わたしの後悔は永遠に続く。

もちろん、亡くなったものは返ってこない。
だけど時間と共に忘れるんじゃなくて、自分への戒めとしてきちんと受け止めたい。

この濃厚な2ヶ月と10日間はわたしの人生の中でも忘れられない時間となるだろう。
価値観をすっかり変えた。
命、時間の大切さ、QOL、相手の気持ちを汲み取ること、感謝の気持ち、その時一番大切なことは何か、、、

キントキの闘病の姿を思い出すのは今でも辛い。でも何か書き記さずにはいれなかった。

自分の気持ちを整理するつもりもあったけど、動物と暮らす人たちに、本当にちょっとした変化にも気をつけてあげてね、と言いたかった。

たくさんたまった写真を整理した。
顔がよく似てるとよく言われてうれしかった。

まだすぐには元気になれそうもないけど、
少しずつ、自分らしさを取り戻していけたらと思う。

そして全力で相棒をなんとか治そうと最善の治療を試みてくださった病院の院長と先生方、スタッフの皆様に、心から感謝します。
本当にありがとうございました。

■四十九日法要

この7週間の間に悲しみが癒されるということはなく、むしろ喪失感は深まるばかりで。

こないだ掃除機の中を開けたら、相棒の柔らかいビロードのようだったグレーの毛がいっぱい詰まってて、それだけで泣けた。

抱きしめたときのフニャっとした感触が忘れられない。
もう一度、会いたいなあ。。

人は辛い危機に直面すると、本能的にそれを回避するために心にバリアを張るという。まともに対峙したら耐えられないから。そうやって自分を守りながら、引いては寄せる波のように、揺れながら、気持ちに折り合いをつけてゆくんだろう。

法要の儀が終わり、お骨を土に還してきた。

蝉が鳴き、照りつける太陽の下、わたしの気持ちを置いてけぼりにして、相棒のいない夏が過ぎてゆく。

■百か日法要。

こんな節目じゃなくたって、忘れないんだけどと思いながらも寺に向かう。

先日、相棒の夢をみた。
ずいぶん長いことご飯をあげてないことに気づいて、あせって探してた。クローゼットの奥で死んだようにグッタリしてるのを見つけた。何度も呼んで、揺さぶっていたら、息を吹き返した。
ああ、よかったと思ったら目が覚めた。

いなくなってから初めて夢に出てきた。
夢に出てきたら、それは無事に天国に行ったってことなんだよ、と友人が教えてくれたけど、、だけど、本当にいなくなったんだって、改めて思い知らされた感じ。

人間とか動物とかに関係なく、かけがえのない存在だったと今さらながら思う。秋が深まるみたいに、想いも深まっていく。

天国とかよくわかんないけど、、
もう一度だけでいいから力いっぱい抱きしめてあげたかったなあ。。
ありがとう、そしてごめんね、キントキ。

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