『存在と時間』を読む Part.2

 今回の投稿では、序論の第1章の第3節と第4節をみていきます。

  第3節 存在問題の存在論的な優位

 第2節では、存在への問いの形式的な構造に基づいて、存在の問いが特別な性格のものであることが示されました。しかしこの特別さが完全に明らかにされるためには、この問いの機能と意図、動機について、明確に定める必要があるでしょう。第3節の目的はそこにあります。

 まずは問いの動機について説明されます。前回までで、存在問題は古代ギリシア以来の伝統を持つ由緒あるものであること、この問いには特定の答えがでていないこと、そしてそもそも問題設定が仕上げられていないことが、確認されました。しかしそれ以前に、この問題がいったい何の役に立つのかは疑問に思うところではないでしょうか。

Bleibt sie lediglich oder ist sie überhaupt nur das Geschäft einer freischwebenden Spekulation über allgemeinste Allgemeinheiten - oder ist sie die prinzipiellste und konkreteste Frage zugleich? (p.9)
この問いは、最も普遍的な普遍性についての宙に浮いたような思弁の仕事にすぎないのだろうか、あるいはそもそもそうした思弁の仕事"である"にすぎないのだろうか。"それともこの問いは、最も原理的で、同時に最も具体的な問いであるのだろうか"。

 存在者を研究するすべての学問は、その学問が対象とする領域を規定するための「基礎概念」を持っています。たとえば、生物学は、名前の通り生物を対象にする学問ですが、その基礎概念としては「生命」という概念を持っています。この生命という基礎概念によって、生物とそうでないものと区別し領域を確定することで、生物学が成立するようになります。
 ハイデガーはこうした基礎概念は、前学問的な経験と解釈を通じて獲得されていると述べています。つまり、「生命」という概念は、十分に学問的に吟味され、そのうえで据えられたものではないということになります。そうでなるなら、これは生物学にとっての学としての根本を揺るがす事態となり得るでしょう。
 しかし、生物学はあくまでも、「生命」という基礎概念によって規定された存在者を対象をする学問です。生物学自体には、このような基礎概念を問うための能力はありません。というのは、前回で示されたように、対象となる存在者をそうした存在者として規定するものは「存在」に他ならないからです。すると、生物学などの諸学の基礎概念を考察するのは、「存在論」だということになります。この存在論、さまざまな学問分野ごとにその根拠づけを行おうとする存在論は、「領域的な存在論」と呼ばれています。このように、存在について問うことは、「宙に浮いたような思弁の仕事」ではなく、むしろ学問全体にとって重要な役割を担っていることがわかるでしょう。

 ハイデガーは、領域的な存在論について説明した後に、次のことを述べています。

Aber solches Fragen - Ontologie im weitesten Sinne genommen und ohne Anlehnung an ontologische Richtungen und Tendenzen - bedarf selbst noch eines Leitfadens. Ontologisches Fragen ist zwar gegenüber dem ontischen Fragen der positiven Wissenschaften ursprünglicher. Es bleibt aber selbst naiv und undurchsichtig, wenn seine Nachforschungen nach dem Sein des Seienden den Sinn von Sein überhaupt unerörtert lassen. (p.11)
しかし、存在論についてのさまざまな方向性や傾向に依拠せずに、存在論を最も広い意味でとらえるにはどうすればよいかという問いに答えるためには、問いそれ自体に、別の1つの導きの糸が必要になる。たしかに、存在論的な問いは、実証的な学問の存在者的な問いと比べてより根源的である。しかし、存在者の存在への探究が、存在一般の意味を説明しないのであるならば、存在論的な問いはそれ自体が素朴で見通しの悪いままにとどまるのである。

 ハイデガーはここで、存在論を2つにわけて考えていることがわかります。1つが「存在者の存在への探究」としての存在論で、もう1つが「存在一般の意味を説明」する存在論です。前者が「領域的な存在論」のことを指していますが、後者はどのような存在論のことでしょうか。
 「領域的な存在論」は、生物学にとっての生命とはなにか、歴史学にとっての歴史とはなにか、心理学にとっての精神とはなにかといった、諸学の基礎概念について考察します。この存在論は、存在者を存在者として規定するものとしての存在を扱う存在論でした。しかし、その際に使用される存在概念それ自体を可能にするものは、まだ明確になっているわけではありません。つまり、「存在一般の意味」が明確になってはいないのです。
 問いの形式的な構造について説明されたとき、「問われているもの」として設定されていた「存在」は、領域的な存在論で扱われる「存在」のことです。これに対して、問いの究極の目標である「問い質されているもの」として設定されていたものこそが「存在の意味」でした。したがって、こちらを問う存在論こそが本来の存在論であるべきだとされているのがわかります。これが、「最も広い意味」での存在論のことであり、存在一般の意味の問うという本来の目的を遂行しなければ、「存在論的な問いはそれ自体が素朴で見通しの悪いままにとどまる」ことになると言われているのでした。

Alle Ontologie, mag sie über ein noch so reiches und festverklammertes Kategoriensystem verfügen, bleibt im Grunde blind und eine Verkehrung ihrer eigensten Absicht, wenn sie nicht zuvor den Sinn von Sein zureichend geklärt und diese Klärung als ihre Fundamentalaufgabe begriffen hat. (p.11)
"全ての存在論は、たとえどれほど豊かで強固なカテゴリーの体系を持っていたとしても、それに先立って、存在の意味を十分に解明しておかないかぎり、そしてこの解明を基礎的な課題として設定しておかないかぎり、根本的に暗がりのうちにとどまるのであり、その本来的な意図を転倒させているものでありつづけるのである"。

 このように、本来の意味で理解した存在論的な探究そのものは、由緒ある伝統を単に再び取り上げたり、諸学の基礎概念の掘り下げを進めたりすることではなく、それを超えて、存在への問いを存在論的に特に優先するべき問いとみなすことになります。とはいえ、このような学問的な優位だけが、存在論的な探究のただ1つの優位というわけではありません。次に紹介する第4節では、もう1つの優位について説明されることになります。

  第4節 存在への問いの存在者的な優位

 第3節では、存在への問いが「領域的な存在論」として役割を担うために、他の学問に対して学問的な優位をもっていることがわかりました。それは存在論的な優位です。とはいえ、学問は現存在の1つの態度に過ぎません。日常的には、学者であっても他のありかたで存在しているはずでしょう。学問的態度は、現存在の最も身近な存在様態ではありません。そうであるなら、現存在の最も身近なありかたとしての日常的なありかたについても、目が向けられるべきでしょう。

 現存在は存在への問いにおいて、「問い掛けるもの」であると同時に「問い掛けられるもの」でもある特殊な存在者です。前回はこの現存在の特別な性格を指して、ここに現存在が「範例的な存在者」とみなされ得るような優位があることが予告されていました。この優位は、現存在という存在者に固有の存在様式からみた「存在者的な優位」と呼ばれます。

 現存在についてのハイデガーの言葉をみてみましょう。

Das Dasein ist ein Seiendes, das nicht nur unter anderem Seienden vorkommt. Es ist vielmehr dadurch ontisch ausgezeichnet, daß es diesem Seienden in seinem Sein um dieses Sein selbst geht. (p.12)
現存在は、たんに他の存在者とならんで目の前にある1つの存在者にすぎないものではない。現存在はむしろ、この存在者にとって、自己の存在において、この存在そのもの問題であるということで、存在者的に特別な意味をもつのである。

 ドイツ語で <es geht um ~ > で「~が問題である、大事なのは~である」という意味になりますから、現存在とは、自らの存在そのものが問題である(大事である)ような存在者である、と読むことができます。同じ段落では、次のように述べられています。

Diesem Seienden eignet, daß mit und durch sein Sein dieses ihm selbst erschlossen ist. Seinsverständnis ist selbst eine Seinsbestimmtheit des Daseins. Die ontische Auszeichnung des Daseins liegt darin, daß es ontologisch ist. (p.12)
この存在者に固有な特徴は、自らの存在とともに、自らの存在を通じて、これ(存在)が現存在自身に開示されていることにある。"存在了解はそれ自身が、現存在の1つの存在規定なのである"。現存在の存在者的な特別さは、現存在が存在論的に"存在していること"にある。

 現存在は、存在についてつねにすでに何らかのことを理解している存在者でした。さらに現存在は、存在を問うことができる存在様態をもつ存在者として、自らの存在において、その存在が問題であるような存在者です。「存在了解はそれ自身が、現存在の1つの存在規定なのである」というのは、現存在の存在は存在了解によって規定され、理解されるということです。現存在の存在は何かと問うときには、現存在が自分自身の存在についてどのように了解しているかが重要であることになります。つまり、私たちにとっては、私たちの存在が問題なのであり、それについて、そのつど自分で何であるかを理解しているということです。そして、そのように存在が問題となっているようなありかたで存在するからこそ、「現存在が存在論的に存在している」と言われます。

 存在とは存在者を規定するもののことでしたから、「私」という存在者が語られるとき、そのつどその存在は何らかの仕方で規定されていることになるでしょう。そのとき自分自身の存在について規定するものは、自らの存在了解です。そして私たちは、存在了解によって自分自身の存在を規定しているような仕方で存在するからこそ、他の存在者と関わることができています。たとえば、私について、私が座ることが可能な存在者であると理解しつつ存在しているからこそ、椅子という存在者と関わることができます。逆に言えば、椅子という存在者とすでに関わっているようなありかたで存在しているからこそ、私は私自身の存在について、座るような存在者なのであるとそのつど理解していることになるでしょう。同様に、靴を履いて歩く存在者でも、異性と恋愛をする存在者でも、学問的な存在者であることも可能であって、現存在は自らの存在に対してさまざまな態度をとることができます。「自らの存在とともに、自らの存在を通じて、存在が現存在自身に開示されている」というのは、このような事態を表しています。
 ところで、「開示されている」という言葉は、<erschlossen> を訳したものになります。これは <erschließen> の過去分詞にあたるもので、上記の文では受動態として使用されています。<erschließen> には、何かを開くとか、明らかにするといった意味があります。ですから、「開示されている」というのがわかりづらければ、単純に「開かれている」といったようなニュアンスで考えると良いかもしれません。現存在は、靴を履いたり、恋愛をしたり、学問をしたりと、さまざまな可能性に開かれていると言えるでしょう。

 こうした現存在の存在には、そのありかたにふさわしい呼び名があります。

Das Sein selbst, zu dem das Dasein sich so oder so verhalten kann und immer irgendwie verhält, nennen wir Existenz. Und weil die Wesensbestimmung dieses Seienden nicht durch Angabe eines sachhaltigen Was vollzogen werden kann, sein Wesen vielmehr darin liegt, daß es je sein Sein als seiniges zu sein hat, ist der Titel Dasein als reiner Seinsausdruck zur Bezeichnung dieses Seienden gewählt. (p.12)
現存在がそれに対してさまざまに態度をとることができ、つねに何らかの態度をとっているその存在そのもののことを、私たちは"実存"と呼ぶ。この存在者の本質規定は、事象として何を含んでいるかを示すことによってはなされない。現存在の本質はむしろ、自らの存在をそのつど自らの存在として存在しなければならないということにある。だからこそ、現存在という語は純粋な存在表現として、この存在者の呼び名に選ばれたのである。

 現存在は、存在について、自己について問う存在者であるという性格から、現存在は「実存」という存在様式のもとにあると言われます。私は現存在として、私以上のものでも以下のものでもありませんし、私が私であることは、他の誰も代理できない私に固有のものです。そして、そのつどの私がどのような存在であるのかを決定するのは、やはり私に他なりません。現存在の本質は、「自らの存在をそのつど自らの存在として存在しなければならないということ」にあります。現存在の存在するありかたは「実存」です。このように、実存は自己との関係性を重要な特徴とするものであるといえるでしょう。
 そして、現存在の本質は「事象として何を含んでいるかを示すことによって」は示されることがないと言われています。これが意味しているのは、現存在は、前回のnoteで説明したような、類と種差によって存在者を定義する方法によっては規定されないということです。単なる存在者としての人間は、たとえば「言葉を話す」(種差)「動物」(類)というように定義するができます。しかし、実存する存在者としての現存在は、このようにして定義されることはありません。というのも、現存在はそのつどの自己を自ら決定している存在者だからです。「だからこそ、現存在という語は純粋な存在表現として、この存在者の呼び名に選ばれたのである」と言われます。現存在はドイツ語で <Dasein> です。<Da> には「そこ」という意味があり、<sein> は存在を意味します。実存する人間を指す語として「そこの存在」「そこにある存在」という定義不能な概念が選ばれたのは、こうした背景ゆえであることがわかるでしょう。

 現存在の存在は実存ですから、現存在はつねに自らをこの自己の実存から理解しています。ハイデガーは、実存する存在者としての現存在には、2つの可能性があることが指摘しています。

Das Dasein versteht sich selbst immer aus seiner Existenz, einer Möglichkeit seiner selbst, es selbst oder nicht es selbst zu sein. Diese Möglichkeiten hat das Dasein entweder selbst gewählt, oder es ist in sie hineingeraten oder je schon darin aufgewachsen. Die Existenz wird in der Weise des Ergreifens oder Versäumens nur vom jeweiligen Dasein selbst entschieden. (p.12)
現存在はつねに自らを自己の実存から理解している。現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解しているのである。現存在は、これらの可能性を自ら選択したのか、それともその可能性のうちに落ち込んだか、あるいはその可能性のうちでそのつどすでに成長してきたかのいずれかである。実存を自らのものとするか、自らのものにし損ねるかというありかたで、ただ現存在がそのつど自ら決断するのである。

 1つ目の可能性は、「実存を自らのもの」とするありかたで「自己自身である」可能性です。これは現存在自身が、自らの意志で実存することを選択した場合に開かれる可能性です。2つ目の可能性は、実存を「自らのものにし損ねる」ありかたで「自己自身でない」可能性です。これは現存在が、実存しない「可能性のうちに落ち込んだか」、知らず知らずのうちに実存し損なうような生き方をしてきた場合に開かれる可能性、ということになるでしょう。これら2つの可能性に関しては、後に、前者については「本来的な(eigentlich)」というように、後者は「非本来的な(uneigentlich)」というように言われるようになり、現存在のありかたを表現する重要なフレーズとなります。

 そして、上記の引用に続いて、次のように述べられます。

Die Frage der Existenz ist immer nur durch das Existieren selbst ins Reine zu bringen. Das hierbei führende Verständnis seiner selbst nennen wir das existenzielle. Die Frage der Existenz ist eine ontische >Angelegenheit< des Daseins. Es bedarf hierzu nicht der theoretischen Durchsichtigkeit der ontologischen Struktur der Existenz. (p.12)
実存の問いは、つねにただ自ら実存することによってしか正しく決着をつけることができないものである。"その際"、現存在自身を導く自己了解を、私たちは"実存的な"了解と呼ぶ。実存の問いは、現存在の存在者的な「関心事」である。その問いに答えるためには、実存の存在論的な構造の理論的な見通しの良さを必要としない。

 実存の問い、すなわち現存在が実存を自らのものとするか、あるいは損ねるかは、現存在の存在者的な「関心事」であると言われています。このとき現存在にとって、「実存の存在論的な構造」が理論的に見通しの良いものである必要はありません。というのも、たしかに私たちは、そうした存在論に依ることなしにでも、そのつど私たちを生きているか、そうでないかのいずれかであるからです。
 さらに次のように続きます。

Die Frage nach dieser zielt auf die Auseinanderlegung dessen, was Existenz konstituiert. Den Zusammenhang dieser Strukturen nennen wir die Existenzialität. Deren Analytik hat den Charakter nicht eines existenziellen, sondern existenzialen Verstehens. (p.12)
実存の存在論的な構造への問いは、実存を構成しているものが何であるかを解析しようとするものである。これらの構造の連関を、私たちは"実存的なありかた(実存性)"と呼ぶ。実存性の分析論は、実存的な理解ではなく、"実存論的な"理解を目指す性格を備えている。

 実存の問い(Die Frage der Existenz)と、実存への問い(Die Frage nach der Existenz)は異なることに注意する必要があります。前者は、現存在の存在者的なありかたについての問いでしたが、後者は、現存在がどのようにして実存しているか、すなわち「実存を構成しているものが何であるかを解析しようとするもの」だと言われています。したがって、この問いは、現存在の「実存的なありかた(実存性)」への、実存論的な問いということになります。そしてこの問いこそが、刊行された『存在と時間』の大部分を占める、「現存在の実存論的な分析論」と呼ばれるものです。
 実存への問いは、現存在の自己了解を問題にしているわけではありません。そのような「実存的な理解」はむしろ、実存哲学が目指すところです。実存への問いは「実存の存在論的な構造への問い」ですから、あくまでも存在論であるからこそ、「実存論的な理解」を目指すことが可能になります。ハイデガーは、欄外書き込みで <Also keine Existenzphilosophie> 「したがって実存哲学ではない」と注意していますが、それはこのような理解にかかわるものだとわかるでしょう。

 現存在は実存によって規定されているのでした。であれば、この存在者を存在論的に分析するためには、現存在の実存性、すなわち実存する存在者の存在機構について、まなざしを向けておく必要があるでしょう。
 ところで、学問は現存在の1つの態度であることが指摘されていました。こうした営みにおいては、現存在でない存在者ともかかわることになります。ハイデガーはこの点について、次のように述べます。

Zum Dasein gehört aber wesenhaft: Sein in einer Welt. Das dem Dasein zugehörige Seinsverständnis betrifft daher gleichursprünglich das Verstehen von so etwas wie >Welt< und Verstehen des Seins des Seienden, das innerhalb der Welt zugänglich wird. (p.13)
現存在には本質的に、<ある世界のうちに存在すること>が属している。だから現存在に属する存在了解は、「世界」の理解と、世界のうちで近づくことができる存在者の存在についての理解とが、等根源的にかかわっているのである。

 ここでは、現存在は本質的に「ある世界のうちに」生きる存在者であることが語られています。そして現存在ではない存在者は、このように存在する現存在との関係において存在するものとして考察されていることになります。この現存在の<ある世界のうちに存在すること>は、後に「世界内存在」として規定されることになります。
 この世界内存在としての現存在によって、「世界のうちで近づくことができる存在者の存在についての理解」が可能となると、ハイデガーは考えています。

Die Ontologien, die Seiendes von nicht daseinsmäßigem Seinscharakter zum Thema haben, sind demnach in der ontischen Struktur des Daseins selbst fundiert und motiviert, die die Bestimmtheit eines vorontologischen Seinsverständnisses in sich begreift. (p.13)
それゆえ、現存在ではない存在性格を備えた存在者を主題とするもろもろの存在論は、前存在論的な存在了解によって規定された現存在そのものの存在者的な構造のうちに基礎づけられ、動機づけられているのである。

 このことから、

Daher muß die Fundamentalontologie, aus der alle andern erst entspringen können, in der existenzialen Analytik des Daseins gesucht werden. (p.13)
したがって、"基礎存在論"こそが、他のすべての存在論が生じる源泉となるのであり、基礎存在論は"現存在の実存論的な分析論"のうちに求められなければならない。

と、結論されます。このように、すべての存在者は、現存在についての存在論的な考察である基礎存在論、すなわち「現存在の実存論的な分析論」を源泉とするものであり、その意味で、現存在は他の存在者に対して優位に立っていることがわかるでしょう。

 ハイデガーは、現存在が他の存在者に対して持つ3つの優位を指摘します。第1の優位は「存在者的な優位」です。現存在の存在は実存であり、それゆえに他の存在者のように「何」という本質によって規定されることはありません。むしろ現存在は、他の存在者をこのように規定する存在者であったのでした。
 第2の優位は「存在論的な優位」です。現存在の存在了解は、それ自身が現存在の1つの存在規定です。現存在はこの存在了解によって、自らの存在を解釈し、存在について問うことが可能となっているのでした。
 第3の優位は「存在者的かつ存在論的な優位」です。現存在は自らについてだけでなく、その他の存在者についても、存在了解を備えているのでした。この了解は、現存在の自己の存在への了解と等根源的なものです。そしてこれが、すべての存在論を可能にする条件であったのでした。
 このような優位によって、現存在はその他のすべての存在者に先立って、まず最初に「問い掛けられるもの」であるべきであることが証明されました。

 さらにハイデガーは、この実存論的な分析論は、「実存的な根」、すなわち「存在者的な根」を持っていると言います。そもそも、存在論は「私とは何なのだろう」という問い掛けから、つまり実存的な現存在のありかたから生まれるものです。実は哲学的な探究の問いそのものが、実存する存在者に備わる存在可能性として、実存的に選択されてきたものなのです。

Nur wenn das philosophisch-forschende Fragen selbst als Seinsmöglichkeit des je existierenden Daseins existenziell ergriffen ist, besteht die Möglichkeit einer Erschließung der Existenzialität der Existenz und damit die Möglichkeit der Inangriffnahme einer zureichend fundierten ontologischen Problematik überhaupt. Damit ist aber auch der ontische Vorrang der Seinsfrage deutlich geworden. (p.13)
哲学的な探究の問いそのものが、そのつど実存する現存在の存在可能性として、実存的に選択されるときにのみ、実存の実存性を開示することができる。そして十分に根拠づけられた存在論的な問題構成一般の着手の可能性も、その選択にかかっているのである。このようにして、存在問題の存在者的な優位が明らかになるのである。

 このことから、領域的な存在論と、基礎存在論、本来の存在論の関係がさらに明確になってきます。領域的な存在論は、現存在ではない存在者のさまざまな領域について問うものでしたが、この問いの源泉についての問いを行うのは基礎存在論です。先に確認された通り、「"基礎存在論"こそが、他のすべての存在論が生じる源泉となるのであ」るからです。ところで基礎存在論は、現存在が自らの実存について問うところからしか生まれないのですから、基礎存在論の「根」は現存在の実存のうちにあることになります。ところがこの現存在の実存こそが、本来の存在論で考察すべき「十分に根拠づけられた存在論的な問題構成一般の着手」を可能にします。
 このように基礎存在論は、領域的な存在論を基礎づけると同時に、本来の存在論も基礎づけます。基礎存在論は、それが現存在の「実存的な根」と「実存論的な根」の両方を備えているからこそ、存在論の最も根源的な「根」となっているのがわかるでしょう。だからこそ、この基礎存在論によって「存在問題の存在者的な優位が明らかになるのである」と言われるのでした。

 この節の最後に、ハイデガーは次のように述べています。

Wenn die Interpretation des Sinnes von Sein Aufgabe wird, ist das Dasein nicht nur das primär zu befragende Seiende, es ist überdies das Seiende, das sich je schon in seinem Sein zu dem verhält, wonach in dieser Frage gefragt wird. Die Seinsfrage ist dann aber nichts anderes als die Radikalisierung einer zum Dasein selbst gehörigen wesenhaften Seinstendenz, des vorontologischen Seinsverständnisses. (p.14)
存在の意味を解釈するという課題においては、現存在は第1に問い掛けられるべき存在者であるだけではなく、さらにこの問いにおいて問われていることそのものに向かって、自らの存在においてつねにすでにかかわっている存在者なのである。その場合には、存在問題は、現存在そのものに備わっている本質的な存在傾向を根源的なものとするということに他ならず、前存在論的な存在了解を根源的なものとすることなのである。

 この節をもって、序論の第1章が完了します。ここまでで、存在問題において、現存在が「問い掛けられるもの」として選ばれることが必然である理由について、その優位についての説明が終えられました。序論の第2章にあたる第5節では、この現存在に接近するための方法が説明されていくことになります。


 今回のnoteでは、序論の第1章の第3節と第4節をお届けしました。次回から第2章に入っていきますので、よろしくお願いします。

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