『存在と時間』を読む Part.3

 今回の投稿では、序論の第2章の第5節をみていきます。


  第5節 現存在の存在論的な分析論 ー 存在一般の意味を解釈するための地平を開拓する作業

 前の節では、現存在こそが存在問題において「問い掛けられるもの」であるべきだということが示されました。第5節では、この現存在に接近するための方法について考察されることになります。

 現存在に接近するといっても、そもそも現存在は私たち自身であるから、それはある意味「私たちに最も近しい存在」であるはずです。それにもかかわらず、ハイデガーは、現存在は「私たちから最も遠いもの」だと言います。というのも、私たちはたしかに、自らの存在について何らかのことを了解しているし、ある種の解釈のもとに置かれているですが、それは前存在論的な存在解釈なのであって、存在論的なものではないからです。曖昧な存在了解によっては、現存在をすでに理解されているものとして存在論の導きの糸とすることはできません。現存在はまず、存在論的に解釈される必要があります。
 さらに、現存在には次のような傾向があることが指摘されています。

Das Dasein hat vielmehr gemäß einer zu ihm gehörigen Seinsart die Tendenz, das eigene Sein aus dem Seienden her zu verstehen, zu dem es sich wesenhaft ständig und zunächst verhält, aus der >Welt<. (p.15)
現存在にはむしろ、現存在に備わる存在様式のために、自らの存在を、現存在が本質的に絶えずさしあたりかかわっている"その"存在者の方から理解しようとする傾向がある。すなわち「世界」の方から理解しようとする傾向がある。

 世界については、現存在は世界内存在であることが予告されるという形で、前回のnoteで少し触れられました。この世界内存在を考察するときに、世界については詳しく考察されることになりますが、ここではとりあえず、現存在が日常的に出会う存在者たちの、特に自然の事物の全体のことだと把握しておきましょう。
 すでに説明された通り、現存在は実存する存在者です。そしてこの固有な性格は、他の存在者とは異なることが指摘されていました。ところが実際にはしばしば、現存在は実存という存在の仕方から自らを理解するのではなく、現存在ではない他の存在者の存在の仕方から自らを理解してしまうことがあります。たとえば、現存在はコップとは異なる存在様式で存在するのに、コップが持つ存在様式で存在するものとして理解されていることがあるということです。現存在が「自らの存在を、現存在が本質的に絶えずさしあたりかかわっている"その"存在者の方から理解しようとする傾向」を持つことは、すなわち現存在が自らを実存から理解せず、「世界」の方から理解するということは、こうした事態を指しています。しかも、この傾向は「現存在に備わる存在様式のために」あると言われていますから、こうした取り違えの傾向は現存在に本質的に備わっている傾向であるということがわかります。後にこれは「頽落」という概念で説明されることになるでしょう。

 このように、現存在は存在者的には最も身近なものではありますが、存在論的には最も遠いものとなっています。現存在の解釈の困難さは、こうした現存在そのものが持つ性格のためだということになります。

Vorläufig ist damit nur angezeigt, daß eine Interpretation dieses Seienden vor eigentümlichen Schwierigkeiten steht, die in der Seinsart des thematischen Gegenstandes und des thematisierenden Verhaltens selbst gründen und nicht etwa in einer mangelhaften Ausstattung unseres Erkenntnisvermögens oder in dem scheinbar leicht zu behebenden Mangel einer angemessenen Begrifflichkeit. (p.16)
さしあたり明らかになったのは、この存在者の解釈には特有の困難さがあるということだけである。この困難さは、主題の対象とそれを主題とする態度そのものの存在様式のうちにあるのであり、私たちの認識能力の欠陥的な構成にあるのではなく、簡単に解消することのできるような適切な概念性の欠陥にあるのでもないのである。


 現存在についての分析とは、実存論的な分析論でした。そして、それが存在了解によって導かれている以上、存在論を前提として行われなければなりません。実存論的な分析であるためには、現存在の根本的な構造が、存在問題をそのものを明確な導きの糸とした分析によって十分に仕上げられる必要があります。
 この現存在の分析論には、消極的的な2つの要件があります。第1に、存在についての恣意的な理念を独断的に使用してはならないこと、第2に、このような理念を土台として得られたカテゴリーを、存在論的に吟味せずに現存在に適用させてはならないことです。このような仕方ではなく、積極的な要件として、次のように分析を行うべきだと言われます。

Die Zugangs- und Auslegungsart muß vielmehr dergestalt gewählt sein, daß dieses Seiende sich an ihm selbst von ihm selbst her zeigen kann. Und zwar soll sie das Seiende in dem zeigen, wie es zunächst und zumeist ist, in seiner durchschnittlichen Alltäglichkeit. (p.16)
現存在に接近する方法も、現存在を解釈する方法も、この存在者がおのずと、それ自身の側から、自らを示してくるようなものを選ばねばならない。しかもそれらの方法は、その存在者を、それが"さしあたりたいてい"は存在しているようなありかたで、すなわち現存在の平均的な"日常性"のもとで示すべきである。

 第1には、現存在が「おのずと、それ自身の側から、自らを示してくるようなものを選ばねばならない」ということです。この規定によれば、現存在の分析論は、たんに存在論的な理論を構築するだけではなく、現存在自らがそうした理論にふさわしい存在のありかたをしていることを示しながら、そうした理論を裏付ける必要があるということになります。
 第2には、現存在が「"さしあたりたいてい"は存在しているようなありかたで、すなわち現存在の平均的な"日常性"のもとで」考察されるべきだということです。これはどういうことでしょうか。
 現存在は私たちであるのだから、存在者的には最も身近なものでした。しかし私たちはこの現存在から、存在論的にはもっとも遠いものでありうるのでした。というのも、私は私の存在の意味を知りません。私自身にいくら問い掛けても、私がどうして存在するのか、自分の存在の意味は知ることができないものです。私はたしかに存在者的には近くあり、私は自分をよく知っているように思っています。しかし、自己ほど私にとって知られざるものはないと言っても過言ではありません。だから、私は自己を分析するということによっては、存在の意味を存在論的に考察することはできないということになります。
 それではどのようにすればよいのでしょうか。ハイデガーが選択した方法こそが、現存在の平均的な日常性を手掛かりとするものでした。日常性において、ごく一般的な自己が現れるからです。現存在は私であって、他の人ではありえませんが、平均的な日常性においては、誰もにとっても接近可能な自己が、すなわち「さしあたりたいてい」は存在しているようなありかたが現れます。だから、仙人や聖人のような、ある特殊な人間の限定されたありかたによってでもなく、あらゆるものを取り去った純粋な自己によってでもなく、日常性における分析こそが求められることになります。そして、このようにしてとりだされた現存在の日常性の根本機構に注目することで、現存在の存在を浮き彫りにするための準備ができると、ハイデガーは考えます。

 現存在の日常性の分析論、すなわち基礎存在論は、いくつかの限界のもとで行われます。第1に、基礎存在論は、存在の問いそのものを遂行するものではないということです。基礎存在論はあくまでも、存在の問いへの準備をするものに過ぎません。第2に、この分析は哲学的な人間学を目指すものではないということです。基礎存在論が目指すのは、存在への問いの準備です。第3に、この分析論は存在論的な分析のための土台を構築するに過ぎないということです。現存在の存在を浮き彫りにすることで、こうした土台を確保した後で、それに基づいて、現存在の分析論はもう1度やり直される必要があります。いわば基礎存在論は往路に過ぎず、暫定的なものだということです。

 そして、ハイデガーは次のように述べます。

Als der Sinn des Seins desjenigen Seienden, das wir Dasein nennen, wird die Zeitlichkeit aufgewiesen. (p.17)
私たちが現存在と呼ぶ、まさにその存在者の存在の意味として、"時間性"が示される。

 現存在が自己自身を最も根源的に認識することのできる条件が「時間性」にあることが予告されています。基礎存在論の目的は、これを示すことです。

Dasein ist in der Weise, seiend so etwas wie Sein zu verstehen. Unter Festhaltung dieses Zusammenhangs soll gezeigt werden, daß das, von wo aus Dasein überhaupt so etwas wie Sein unausdrücklich versteht und auslegt, die Zeit ist. Diese muß als der Horizont alles Seinsverständnisses und jeder Seinsauslegung ans Licht gebracht und genuin begriffen werden. (p.17)
現存在は、存在しながら存在ということを理解しているというありかたで"存在している"。こうした連関を堅持しながら、現存在がそこから存在というものを暗黙的に理解し解釈しているそのところが、"時間"であることが示されるべきである。この時間こそが、すべての存在了解とあらゆる存在解釈の地平として光のもとにもたらされ、正しく把握される必要がある。

そして、

Um das einsichtig werden zu lassen, bedarf es einer ursprünglichen Explikation der Zeit als Horizont des Seinsverständnisses aus der Zeitlichkeit als Sein des seinverstehenden Daseins. (p.17)
このことを洞察するためには、"存在を理解する現存在の存在としての時間性から、存在了解の地平としての時間の根源的な説明が必要になるのである"。

と言われます。ここに本書のタイトルである「存在」と「時間」が示されています。そしてこの2つを結びつけている「と」とは、「存在しながら存在ということを理解しているというありかたで"存在している"」現存在だということができるでしょう。現存在が特別な存在者なのは、存在と時間を結びつけるものであるからこそであり、だからこそ存在の問いの準備として、基礎存在論が求められるのだということがわかるでしょう。

 また、「存在を理解する現存在の存在としての時間性から、存在了解の地平としての時間の根源的な説明」するという課題のうちには、そこで獲得された時間の概念を、伝統的で通俗的な時間概念と対比させる作業が含まれています。ハイデガーの探究する時間性が根源的なものであるならば、一般的な時間の概念も、ある仕方によってそこから生まれてきているはずだからです。その際に示されるべきことは、そうした伝統的な時間概念もまた、時間性から生じたものであることと、それがどのようにして生じたかということです。しかし、この課題に本格的に取り組むことは、刊行されなかった第2部で予定されていましたから、その内容が明確に示されることはありませんでした。序論ではそれが、予告的に示されているに過ぎません。

 時間の概念は古代から、存在者のさまざまな領域を区別する役割をはたしてきたことを、ハイデガーは指摘します。たとえば、人間や自然の現象は有限的ですから「時間的な」存在者であり、神は永遠の、すなわち「超時間的な」存在者と言われます。また、空間的な関係や数的な関係は「非時間的な」と言われ、命題は「無時間的な」と言われます。

Wie die Zeit zu dieser ausgezeichneten ontologischen Funktion kommt und gar mit welchem Recht gerade so etwas wie Zeit als solches Kriterium fungiert und vollends, ob in dieser naiv ontologischen Verwendung der Zeit ihre eigentliche mögliche ontologische Relevanz zum Ausdruck kommt, ist bislang weder gefragt, noch untersucht worden. (p.18)
どのようにして時間がこうした特別な存在論的な機能をはたすようになったのか、またどのような権利によって、そのような基準として機能してるのか、そしてこのような素朴で存在論的な時間の使用において、時間の固有で可能な存在論的な重要性が表現されているのかどうか、こうしたことはこれまで、問われもしなければ、探究されてもこなかったのである。

 伝統的な時間概念の問題は、これらの重要な問いがまったく問われることがなかったことにあります。そして、

Die >Zeit< ist, und zwar im Horizont des vulgären Zeitverständnisses, gleichsam >von selbst< in diese >selbstverständliche< ontologischen Funktion geraten und hat sich bis heute darin gehalten. (p.18)
「時間」は、通俗的な時間了解の地平のもとでは、いわば「ごく自然に」この「自明な」存在論的な機能に陥り、そして今日にいたるまでそうした機能をはたしているのである。

 ハイデガーは、このような伝統的で通俗的な時間了解を批判しながら、時間という現象を正しく認識し、解明するためには、「存在の意味についての問いを仕上げ」ることが重要だと強調しています。上の文の後に続きます。

Demgegenüber ist auf dem Boden der ausgearbeiteten Frage nach dem Sinn von Sein zu zeigen, daß und wie im rechtgesehenen und rechtexplizierten Phänomen der Zeit die zentrale Problematik aller Ontologie verwurzelt ist. (p.18)
それに対して、仕上げられた存在の意味への問いの土台においてこそ、"正しくみとどけられ、正しく解明された時間という現象のうちに、すべての存在論の中心的な問題構成が根差していることが、そしてそれがどのように根差しているかということ"が、示されるべきなのである。

 存在の意味について解明するためには、時間という現象を考察する必要がありますが、時間という現象を考察するためには、存在の意味についての問いをさらに深める必要があります。そしてそのために行われるのが、現存在の分析論、すなわち基礎存在論であるのでした。

 このように、存在一般の意味の解明は、時間の分析に依拠して行われるのであり、存在は時間から把握されるべきだとされます。そうであるなら、存在者が時間のうちに存在するものとして「時間的な」ものであるだけではなく、すでに存在そのものが「時間的な」性格を備えたものであることが明らかにされるでしょう。そしてそのときには、伝統的で通俗的な時間概念によって「非時間的な」とか「超時間的な」といったように言われるものは、その存在からして「時間的な」と言われるようになるはずです。つまり、「時間的な」ものの欠如態として存在者的に「時間的な」ものであるだけではなく、存在論的な意味で「時間的な」ものであるということになるでしょう。
 ハイデガーが求める根源的な時間疑念は、伝統的な時間概念とは対比して捉えられなければなりません。そこで次のように言われます。

Weil der Ausdruck >zeitlich< durch den vorphilosophischen und philosophischen Sprachgebrauch in der angeführten Bedeutung belegt ist und weil der Ausdruck in den folgenden Untersuchungen noch für eine andere Bedeutung in Anspruch genommen wird, nennen wir die ursprüngliche Sinnbestimmtheit des Seins und seiner Charaktere und Modi aus der Zeit seine temporale Bestimmtheit. Die fundamentale ontologische Aufgabe der Interpretation von Sein als solchem begreift daher in sich die Herausarbeitung der Temporalität des Seins. (p.19)
「時間的な」という表現は、前哲学的および哲学的な用語によっては、すでに説明された意義で使われているが、この表現はこれからの探究においては、もっと別の意味で使われる必要がある。私たちは、存在とその性格および諸様態が、時間から根源的に意味づけられているような規定性を、存在の"時的な"規定性と呼ぶことにする。それゆえ、存在そのものの解釈という基礎的で存在論的な課題には、"存在の時性"の考察を仕上げるという仕事が含まれることになる。

 伝統的な時間概念とは区別される新たな時間概念は「時性」と呼ばれます。この時性については、第1部第3編「時間と存在」で考察される予定でしたが、こちらも刊行された部分には含まれていません。しかし、これが重要な概念であることは想像に難くないでしょう。

In der Exposition der Problematik der Temporalität ist allererst die konkrete Antwort auf die Frage nach dem Sinn des Seins gegeben. (p.19)
時性の問題構成が展開されることにおいて、はじめて存在の意味への問いに具体的な答えが与えられるのである。

 存在の意味への問いに答えるためには、時性について考察することが必須の条件だと言われます。そのような根源的な問いに対する答えとしては、どのようなものになるのでしょうか。
 ハイデガーは、答えの3つの性格を提起しています。第1に、存在への問いの答えは、「1つの孤立した命題として示すことはできない」ことです。これは端的に「答えは~である」というように答えられることはないということで、その答えはさらなる問いとして新たに展開されていくようなものであるということです。第2に、この答えは「新しいものであるというよりは、十分に古いものである」ということです。この答えが根源的であるなら、古代の哲学者たちが行ってきた存在への問いに対して、新たな視点から反復して踏襲していくことができるような性格を持つ答えであるはずだということです。第3に、この答えは「新たな視野を開き、新たな問題構成が生まれるようなものでなければならない」ことです。時性の概念が提起されることによって、存在と時間についての考察が完了するのではなく、そこから得た成果によって、さらに新たな試みが展開され、反復されることが可能になるような、そうした性格を持つと言われています。

Wenn so die Antwort auf die Seinsfrage zur Leitfadenanweisung für die Forschung wird, dann liegt darin, daß sie erst dann zureichend gegeben ist, wenn aus ihr selbst die spezifische Seinsart der bisherigen Ontologie, die Geschicke ihres Fragens, Findens und Versagens als daseinsmäßig Notwendiges zur Einsicht kommt. (p.19)
このように存在問題の答えが、研究を導く指針となるべきである。そして、これまでの存在論の特殊なありかたや、こうした存在論の問いや発見、挫折の運命が、現存在にふさわしい必然的な結果として洞察されるときに、はじめてこうした答えが十分に与えられるのである。

 存在への問いの答えは、新たな「研究を導く指針となるべきである」とされています。そして、「こうした答えが十分に与えられる」のは、「これまでの存在論の特殊なありかたや、こうした存在論の問いや発見、挫折の運命が、現存在にふさわしい必然的な結果として洞察されるとき」だと指摘されています。こうした課題について考察するのが、次の第6節になります。


 今回のnoteは序論の第2章第5節をお届けしました。また次回、よろしくお願いします。

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