『存在と時間』を読む Part.6

 今回で第7節は終わります。


  第7節 探究の現象学的な方法

  C 現象学の予備概念

 AとBで確認されたことから、現象学とは「みずからを示すものを、それがおのずから現れてくるとおりに、そのもののほうから見えるようにすること」でした。これが現象学の概念の形式的な意味であり、「事象そのものへ!」というモットーはまさにこのことを意味していたのでした。このような現象学には、次に言われる特徴があります。

>Phänomenologie< nennt weder den Gegenstand ihrer Forschungen, noch charakterisiert der Titel deren Sachhaltigkeit. Das Wort gibt nur Aufschluß über das Wie der Aufweisung und Behandlungsart dessen, was in dieser Wissenschaft abgehandelt werden soll. Wissenschaft >von< den Phänomenen besagt: eine solche Erfassung ihrer Gegenstände, daß alles, was über sie zur Erörterung steht, in direkter Aufweisung und direkter Ausweisung abgehandelt werden muß. (p.34)
「現象学」という名称は、研究の対象を示すものではないし、研究が対象とする事象の内容を性格づけているわけでもない。その言葉は、この学において論じられるべき"もの"について、それをどのように提示し、取り扱うかの"方法"について説明しているにすぎない。現象「について」の学が意味しているのは、この学で対象とするものについて論じられるすべてのことについて、直接的に提示し、直接的に証明する"ように"、対象を把握しなければならないということである。

 神学や生物学など、存在者を対象とする学問です。こうした学問においては、「学」の語の前に、その学の対象となるべき存在者が明示されています。すなわち、神学は「神」を、生物学は「生物」を対象に探究する学問です。このような対象(存在者)は、類と種差の概念で定義できるものであることは、以前のnoteで説明した通りです(Part.1参照)。これに対して現象学は、現象についての学ではありません。現象とは、人間が「あるものに出会うときの際立った様式」だとされていましたが(Part.5参照)、そのようなものは類と種差で定義できるようなものではありません。だから、現象という概念は、「研究の対象を示すものではないし、研究が対象とする事象の内容を性格づけているわけでもない」と言われます。存在者を対象とする学とは異なり、現象学という語は、「この学において論じられるべき"もの"について、それをどのように提示し、取り扱うかの"方法"について説明している」のです。
 しかし、「この学で対象とするものについて論じられるすべてのことについて、直接的に提示し、直接的に証明する"ように"、対象を把握しなければならない」というのは、現象学の形式的な意味にすぎないと、ハイデガーはみています。というのも、この説明だけでは、この方法をみたす他のすべての学も、現象学として認められることになるからです。しかし、ここで目指されているのは哲学の方法としての現象学なのであって、他の学問の方法としての現象学とは、明確に区別される必要があります。というのは、ハイデガーによれば、哲学とは「存在」についての学のことなのであるから、「存在者」についての学とは次元が異なる学問だからです。
 前回のnote(Part5)で、現象の概念が「形式的な」ものと「現象学的な」ものとに区別されていたのを覚えていますでしょうか。「形式的な現象の概念」は、事物との出会いについてを語るものであり、存在者を探究する学問の領域に含まれるようなものでした。これに対して「現象学的な現象の概念」は、形式的な意味での現象を可能にするような条件について語るものであり、存在者の学の領域を超えた超越論的なものでした。哲学は「存在」という超越概念についての学問なのですから、哲学的な現象学は、哲学ではない学問における現象学とは異なる性格のものでなければなりません。だから、哲学の方法としての現象学は、その「方法」についての規定だけではなく、その考察の「対象」について、その対象の「内容」について規定する必要があるでしょう。

 それでは、哲学としての現象学の考察の対象とされるべきものは何でしょうか。

Offenbar solches, was sich zunächst und zumeist gerade nicht zeigt, was gegenüber dem, was sich zunächst und zumeist zeigt, verborgen ist, aber zugleich etwas ist, was wesenhaft zu dem, was sich zunächst und zumeist zeigt, gehört, so zwar, daß es seinen Sinn und Grund ausmacht. (p.35)
明らかにそれは、さしあたりたいていは自らをまさに示すことが"ない"もの、さしあたりたいていは自らを示すものに対して"隠されている"が、それでもさしあたりたいていは自らを示すものに本質的に属していて、しかも、そのものの意味であり、根拠であるような、あるものである。

 それが「存在者の存在」であり「存在の意味」であるのは、これまでの議論から明らかでしょう。

Was aber in einem ausnehmenden Sinne verborgen bleibt oder wieder in die Verdeckung zurückfällt oder nur >verstellt< sich zeigt, ist nicht dieses oder jenes Seiende, sondern, wie die voranstehenden Betrachtungen gezeigt haben, das Sein des Seienden. Es kann so weitgehend verdeckt sein, daß es vergessen wird und die Frage nach ihm und seinem Sinn ausbleibt. Was demnach in einem ausgezeichneten Sinne, aus seinem eigensten Sachgehalt her fordert, Phänomen zu werden, hat die Phänomenologie als Gegenstand thematisch in den >Griff< genommen. (p.35)
格別な意味で"隠された"ままであるもの、ふたたび"隠蔽状態"に落ち込んだもの、あるいは「偽装した」形でしか自らを示さないもの、それはあれこれの存在者ではなく、先の考察が示してきたように、存在者の"存在"である。存在者の存在は、それが忘却され、その存在についても、存在の意味についての問いも立てられることがないほどに、はなはだしく隠蔽されていることがありうる。このように、現象学が対象として主題的に「つかんだ」のは、特別な意味において、それに固有な事象としての内容から、現象となることを要求しているものなのである。

 存在は、隠されたままであるし、隠蔽されているし、偽装していると言われています。現象学は、このような意味で「さしあたりたいていは自らをまさに示すことがない」ものを、現象学的な現象とします。そしてそれこそが「存在者の存在」なのであり、それゆえに現象学は存在に接近するための方法となるべきなのです。

Phänomenologie ist Zugangsart zu dem und die ausweisende Bestimmungsart dessen, was Thema der Ontologie werden soll. Ontologie ist nur als Phänomenologie möglich. Der phänomenologische Begriff von Phänomen meint als das Sichzeigende das Sein des Seienden, seinen Sinn, seine Modifikationen und Derivate. (p.35)
現象学とは、存在論の主題となるべきものに接近するための方法であり、それを証明しながら規定する方法である。"存在論は、現象学としてのみ可能である"。現象学的な現象の概念が自らを示すものとして意味するのは、存在者の存在であり、その存在の意味であり、その変様態であり、派生態である。

 現象学とは、「現象」を考察することで、現象において「自らを示すもの」を露呈させることを目指す学であり、存在と存在の意味について問う学です。「存在論は、現象学としてのみ可能である」というのは、現象学こそが、存在論の課題を担う学であることを宣言するとともに、伝統的な存在論のように形而上学的な思弁には依らないということを意味しています。現象学では、カントの物自体のように、存在者の背後に何か不可知なものが存在すると考えることはありません。このような考え方は、プラトン以来の形而上学の伝統における重要な誤謬であるとされます。現象とは「自らにおいて自らを示すもの」のことであり、現象を現象として現れさせる何かが背後に控えているのではありません。
 何かが隠されているとすれば、それは現象において現象となるべきものでしょう。そのようなものは「さしあたりたいていは」自らをまさに示すことがないからこそ、それを露呈させる現象学が必要となります。

Verdecktheit ist der Gegenbegriff zu >Phänomen<. (p.36)
隠蔽状態というものは、「現象」の反対概念なのである。


 現象学とは、隠蔽状態をなくす学であるとも言えるでしょう。先に存在があらわにされない3つの隠蔽状態が指摘されていました。第1に「隠されたままである」こと。そもそもまだ露呈されておらず、まだそのものの存在が明確に認識されていないために、それについて知識を持っているとも、持っていないとも言えない状態です。
 第2に「ふたたび隠蔽状態に落ち込んだ」状態です。かつてはそれについての知識があり、露呈されていたことがあったものが、今では埋もれている状態です。
 第3に「偽装した」状態です。これはかつて露呈されたことが、仮象としてではあれ、まだ見えるようになっている状態のことです。しかし、見えるものは仮象にすぎず、その本来の意味は忘却されています。
 こうした隠蔽状態については、次のように言われます。

Jeder ursprünglich geschöpfte phänomenologische Begriff und Satz steht als mitgeteilte Aussage in der Möglichkeit der Entartung. Er wird in einem leeren Verständnis weitergegeben, verliert seine Bodenständigkeit und wird zur freischwebenden These. (p.36)
根源的に汲み取られたあらゆる現象学的な概念や命題は、言明として伝達されていくうちに変質することがありうる。それは空虚な理解のうちで言い伝えられて、その土台から生まれたものという性格を失い、宙に浮いたテーゼとなることもある。

 現象学は存在論として、存在者の存在について問う学ですが、その問いはプラトンやアリストテレスにみられたように、最初は根源的な問いでした。しかし、やがてその最初の「土台から生まれたものという性格を失い」、Part.1で確認したような3つの先入観が生じることになりました。だからこそ、現象学の研究は、自らに積極的に批判的になることで、こうした先入観にとらわれることがないようにすることが求められるでしょう。

Die Begegnisart des Seins und der Seinsstrukturen im Modus des Phänomens muß den Gegenständen der Phänomenologie allererst abgewonnen werden. Daher fordern der Ausgang der Analyse ebenso wie der Zugang zum Phänomen und der Durchgang durch die herrschenden Verdeckungen eine eigene methodische Sicherung. In der Idee der >originären< und >intuitiven< Erfassung und Explikation der Phänomene liegt das Gegenteil der Naivität eines zufälligen, >unmittelbaren< und unbedachten >Schauens<. (p.36)
現象という様態において、存在とさまざまな存在構造に出会う仕方は、現象学のさまざまな対象から、まず闘いとられねばならない。そのため、分析の"出発点"についても、現象への"近づき方"についても、支配的な隠蔽を切り開く"貫通"の仕方についても、それらに固有の方法論的な確保が求められる。現象の把握と説明は「原初的」で「直観的」であるという理念においては、偶然的で、「直接的」で無分別な「直観」の素朴さはその反対に位置するのである。

 「存在とさまざまな存在構造に出会う仕方」は闘いとられる必要がありますが、この闘いは3つの点について、それらに「固有の方法論的な確保」を目指すものだと言われています。第1に、「分析の出発点」をどのように据えるのかという点です。存在を自明なものとした伝統的な存在論のように、分析の出発点を間違えないようにしなければなりません。
 第2に、「現象への近づき方」の固有な方法論が求められています。これについては、問い掛けるべき存在者は現存在であることがすでに説明されてきました。
第3に、「支配的な隠蔽を切り開く貫通の仕方」についての方法論も求められます。3つの意味で隠蔽状態にある存在者の存在について問うためには、こうした隠蔽を切り開く独自の方本論が必要があります。
 批判的な学であるべき現象学は、存在者の現れのように意識に直接に与えられるものを考察する学ではありません。現象学の方法では、現象の把握と説明は「原初的」で「直観的」であるのであって、偶然的で、「直接的」で無分別な「直観」の素朴さとは、明確に対立したものでなければならないでしょう。

 第7節ではこれまで、「現象」と「学」の語についてそれぞれ考察し、この2つを組み合わせた「現象学」についても検討してきました。ここでハイデガーは次のように言います。

Auf dem Boden des umgrenzten Vorbegriffes der Phänomenologie können nun auch die Termini >phänomenal< und >phänomenologisch< in ihrer Bedeutung fixiert werden. >Phänomenal< wird genannt, was in der Begegnisart des Phänomens gegeben und explizierbar ist; daher die Rede von phänomenalen Strukturen. > Phänomenologisch< heißt all das, was zur Art der Aufweisung und Explikation gehört und was die in dieser Forschung geforderte Begrifflichkeit ausmacht. (p.37)
現象学の確定された予備概念に基づいて、今や「"現象的"」と「"現象学的"」の用語の意味も確定することができる。「現象的」と呼ばれるのは、現象という出会い方において与えられ、明示可能なもののことである。だから、現象的な構造についての語のことである。「現象学的」と呼ばれるのは、提示と説明の方法に含まれるすべてのもののことであり、そしてこの研究において必要な概念性となるすべてのもののことである。

 ハイデガーは、これまでの考察から現象学の予備概念が確定されたとみており、それに基づいて、「現象的」と「現象学的」という用語の違いを定義します。
 「現象的」というのは、「現象という出会い方において与えられ、明示可能なもののこと」だと言われます。これが「現象的な構造」についての語だというのは、「現象的」という語が、現象の構造そのものに向かうということです。これに対して「現象学的」というのは、「提示と説明の方法に含まれるすべてのもののことであり、そしてこの研究において必要な概念性となるすべてのもののこと」だと言われています。何についての提示と説明なのかというと、「現象的」と呼ばれるものについてのです。
 この区別はすでに指摘された「存在者的な」と「存在論的な」の区別や、「実存的な」と「実存論的な」の区別に対応するものです。これらと同様に、「現象的」と「現象学的」という対概念も、対象について語ることが問題であるか、対象について語る方法や概念性が問題であるかに応じて区別されているのです。これまで、存在の意味を問う本書の考察において重要なのは、存在論的な概念であり、実存論的な概念であることが述べられてきましたが、「現象的」と「現象学的」という用語についても、現象そのものを語る現象的な概念ではなく、現象を考察する方法について語る現象学的な概念が重要になります。
 とはいえ、存在論的な考察においても存在者について語る必要があり、実存論的な考察においても実存について語る必要があるのと同じように、現象学的な考察においても現存在という存在者の現象について語ることが必要になるでしょう。

Weil Phänomen im phänomenologischen Verstande immer nur das ist, was Sein ausmacht, Sein aber je Sein von Seiendem ist, bedarf es für das Absehen auf eine Freilegung des Seins zuvor einer rechten Beibringung des Seienden selbst. Dieses muß sich gleichfalls in der ihm genuin zugehörigen Zugangsart zeigen. Und so wird der vulgäre Phänomenbegriff phänomenologisch relevant. (p.37)
現象学的に理解した現象は、つねに存在を構成するものに限られるが、存在とはそのつど存在者の存在であるから、存在をあらわに示すことを目指すためには、まず存在者そのものを適切に提示する必要がある。存在者は同時に、それに本来ふさわしい接近方法において自らを示さなければならない。そして、そのために通俗的な現象の概念もまた、現象学的に重要になるのである。

 だからこそ、存在の意味について問うには、まず範例となる存在者そのものを、すなわち現存在そのものを「適切に提示する」必要があるのであり、現存在の分析論を通して、現存在を現象学的に確保することが求められるのです。
 現象学は学の対象としての事象の内容という観点からみると、現象学は存在者の存在について考察する「存在論」という意味を持つことがわかりました。「"存在論は、現象学としてのみ可能である"」からこそ、現象学は、現存在に対して、現存在の存在のありかたを問い掛ける「基礎存在論」として展開されるべきなのです。

 このように現象学は存在論であることが示されました。ここでハイデガーは、現象学には「解釈」という意味が備わっていることを指摘します。

Aus der Untersuchung selbst wird sich ergeben: der methodische Sinn der phänomenologischen Deskription ist Auslegung. Der λόγος der Phänomenologie des Daseins hat den Charakter des ἑρµηνεύειν, durch das dem zum Dasein selbst gehörigen Seinsverständnis der eigentliche Sinn von Sein und die Grundstrukturen seines eigenen Seins kundgegeben werden. Phänomenologie des Daseins ist Hermeneutik in der ursprünglichen Bedeutung des Wortes, wonach es das Geschäft der Auslegung bezeichnet. (p.37)
探究それ自体から明らかになるように、現象学的な記述の方法論的な意味は"解釈"である。現存在の現象学のロゴスは、ヘルメーネウエインという性格を備えている。この解釈によって、現存在そのものに備わる存在了解に、存在の本来的な意味と現存在に固有の存在の根本構造が"告げられる"のである。ヘルメーネウエインとは解釈の仕事を意味し、現存在の現象学は、その原義において"解釈学"なのである。

 この文では、「現象学的な記述の方法論的な意味は"解釈"である」こと、そして解釈によって、「現存在そのものに備わる存在了解に、存在の本来的な意味と現存在に固有の存在の根本構造が"告げられる"」ということが示されているにすぎません。「解釈」と訳されるドイツ語は >Auslegung< で、これは動詞 >auslegen< が名詞になったものです。>auslegen< は 「解釈する、展示する」という意味ですが、>aus< という「中から外へ」という意味を持つ語と、>legen< という「置く」という意味を持つ語によって成り立っています。だから、この語には「外へ置く」というニュアンスがあることになり、これは「見えるようにする」という現象学の意味と似たものになっているのがわかるでしょう。
 この解釈学がどのようなものなのか、それについての詳しい説明は、第32節「理解と解釈」で記述されることになります。解釈学については、ここでは単に、それが持つ3つの意味が提示されるにとどまります。

Sofern nun aber durch die Aufdeckung des Sinnes des Seins und die Grundstrukturen des Daseins überhaupt der Horizont herausgestellt wird für jede weitere ontologische Erforschung des nicht daseinsmäßigen Seienden, wird diese Hermeneutik zugleich >Hermeneutik< im Sinne der Ausarbeitung der Bedingungen der Möglichkeit jeder ontologischen Untersuchung. Und sofern schließlich das Dasein den ontologischen Vorrang hat vor allem Seienden - als Seiendes in der Möglichkeit der Existenz, erhält die Hermeneutik als Auslegung des Seins des Daseins einen spezifischen dritten - den, philosophisch verstanden, primären Sinn einer Analytik der Existenzialität der Existenz. (p.37)
存在の意味と現存在の基本構造が解明されることによって初めて、現存在ではない存在者についてのさらに広い探究のための地平が切り拓かれる。この解釈学は同時に、すべての存在論的な探究を可能にする条件を作り出すという意味での「解釈学」でもある。また最後に、現存在は実存の可能性における存在者として、他のすべての存在者に対して存在論的な優位を持っているのであるから、現存在の存在の解釈として解釈学は、特殊に第3に、実存の実存性の分析論という、哲学的に理解された"第1義的な"意味を持つのである。

 第1に、現象学は単に現象を記述するだけではなく、解釈という営みがそこには含まれます。すでに指摘されたように、「現象学的な記述の方法論的な意味は"解釈"である」のです。
 第2に、解釈学は「存在の意味と現存在の基本構造」を解明するための手段になっていると同時に、「すべての存在論的な探究を可能にする条件を作り出すという意味」も持っているということです。存在論は現象学としてのみ可能であり、現象学はその原義においては解釈学であると言われていました。だから、解釈学は存在論を遂行するための条件を形成するものになります。その意味で解釈学は、存在論の「超越論的な条件」であると言えるでしょう。
 第3に、解釈学は「現存在の存在の解釈」という意味を備えているのであり、それは単なる存在者の存在ではなく、現存在の存在である「実存の実存性の分析論」となっています。「現存在は実存の可能性における存在者として、他のすべての存在者に対して存在論的な優位を持っているのである」と言われるように、かつては「第1の学」の対象と言われた「存在」について問うことは、現存在にのみ固有の可能性です。だからこそ、現存在の存在の解釈として解釈学は、「哲学的に理解された"第1義的な"意味を持つ」ことになるでしょう。

 すでに考察されたように、存在は類のようなものではありませんが、それでもあらゆる存在者にかかわっているものです(Part.1参照)。こうした類と種差で説明する概念の枠組みを超えた概念であるからこそ、存在は超越概念であると言われるのでした。

Sein und Seinsstruktur liegen über jedes Seiende und jede mögliche seiende Bestimmtheit eines Seienden hinaus. Sein ist das transcendens schlechthin. Die Transzendenz des Seins des Daseins ist eine ausgezeichnete, sofern in ihr die Möglichkeit und Notwendigkeit der radikalsten Individuation liegt. (p.38)
存在と存在構造は、すべての存在者と存在者のあらゆる可能な存在規定を超えたところに位置する。"存在は端的な超越概念なのである"。現存在の存在の超越は、そこに最も根底的な"個体化"の可能性と必然性が備わっていることによって、卓越した超越なのである。

 この超越概念の考察においては、現存在は特殊な地位を占めています。というのも、現存在の存在は「実存」であるから、その存在は個体の次元で語られる必要があるからです。現存在の存在について考察する場合には、人類という種ではなく、その個としてのありかたを問うことができるし、問わねばなりません。その意味で、現存在の存在は「そこに最も根底的な"個体化"の可能性と必然性が備わっていることによって、卓越した超越なのである」と言われています。

Jede Erschließung von Sein als des transcendens ist transzendentale Erkenntnis. Phänomenologische Wahrheit (Erschlossenheit von Sein) ist veritas transcendentalis. (p.38)
存在を超越概念として開示することはすべて、"超越論的な"認識である。"現象学的な真理(存在の開示性)は、超越論的な真理なのである"。

 現存在の存在を「超越概念として開示することはすべて、"超越論的な"認識である」と述べられています。そうだとすれば、基礎存在論は、現存在が自らの存在の超越について、その超越の根拠と様態について考察するという意味で「超越論的な」性格を持つということになるでしょう。
 最後に、「"現象学的な真理(存在の開示性)は、超越論的な真理なのである"」と語られています。ここで「開示性」と訳したドイツ語 >Erschlossenheit< は、「開くこと」を意味する >Erschließen< から作られた語であり、この後の分析で頻繁にみられる重要な用語となっています。後にハイデガーは独自の真理概念として、この「開示性」を提示することになりますが、ここではこの語についての説明はありません。とりあえずは、現象学的な方法で現存在の存在を考察することは、同時にその超越的な性格を開示することになるということが指摘されている、というように捉えておけば問題ないでしょう。

 この節の終わりに、ハイデガーは現象学について次のようにまとめています。

Ontologie und Phänomenologie sind nicht zwei verschiedene Disziplinen neben anderen zur Philosophie gehörigen. Die beiden Titel charakterisieren die Philosophie selbst nach Gegenstand und Behandlungsart. Philosophie ist universale phänomenologische Ontologie, ausgehend von der Hermeneutik des Daseins, die als Analytik der Existenz das Ende des Leitfadens alles philosophischen Fragens dort festgemacht hat, woraus es entspringt und wohin es zurückschlägt. (p.38)
存在論と現象学は、哲学に属する他の学問と併存するような2つの異なる学問ではない。これら2つの名称は、対象と取り扱い方によって哲学そのものを性格づけている。哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学的な存在論である。そして現存在の解釈学は、"実存"の分析論として、すべての哲学的な問いの導きの糸の先端を、この問いが"生まれ"、そして"戻ってゆく"ところに、結びつけているのである。

 存在論は現象学としてのみ可能であるのでした。そしてこの2つは哲学そのものの名称であると指摘されています。違いがあるとすれば、哲学を、存在論は哲学的な考察の「対象」という観点から性格づけており、現象学は哲学的な考察の方法、すなわちその対象の「取り扱い方」という観点から性格づけているという違いでしょう。
 存在一般の意味を問う学である存在論は、この問いを問う存在者である現存在についての問いである「現存在の解釈学」でもあります。この解釈学は、現存在の存在である「実存」を分析することを課題とする実存論的な解釈学であり、「基礎存在論」として実行されるものです。「現存在の解釈学は、"実存"の分析論として、すべての哲学的な問いの導きの糸の先端を、この問いが"生まれ"、そして"戻ってゆく"ところに、結びつけているのである」というのは、現存在の実存論的な分析論としての現存在の解釈学こそが、存在の意味への問いを遂行するための出発点となっていることを示しています。
 このように哲学とは、存在論、現象学、解釈学という3つの学によって可能になる営みのことであり、これをまとめると、「哲学は、現存在の解釈学から出発する普遍的な現象学的な存在論である」と言うことができるでしょう。そしてそれを実際に行うのが、本書『存在と時間』なのです。


 今回のnoteでは第7節のCをお届けしました。序論は第1節から第8節までですが、第8節は本書の構成についての説明が主であり、分量としても1ページ未満となっていますので、次回は比較的短くなると思います。

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