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#4 つぶやき五郎

 東京のタクシーの乗務は21時間、ほぼ丸一日お客様の相手をすることになる(その代わり休憩は好きなだけとれるし翌日は休みだし気楽なもんだけど)。だから変わったお客様も当然いるわけで、でもそういうお客様に接することこそがこの仕事の醍醐味なのかもしれない。その日はいつにも増し変態さんたちが多かった。 

 2010.05.03

⚪10:30 

いつものホテルで付け待ちしていると、ひとりの女性が乗ってきた。「どちらまでですか?」女性はうつむいたまま何も言わない。もう一度「お客様、どちらまでですか?」と訊ねてもまだ黙ったままだ。なかなか車が出ないので、ホテルのポーターが近づき心配そうに車内を覗き込んできた。ようやく顔をあげた女性は、うつろな目つきで「大森駅まで」と、小さな声で行き先を告げた。  

ホテルを出て最初の信号で右にウインカーをだすと、女性がぼそぼそと話しかけてきた。「はい、なんでしょうか?」と問いかけると、それを無視してまたぼそぼそ・・。なんだ独り言か。バックミラーで様子を確認しつつ慎重に走行することにした。突然、女性は笑いだした。「五郎ちゃん、五郎ちゃん、ちがうのよ五郎ちゃん、あはははは」ひとしきり笑いに満足したあと、またうつむいてぼそぼそぼそと独り言が始まった。

 とうとう大森駅に到着するまでその女性はつぶやき続けていた。 

 ⚪17:00 

新橋から乗った男性のお客さんはやたらと喋りかけてくる。「運転手さん若いねー」いや、あなたよりは年くってるけど。「俺の若い頃はねー」と、作り話の武勇伝を披露する。いや、今でも十分若いだろ。「どっちがはるかでどっちがはるなか知ってる?」いいえ、知りません。「まだ着かないの?」早く降りて下さい。 

 ⚪22:15

 大井町の定位置で車を停車していると、路地から頭をツルツルにした女性のお坊さんが乗車してきた。もうこのお坊さんは5・6回くらい乗って頂いている、顔なじみのお客さんだ。週の前半この時間この位置で待ってたら、けっこうな確立で遭遇する。

赤ら顔のお坊さんは「今日はあたしの誕生日だったのよ、はい、もらったクッキーあげる」と、かなり高級そうなクッキーをぼくに差しだした。そして「あなたも一緒に歌って!ハッピーバスディ~トゥ~ユ~~」と歌いだし、ぼくも強引に歌わされるハメになった・・

 ⚪23:00 

五反田の有楽街を走っていると、ワイシャツを血で真っ赤に染めたサラリーマンが手をあげた。かなり酔っている。そしてかなりヤバそう。見ぬふりして素通りしようかとも思ったが、得てしてこういうお客にかぎって長距離の場合が多いのだ。  

ヤバいお客は見過ごす(ほんとは乗車拒否はいけません)か、それとも危ない橋を渡って長距離を当てるか、そこがタクシードライバーにとっての鬩ぎ合いだ。瞬時の葛藤の末、ぼくは危ない橋を渡ることにした。  

「どちらまでですか」「高速に乗って横浜までね」ぼくは内心ほくそえむ。でも危ない橋はここからなのだ。眠ったまま起きてくれない、代金を払わない、ゲロを吐かれる、お漏らしされる、暴力をふるわれる、殺される、そんなことがないとも限らないのだ。  

何事もなく目的地に到着した。「ありがとうございました、○○○円になります」「どうもね、これ少ないけど取っといて」料金と一緒に五千円のチップを頂いた。

教訓:人を見た目で判断してはいけない。

 ⚪3:15 

銀座から池上までのお客さん。「着いたら起こしてください」と、そのお客さんは乗りこむとすぐに眠ってしまった。この時間のこのパターン・・ 慎重に運転し、慎重にお客さんを起こす。 「お客さま着きましたよ」 「あ、ありがとう」  

なにごとも起こらなく平和な1日が終了した。

 最初に変態さんと書いたが、つぶやき五郎さんもツルツルお坊さんも血まみれサラリーマンも、タクシードライバーにとっては決して皆さん変わったお客様ではない。いつもの日常の当たり前のお客様なのだ。タダ乗りされたりとか強盗に遭ったりとか、そういうことがない限り平和な1日なのです。 

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