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蓄積するエネルギー @6

フージャバル遺跡

通勤時にいつも通る瀬留の道沿いに「フージャバル遺跡」なるものがある。遺跡といっても策の中はただ赤土が広がっているだけの原野で、説明板がないのでここがいったいどういう遺跡なのか何も分からない。検索した参考資料によると以下のように記されていた。

「 遺跡は、その瀬留埋立地の南西部で、母子センター北西の県道沿いの畑地にあり、畑地の断面に遺物包含層が確認され、その包含層から土器破片を検出している。遺物は宇宿上層式土器破片であり、元町職員により発見されている。」

う~ん、これだけじゃやっぱり分からないので「宇宿上層式土器」を調べるために実際に宇宿貝塚へ行ってきた。


宇宿貝塚

最初に「宇宿貝塚」が発見されたのが1933年。そして1953年にこの貝塚の上層部から無文土器、下層部から有文土器が発掘される。上層から出土した土器は宇宿上層式土器破片、下層から出土した土器は宇宿下層式土器破片と命名された。なんと縄文時代~弥生時代のものらしい。

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発掘されたものは土器だけではなく、石積みの居住跡や貯蔵穴、さらには埋葬された母子の人骨まで発掘されている。この母子供の人骨は全国的にも非常に珍しいものだそうだ。これらの遺跡から、奄美が太古から大和と交流していたことや、当時の暮らし、埋葬の様子、などが解析されている。

瀬留のフージャバル遺跡は本龍郷からわずか10分、宇宿貝塚にしても30分もあれば行ける距離だ。こんな身近に太古のロマンが潜んでいたなんて驚きだ。

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奄美大島は今「世界自然遺産」の登録を目指しているが、もっと文化にも着目した方がいいんじゃないかと思う。奄美の大自然は確かに素晴らしいが、「奄美の文化」はそれ以上に価値のあるものばかりだ。この宇宿貝塚やフージャバル遺跡以外にも、半川遺跡・フワガネク遺跡など、考古学的にも極めて重要な遺跡が島にはいくつもある。そして「ショチョガマ・平瀬マンカイ」や「諸鈍シバヤ」、各集落の豊年祭、八月踊り、種おろし、シマ唄、と奄美独自のたくさんの文化があるのだ。

それらの多くは琉球や大和や薩摩藩の影響を強く受けているということも興味深い。外からたくさんの文化が入り、そして奄美古来のものと融合して奄美大島独自の文化が出来上がったのだ。

方言もそうだ。奄美の方言は古い大和言葉が数多く残っている。

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蝸牛考というものがある。方言は当時文化の中心であった奈良や京都を円の軸として同心円状に広まり、そして地方に行けば行くほど古い当時のままの言葉が残っている、とする考え方だ。蝸牛とはかたつむりのことで、「かたつむり」の呼び名が京都とは遠い九州や東北地方では「ツブリ」「ナメクジ」という昔からの名称で呼ばれていて、それはかたつむりの渦巻きのように言葉が地方に広がる様を表している。

なるほど、大和言葉が渦巻き状になって奄美大島に上陸し、円の中心から程遠い奄美は、だからこんなに古来からの言葉が風化することなく残っているわけだ。

そして、シマ唄を考察してみる。


シマ唄

沖縄の「島唄」と奄美の「シマ唄」を比較してみるとおもしろいのだが、でもこのふたつ全くの別物なのだ。いや、ほんとはウチナンチュは「島唄」なんて言ってなかったみたいだけどね。THE BOOM の「島唄」のヒットで沖縄民謡を一般的に島唄と呼ぶようになっただけで、「シマ唄」は奄美古来の伝統的な文化なのだ。

沖縄民謡は日々進化をしている。奄美以上に辛く悲しい歴史を今も背負う沖縄は、その悲しみを民謡に託していた。悲しみの唄は希望の唄へと変化していき、沖縄民謡は明るく軽快な曲調に進化していった。沖縄は古来からの民謡もそこから派生した新民謡もポップスも、それらを全部ひっくるめて「沖縄民謡」あるいは「沖縄音楽」と称し、そこに明確な線引きがない。いい意味でウチナンチュの能天気でテゲテゲ精神がそうさせているのだろう。音楽までもがまさにチャンプルーなのだ。

それに対し奄美のシマ唄は重く暗い唄が多い。それは昔から変わることはなく、そしてシマ唄はシマ唄のままではっきりと他の唄とは区別されている。島っちゅにとってシマ唄は特別なものなのだ。悲しみの果てに明るさを見いだしてきた沖縄とはちがい、奄美は悲しみを悲しみのまま歌い続け、進化を拒み、十五夜のお月様に向いチヂンを叩きサンシンを弾き「黒だんど節」を歌い続けた。

どちらが良いとか悪いとかではない。

沖縄が悲しみから生まれるエネルギーを爆発させたのに対して、奄美はそのエネルギーを蓄積しているのだと思う。


蓄積するエネルギー

奄美はそれを少しづつ少しづつ溜めていき、内部に小宇宙に蓄積させている。そして機をみてそのエネルギーは一気に爆発する。それが1953年の無血の民族運動だった。1945年の敗戦後8年間、奄美はアメリカの統治下にあった。本土復帰を願う島っちゅが一致団結し復帰運動を行ない、何日もの間断食祈願が続いた。成人島っちゅの99%もの復帰祈願の署名が集まり、そして1953年12月25日ついに奄美大島は日本に復帰した。

2018年、今また蓄えられたエネルギーが爆発しようとしている。新しいシマ唄をつくる唄島プロジェクトだ。シマ唄はようやく進化しだすのだろうか。麓憲吾が言っていた「昔から島っちゅが歌い続けていた唄がシマ唄ならば、今我々が歌っている唄も遠い未来にはシマ唄と言われているのかも知れない」 そうなのだ、無理に進化させなくてもいいのだ。今わんきゃが歌っている聴いているこの唄こそが未来のシマ唄なのだ。

奄美大島はエネルギーの塊だと思う。エネルギーは幾層にも重なり積み上げられ、何世紀もかけて地層になり貝塚になっていくのだ。しっかりと掌に刻まれ顔に刻まれ皮膚に刻まれアンマの皺になっていくのだ。風に吹かれ雨に打たれガジュマルの年輪になっていくのだ。土に堆積され山に刻まれ森になっていくのだ。そしてエネルギーに満ちた奄美の大自然になっていく。エネルギーに満ちた島っちゅになっていく。

豊かさとはエネルギーの蓄積量だと思う。繁栄とはそのエネルギーの放出だと思う。外部からの招きではなく、島っちゅ自身がたくさんのエネルギーを溜め豊かにならなければならない。豪華客船の招致などいらない。世界遺産になんかならなくてもいい。エネルギーの蓄積と放出を繰りかえすことで自ずと島も繁栄し豊かになっていくのだと思う。

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