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今井権現 @3

車一台がやっと通れるような山道を進んでいくと、真っ赤で派手な鳥居にたどりついた。そしてその奥には今井権現へとつながる長い階段が続いている。その赤すぎる鳥居と長い階段にしばし唖然とする。

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今井崎からは東シナ海と笠利湾の両方が見わたせ、その海域の監視役をしていた今井権田大夫が、この権現に祀られている。1692年(元禄5年)、上国した奄美の与人が階段用の石を持ちかえり権現に寄進した。153段 628個の石・・登り始めると権現までのその階段が想像以上にキツい。

そしてやっと辿りつくと、これまた派手な社殿が突如として目のまえに現れた。何故にこれ程までに派手なんだ・・疑問と違和感がわく。

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平家の落人伝説というのが東北から沖縄まで、全国各地にたくさん残っているが、この今井権現も平家と深いつながりがある。

壇之浦の戦いに敗れた平家の平資盛、有盛、行盛、の3人はまず喜界島にわたり、そして奄美大島にたどりつく。奄美を政略した3人は島を三分し、資盛は南の瀬戸内や加計呂麻島を支配し、有盛は名瀬の浦上を拠点に中部を、行盛は龍郷の戸口を拠点に北部を、それぞれに治めることになる。南の諸鈍には資盛を祀った大鈍神社があり、無形民俗文化財の「諸鈍シバヤ」は今でも引き継がれている。中部の浦上には「浦上城」が建ち有盛神社ができる。そして北部の戸口には「戸口城」が建ち行盛神社ができる。

源氏の追っ手を恐れていた行盛は、今井崎の監視役である今井権田大夫に定期的な報告を怠らないよう厳重に命令する。しかし権田大夫は浦の娘と恋におち、逢瀬を繰り返している内に報告を怠ってしまう。源氏が攻めてきたんだと勘違いした行盛と有盛は自決し、権田夫も責任をとって自決、南部の資盛もすでに亡くなっていたので、奄美の平家直系の血がそこで途絶えてしまった。というお話。

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あくまでも伝説として語り継がれているだけで、各地の平家落人伝説がそうであるように真偽のほどは定かではない。あの3人がはたして本当に奄美に来たのかさえ謎のままなのだ。

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