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とおしめ @37

漢字にすると「通し目」になるんだろうか。龍郷役場前に三百間土手と呼ばれているところがあり、土手のテリャ(小山)に直径2mほどのとおしめ(穴)が貫通している。

300年前、この一帯は広大な干潟だった。そこに土手と20ヘクタールの土地を造成し、そして新田開発をしたのが田畑左文仁だった。
土手の海側から新田側に流れる海水を調整するために掘られたのが、この「とおしめ」だ。激しい海水の流れと波風により、困難を極めた造成工事だったという。

ちょうど干潮時だったので海側に降りることができた。とおしめの前の岩にはアオサがびっしりと生えていた。晴天の下、左文仁も額の汗を拭いつつこのアオサの天婦羅を食べていたのだろう。

とうしめの真上のテリャの上には弁財天が祭られ、左文仁の造った三百間(約500m)の土手は、今は「浦の橋立」と呼ばれ見事な松の木並木になっている。看板のコピー ↓

浦の橋立(うらのはしだて)
現在、国道58号線が通るこの土手は、「浦の橋立」と呼ばれています。土手の松並木が日本三景の「天の橋立」に似ていることからその名が付いたそうです。ここは、奄美の「開拓の父」田畑佐文仁が、正徳年間(1711~1716)に浦の干拓工事をした際に築いた三百余間(約540m)の堤防跡といわれています。明治初期に作られた奄美の植物図誌である「大島郡島植物図稿」には、橋立と思われる姿が、島唄の俊良節(しゅんかねぶし)にも登場するトオシメとともに描かれています。松の木は、たびたび枯れたり戦時中には軍用材として伐採されたりもしましたが、町民の手で大切に守られてきました。



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