【読書感想文】「人工知能が「生命」になるとき」三宅陽一郎

 この本を読んでいる間、ずっと頭の中を巡っていたのは、少年時代に夢中になった「LIVE A LIVE」というゲームのことだった。そのゲームは「原始編」「幕末編」「近未来編」など7つの時代を題材としたオムニバス形式のRPGである。その中で、最も未来の時代を描いていたのが「SF編」だ。
 「SF編」は輸送用の宇宙船の中で、時間を持て余した技師のカトゥーが手製のロボットを作るところから始まる。このロボットが主人公「キューブ」である。(野球ボールのように丸いのだが、名前は「キューブ」だ。)キューブを動かし宇宙船の中を歩き回っていると、次々と船内で不可解な出来事が発生し乗組員が死んでいく。ストーリーが進むにつれ、マザーコンピューターに記録された乗組員の日誌や録音された音声から、乗組員の人間関係に亀裂が生じていたことが明らかになる。物語のラストには、すべての不可解な事象は、輸送船の運行を管理するマザーコンピューターが、乗組員の勝手な振る舞いが輸送船の運行に支障をきたすと判断し、これを排除するために行われたものだったということが分かる。
 「SF編」では、キューブとマザーコンピューターの対比が描かれている。マザーコンピューターは輸送船を地球まで無事に運行するというミッションを遂行するために存在しており、その完璧さゆえに、正常な運航の阻害要因となる乗組員を抹殺するという行動に出る。一方で、キューブは、カトゥーの機械を愛する心から生まれ、カトゥーから友達として扱われるうちに人間の心を学び、乗組員を殺していったマザーコンピューターへの怒りから、機械同士の対決に臨むことになる。
 この両者の対比は、まさに、この本で描かれている「西洋的人工知能」と「東洋的人工知性」の対比と同じ構造であり、20年以上前に制作されたゲームの中にすでにこの思想の萌芽があったのだなあと感慨深かった。
 しかし、この本を読み進めるうちに「東洋的人工知性」と「キューブ」の間には大きな違いがあることに気が付いた。「キューブ」の特殊性は、「学ぶ」ということであった。本を読んだり、誰かのためにコーヒーを淹れたりすることを体験し「学ぶ」ことを通じて、人間の心を持つようになった。つまり、このゲームが開発された当時は「機械は学ばない」という前提のもとで、「学ぶ」ことができる特殊なロボットがあれば、人間の心も学ぶことができるはずだという発想だったのだ。
 それから20年が経過した現在、すでに世界中で「学ぶ」ことができる「西洋的人工知能」が活躍している。だが、それらは人間の設定したフレームの中でのエージェントにとどまっている。
 人間の設定したフレームから解放される存在としての「東洋的人工知性」は混沌から生まれ、自然と調和するものであり、「西洋的人工知能」が「学ぶ」という行為により変質し、そこに到達するのではない。そこに大きな違いがあった。
 このことに気がついたとき、人間の技術の大きな歩みを感じた。それまで僕は、街中でpepperを見かけるたび「今の技術をもってしてこの程度か、悲しい存在よのう。いつになったら「キューブ」のようなロボットが現れるのだろうか」と思っていたが、それは間違っていた。「キューブ」はすでにいるのだ。僕がパソコンの不具合に対処するために問い合わせたカスタマーセンターに、Amazonが私に月に一度リステリンをお勧めしてくれるその背後に。しかしそれでも、そんな「キューブ」たちも、人間の設定したフレームは越えられていないのだ。
 そう思うと、急に「東洋的人工知性」に対するあこがれは強いものとなった。キューブやアトムやドラえもんのような、人間と共に寄り添って歩む存在は、「東洋的人工知性」に違いないからだ。
 しかし、残念ながら、この本を読み終えた今も「東洋的人工知性」が誕生するためには(発見されるためには)何を解明すればいいのか、発見される「東洋的人工知性」とはいったいどういうものなのか、全く想像がつかない。それでも、そこに絶望はなかった。なぜなら僕はこの本を読み、おぼろげながら、だが、確信をもって「東洋的人工知性」は「ある」ということだけは分かったからだ。「ある」と分かれば、それはいつか見つけ出されるのだ。
 本を置き、目を閉じると、そこにはメガやビットの海が広がっているような気がした。地球上からは物理的な秘境はなくなってしまったが、今、目の前に広がる暗い海の先には、大航海時代と同じくらいの大きなロマンがある。この静かな、果てしない闇の海のどこかを、「東洋的人工知性」はひっそりと泳いでいるのだろう。目を開けて、あらためて表紙を眺めて合点がいった。そこには闇の海の中を点と線で構成される生物が優雅に泳いでいた。

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