『存在と時間』を読む Part.5

  
  第7節 探究の現象学的な方法

 存在への問いは、存在について問い、存在の意味を問い質すものでした。ハイデガーは、本書で使用されている存在論という語は、「領域的な存在論」のことではないことを指摘しています。というのも、以前のnote(Part.2)で説明されたように、この論考は「存在一般の意味を説明する存在論」を重要視するものであるからです。本書の試みは、存在の意味への問いを主導的な問いとすることで、哲学一般の基本的な問いを探究することであり、「領域的な存在論」を基礎づけるような、より根源的なものを目指すのでした。そしてこの探究のためにハイデガーが採用するのが、「現象学」という方法です。この現象学について、次のように説明されています。

Der Ausdruck >Phänomenologie< bedeutet primär einen Methodenbegriff. Er charakterisiert nicht das sachhaltige Was der Gegenstände der philosophischen Forschung, sondern das Wie dieser. Je echter ein Methodenbegriff sich auswirkt und je umfassender er den grundsätzlichen Duktus einer Wissenschaft bestimmt, um so ursprünglicher ist er in der Auseinandersetzung mit den Sachen selbst verwurzelt, um so weiter entfernt er sich von dem, was wir einen technischen Handgriff nennen, deren es auch in den theoretischen Disziplinen viele gibt. (p.27)
「現象学」という表現は、第1義的に"方法の概念"を意味するものである。これは哲学の研究の対象が事象としてどのようなものであるかを性格づけるものではなく、哲学の研究が"どのように"行われるかを性格づけるものである。方法の概念が真正なものとして働き、ある学問の原則的な作業の進め方をますます包括的に規定するようになればなるほど、その方法概念は事象そのものとの対決にますます根源的に根付くようになり、理論的な学問分野に多く存在する技術的な手法と呼ばれるものから、ますます遠くかけはなれたものとなるのである。

 ハイデガーにおいては現象学とは、「方法の概念」を指すものです。方法の概念とは、「哲学の研究の対象が事象としてどのようなものであるかを性格づけるものではなく、哲学の研究が"どのように"行われるかを性格づける」もののことです。これが意味するのは、存在者についての学問のように研究対象の「内容」に注目するのではなく、研究の方法という「形式」を重視するということです。この「形式」に注目することは、「ある学問の原則的な作業の進め方をますます包括的に規定する」ことです。そしてそれによって、「方法概念は事象そのものとの対決にますます根源的に根付くように」なるのだと言われています。
 この「事象そのもの」という語は、現象学に特徴的な言葉です。

Der Titel >Phänomenologie< drückt eine Maxime aus, die also formuliert werden kann: >zu den Sachen selbst!< - entgegen allen freischwebenden Konstruktionen, zufälligen Funden, entgegen der Übernahme von nur scheinbar ausgewiesenen Begriffen, entgegen den Scheinfragen, die sich oft Generationen hindurch als >Probleme< breitmachen. (p.28)
「現象学」という名称は、ある基本的な原理を示すものであり、この原理は「事象そのものへ!」と表現されることができるだろう ー すべての宙に浮いた構成に反対して、偶然見つけたものに反対して、実証されているようにみえるだけの概念を受け継ぐのでもなく、数世代にわたり「問題」として広まっている疑似問題に反対する。

 「事象そのものへ!」とは、「すべての宙に浮いた構成に反対して、偶然見つけたものに反対して、実証されているようにみえるだけの概念を受け継ぐのでもなく、数世代にわたり問題として広まっている疑似問題に反対」したうえで、人間に現象として現れたものだけを手掛かりとして考察を行うという、そのような研究の方法を意味します。現象学は、言説や思い込みを捨て、事象そのものに立ち帰り、事象に無縁なすべての先入観を斥けます。このように事象そのものに準拠するという方法を、ハイデガーは「事象そのものへ!」と定式化したのでした。

 ハイデガーは、存在への問いの処理方法として現象学を選びました。そこでそのように選ばれるべき現象学について浮き彫りにするために、この現象学という語を、「現象」と「学」という2つの要素に分けて考察します。続く考察では、現象学という名称を構成するこの2つの要素が何を意味しているかについて性格づけ、そしてこれらから合成された名称がどのような意味を持つかを確認する作業が遂行されることでしょう。
 これらの考察の流れが、第7節の構成を規定します。まずAでは「現象」とは何かを考察し、Bでは「学」とは何かを考察します。そしてCで「現象学」の予備的な概念が提示されることになります。


  A 現象の概念

 ハイデガーは現象について、その本来の意味を、語源にさかのぼりながら示しています。「現象」(フェノメーン)という語、はギリシア語の >φαινόμενον<(ファイノメノン) に由来しますが、この語は動詞ファイネスタイから派生したものです。このファイネスタイという動詞は「自らを示す」という意味です。したがって、ファイノメノンは「自らを示すもの」という意味になります。また、>φα<(ファ)という語幹には、光や明るさ、あるものがそこであらわになることを意味しています。ハイデガーによれば、ファという語幹を採用することで、「現象」という語は基本的に、「自らにおいて自らを示すもの」という意味になります。
 現象についてはさらに、次のように言われています。

Die φαινόμενα, >Phänomene<, sind dann die Gesamtheit dessen, was am Tage liegt oder ans Licht gebracht werden kann, was die Griechen zuweilen einfach mit τά ὄντα (das Seiende) identifizierten. (p.28)
現象の複数形ファイノメナは、「日にあたっているもの」「光のもとにもたらされたもの」の総体のことであり、ギリシア人たちはときにこれを、たんにタ・オンタ(存在者)と同一視していた。

 ここで現象の概念と存在の概念の結びつきが示されています。現象学が存在論と何らかの関係を持っていることが、すでに暗示されているのがわかります。

 現象という語の基本的な意味は自己提示でしたが、この語には注意すべきもう1つの意味があります。ハイデガーは、ファイノメノンには「そのように見えるもの、見かけだけのもの」という意味も含まれており、すなわち「仮象」という意味をも持っていると指摘しています。だから、「現象」という語には、「自己提示としての現象」と「仮象としての現象」という2つの意味があることになります。重要なのは、後者は前者を前提にしているということです。仮象とは、「自らをそうではないあるものとして示す」ということですが、これはまず「自らを示す」という現象の意味に依ることで可能となっています。であれば、仮象としての現象の意味は、自己提示としての現象の意味から派生したものであり、それが欠如的に変化したものであると言えるでしょう。この2つの意味は区別されたものとして、本書で「現象」という語が登場するときには、「自らにおいて自らを示すもの」という根源的な意義において使用すると、ハイデガーは断っています。

 また、現象という語は、「現れ」とも区別するべきだと述べられています。それを示すために、「現れ」には3つの語義があることが確認されます。第1の語義は、「自らを示さずに自らを告げること」です。たとえば、梅雨に頭が痛くなることがあるでしょう。このとき症状として自らを示しているのは頭痛ですが、その原因となっているのは湿度の高さです。ですから、そのままで自らを示さないあるもの、すなわち湿度の高さは、自らを示すものである頭痛を通して、自らを告げているということができるでしょう。注意するべきは、この現れは仮象ではないということです。仮象は自らを自らでないものとしてではありますが、自らを示します。それに対して現れは、自らを示すことはありません。それは自らを示すものを通して、告げるのです。
 第2の語義は、「自らを示すあるものを通じて、自らを告げるもののこと」です。これは、上記の例でいえば湿度の高さのことを指しています。現れは、自らを告げるものそれ自体のことも示します。
 第3の語義は、「自らを示すこと」です。これは現象の真の意味を示す言葉となっています。
 ところがさらに、現れの第4の語義が提示されます。カントにおいては、物自体は決して認識することができないものとして考えられており、人間は直観の形式を通して物自体に働きかけることで得られる像のみを認識できるとしました。この像は、物自体から放射されるように姿を示し、たしかに自らを示してはいます。しかし、この像は物自体と同じ存在であることは決してないですし、かえって物自体を自らの姿で隠蔽することもあるでしょう。ハイデガーはこのような現れを「産出すること、あるいは産出されたもの」を意味すると述べており、「たんなる現れ」とはこのような意味で言われると説明しています。

 このように、現象と語られる言葉は、複雑な意味を備えています。現象と現れについて、ハイデガーは次のように考えます。

Phänomen - das Sich-an-ihm-selbst-zeigen - bedeutet eine ausgezeichnete Begegnisart von etwas. Erscheinung dagegen meint einen seienden Verweisungsbezug im Seienden selbst, so zwar, daß das Verweisende (Meldende) seiner möglichen Funktion nur genügen kann, wenn es sich an ihm selbst zeigt, >Phänomen< ist. (p.31)
"現象"、すなわち自らにおいて自らを示すものは、あるものに出会うときの際立った様式である。これに対して"現れ"は、存在者そのもののうちに存在している指示連関を示すものであり、"指示するもの"(告げるもの)が、それに可能な機能を十分に果たすためには、指示するものが自らにおいて自らを示す「現象」でなければならない。

 現象は、現存在が「あるものに出会うときの際立った様式」であり、現れは「存在者そのもののうちに存在している指示連関を示すもの」と述べられています。この現れは、現れの第1と第2の語義の意味で語られているものを示していると考えられます。梅雨に頭が痛くなることは、頭痛が自らを示すことで(すなわち現象であることで)、湿度の高さを指示しているのであり、このように現存在の生きる世界についての存在者間の連関が、指示連関と呼ばれるものです。
 仮象も現れも、現象に基づいて可能になっています。現象とは「自らにおいて自らを示すもの」という定義を、明確に理解しておく必要があるでしょう。

 しかし、「あるものとの出会い」としての現象だけが、唯一の現象なのでしょうか。

Bleibt in dieser Fassung des Phänomenbegriffes unbestimmt, welches Seiende als Phänomen angesprochen wird, und bleibt überhaupt offen, ob das Sichzeigende je ein Seiendes ist oder ob ein Seinscharakter des Seienden, dann ist lediglich der formale Phänomenbegriff gewonnen. (p.31)
現象の概念をこのように把握したところで、どの存在者が現象と呼ばれるのかは規定されないままであり、そして自らを示すものが、それぞれ存在者なのか、それとも存在者の存在性格なのかが、そもそも明らかになっていないままであるならば、その場合には"形式的な"現象の概念が獲得されただけであるだろう。

 現象において自らを示すものが、知覚における存在者を意味するものであるならば、それは「形式的な現象の概念」であると、ハイデガーは言っています。この現象の概念は、カントの認識論で直観の対象となっているもののことです。
 私は庭にある木を見ることができます。しかし実際には、その木そのもの(物自体)を認識することはできません。私が認識することができるのは、物自体に触発された像だけです。私が木を見ているとき、視覚能力によってその木を像として捉え、その像を木そのものに投影しているにすぎません。こうした経験的な直観によって接近することのできる存在者のことを、カントは現象と呼んだのでした。これは一般的な現象の意味にかなうものであり、ハイデガーはこの「形式的な現象の概念」を「通俗的な」現象の概念とも呼んでいます。
 ところが、自らを示すものとしての現象が「存在者の存在性格」である場合もあると考えられます。これについては次のように言われます。

Dieser vulgäre ist aber nicht der phänomenologische Begriff von Phänomen. Im Horizont der Kantischen Problematik kann das, was phänomenologisch unter Phänomen begriffen wird, vorbehaltlich anderer Unterschiede, so illustriert werden, daß wir sagen: was in den Erscheinungen, dem vulgär verstandenen Phänomen, je vorgängig und mitgängig, obzwar unthematisch, sich schon zeigt, kann thematisch zum Sichzeigen gebracht werden, und dieses Sich-so-an-ihm-selbst-zeigende (>Formen der Anschauung<) sind Phänomene der Phänomenologie. (p.31)
しかし、このような通俗的な現象概念は、現象の現象学的な概念ではない。カントの問題構成の地平において、その他のさまざまな違いは別としても、現象学的に現象として把握されているものは、次のように例示されることができるだろう。通俗的に理解された現象としての現れのうちで、主題的にではないとしても、つねに先行的に、そして同伴的に自らを示しているものは、主題的に自らを提示するにいたることができる。そしてこのように、自らにおいて自らをそのように示すもの(「直観の形式」)こそが、現象学における現象なのである。

 庭の木を認識するとき、私が現象において出会うのは事物としての木という存在者だけではありません。私はいつも「存在者の存在性格」とも出会っています。たとえば、私が今見ている木は、庭のあそこに存在しています。すると現象においては存在者が認識されると同時に、「今」という時間の規定が、そして「あそこ」という空間の規定が認識されているのがわかるでしょう。これらの規定は、存在者を現象として認識すると同時に生まれるものですが、木のような存在者を認識するためには、「主題的にではないとしても」、存在者の持つ存在性格として、すでにこうした時間と空間のような規定が成立することが可能になっていなければなりません。こうしたものは、木の認識を成立させるための条件であり、個別の現象を認識するためのアプリオリな条件となっています。「つねに先行的に、そして同伴的に」というのは、こうしたアプリオリなことを指しています。これらのものは木の認識を可能にする超越論的な条件であると同時に、私たちの認識において現象として、時間や空間として自らを示しています。カントが「形式的な直観」と呼んだのはこれらのことであり、こうしたものが「現象学における現象」だと言われています。
 このように、私たちは超越論的な条件としての時間と空間に出会うのであり、それらはそのように自らを示すものとして、「現象」になりうるものであるのは明らかでしょう。そしてこの現象の概念こそが、「現象の現象学的な概念」と呼ばれるものになります。

 現象の概念には、「形式的な」概念と「現象学的な」概念の2つがあることが示され、これらを意味を適切に区別しておくことが大事でしょう。「形式的な現象の概念」は、人間の認識の可能性について問題、すなわち認識論において扱われるような概念です。言ってみれば、こちらは「事物との出会い」についてを語るものであり、存在者を探究する学問の領域に含まれることでしょう。一方で「現象の現象学的な概念」は、そのような形式的な意味での現象を可能にするような条件について語っています。ですからこちらは存在者の学の領域を超えたところ、いわば超越論的な次元にあることになるでしょう。ところで、本書は現象学の方法によって、存在それ自体(これは存在者を規定する超越概念でした)についての存在論を遂行するものですから、重要なのは「現象の現象学的な概念」であるのは明らかです。
 ただし、こうした現象「学的な」現象の概念についての理解を進めるためには、この「学的な」という概念について考察をする必要があると、ハイデガーは言います。よって次のBでは、現象学がどのような意味で「~についての学」であるかを明確にするため、現象学の語 >Phänomenologie< の >logie< の部分、すなわちロゴスの意味を明確に確定する作業が展開されます。


  B ロゴスの概念

 ハイデガーは、プラトンとアリストテレスが使用していたロゴスの意味を吟味することで、多義的にみえるこの概念を、根本的な第1義的な意味で把握することができると考えています。ロゴスについて、結論から先に述べられます。

Wenn wir sagen, die Grundbedeutung von λόγος ist Rede, dann wird diese wörtliche Übersetzung erst vollgültig aus der Bestimmung dessen, was Rede selbst besagt. Die spätere Bedeutungsgeschichte des Wortes λόγος und vor allem die vielfältigen und willkürlichen Interpretationen der nachkommenden Philosophie verdecken ständig die eigentliche Bedeutung von Rede, die offen genug zutage liegt. (p.32)
私たちが、ロゴスの根本的な意味は<語り>であると言うとき、その場合この直訳は、語りそのものが何を意味するかの規定から、はじめて完全に有効になるだろう。その後のロゴスの意味の歴史と、特に多様で恣意的な後世の哲学による解釈は、十分に明白だった本来的な語りの意味をたえず隠蔽しているのである。

 ロゴスの本来的な意味は<語り>であると言われています。前回のnoteでは、>λεγειν<(レゲイン)というギリシア語が登場しました。これは「語る」「話すこと」を意味する言葉で、「目の前にあるものを、その純粋な眼前存在性において端的に知覚すること」であると説明されていました。今回<語り>と訳したドイツ語は >Rede< で、これはレゲインから派生したものです。
 アリストテレスの人間の定義「ゾーオン・ロゴン・エコン」(言葉を持つ生物)は有名でしょう。しかし、これはたんに人間を類と種差によって定義したものではなく、それ以上の意味を持つものとなっていることが、すでに暗示されていました(Part.4参照)。ここではそれがより明確に示されることになります。

λόγος als Rede besagt vielmehr soviel wie δηλούν, offenbar machen das, wovon in der Rede >die Rede< ist. Aristoteles hat diese Funktion der Rede schärfer expliziert als ἀποφαίνεσθαι. Der λόγος läßt etwas sehen (φαίνεσθαι), nämlich das, worüber die Rede ist und zwar für den Redenden (Medium), bzw. für die miteinander Redenden. Die Rede >läßt sehen< ἀπό ... von dem selbst her, wovon die Rede ist. (p.32)
語りとしたのロゴスはむしろデールーンを意味する。デールーンとは、語りのうちで「語られていること」を明らかに示すという意味の語である。アリストテレスはこの語りの機能を、アポファイネスタイとしてさらに鋭く説明した。ロゴスは、それについて語られているあるものを、語りつつある者に対して(中動相)、あるいは互いに語りつつある者たちに対して、見えるようにする(ファイネスタイ)のである。語りは、語られているその事柄自体の方から(アポ)、語られていることが「見えるようにする」のである。

 ロゴスとして表現されたデールーンは、語られていることを「明らかに示す」という意味を持ち、アポファイネスタイは、語られていることが「見えるようにする」という意味を持っていることが指摘されています。これら2つの言葉に共通するのは、語ることによってあるものを「あらわにする」という意味を持つことだとわかります。特にアポファイネスタイについては、「語られているその事柄自体の方から」語られていることを見えるようにすると言われていますが、これは「自らにおいて自らを示す」という現象の語の基本的な意味とよく似ていることがわかるでしょう。

 何かを語ることには、発語という性格、言葉を声に出して述べるという性格があります。その場合には、語り(ロゴス)は >φωνή μετά φαντασίας<(フォーネー・メタ・ファンタシアス)、すなわち「見える像を伴った声」であると、ハイデガーは指摘しています。人間同士が話をする際には、声に出して語られた言葉はある像(ファンタシア)を伴うことで、その声を聞いた相手に、語られていることの事態が思い浮かべられる必要があります。だから、語りによって「見えるようにする」のは、その事態についてのイメージである像(ファンタシア)であり、この声が語られることで、相手はその事態を目撃することになります。
 ハイデガーは、このように言葉が同時にある事態を目撃させる働きをすることを、>σύνθεσις<(シュンテシス)というギリシア語で示します。シュンテシスとは、ドイツ語では >Synthesis< の語のことであり、これは普通「総合」と訳されます。しかし、ここでいうシュンテシスとは、さまざまな表象を結合したり連結したりするという意味での総合ではありません。

Das συν hat hier rein apophantische Bedeutung und besagt: etwas in seinem Beisammen mit etwas, etwas als etwas sehen lassen. (p.33)
シュンは、ここでは純粋なアポファンシス的な意味を備えているのであり、あるものをそれと"ともにある"ものとともに見せるということ、あるものをあるもの"として"見せるということである。

 シュンテシスという語を持ち出して、ロゴスの「あらわにすること」の意味を確認する理由は、それが真理の問題にかかわるからです。西洋哲学の伝統で受け継がれてきた真理の理論では、ある命題が語られるときに、それが語る事態が実際に存在しているなら、それは真の命題であり、そうでないなら偽の命題であることになります。つまり真理とは「命題と事態との合致」であると考えられています。しかし、ハイデガーの考える真理は、このような合致のことではありません。「総合」(シュンテシス)が結合や連結を意味しないというのはそのことを示しています。
 たとえば「明日は晴れるといいな」という願望の語りについて考えてみましょう。この文は真偽を問うような命題ではありませんから、合致としての真理が生まれる場ではありません。しかし、このような発言がされることの背景には、「明日は遠足の日だ」とか「洗濯物がたまっている」といった真なる事態が前提にされているはずです。前提されるのがなぜ真なる事態なのかというと、もし「明日は遠足の日だ」が偽であるとしたら、「明日は晴れるといいな」という発言がなされることはないからです。合致の真理では、ある事態に対して適切に語られているかが真偽として判断されます。このとき、ある事態が存在していることは、そうした判断が行われる以前から、真なる事態として前提されていなければなりません。この真なる事態としての真理が、命題の判断で生じる合致の真理とは別の次元のものであるのは明らかでしょう。
 このように、すべての文は、真なる事態に基づいて語られるのであって、その事態についての人間の反応を示すのが文であり、それが命題的な文であったり、願望のような文であったりします。だから、どちらも真なる事態としての「真性」に依拠しているのだといえるでしょう。このような意味で把握した真理概念から、次のように言われます。

Das >Wahrsein< des λόγος als ἀληθεύειν besagt: das Seiende, wovon die Rede ist, im λέγειν als ἀποφαίνεσθαι aus seiner Verborgenheit herausnehmen und es als Unverborgenes (ἀληθές) sehen lassen, entdecken. Imgleichen besagt das >Falschsein< ψεύδεσθαι soviel wie Täuschen im Sinne von verdecken: etwas vor etwas stellen (in der Weise des Sehenlassens) und es damit ausgeben als etwas, was es nicht ist. (p.33)
アレーテウエインとしてのロゴスの「真であること」が意味するのは、"それについて"語られている存在者を、アポファイネスタイとしてのレゲインにおいて、その隠されたありかたから引き出すことであり、それを隠れなさ(アレーテス)として見えるようにすること、"露呈させること"である。同じように、「偽であること」プセウデスタイは、"覆い隠す"という意味で偽ることであり、何かを何かの前において(見えるようにするというしかたで)、しかもそうすることによってそれでは"ない"あるもの"として"、言い立てることである。

 アレーテウエインとは「真理を語ること」を意味します。アポファイネスタイは「見えるようにすること」、レゲインは「語ること」でした。>entdecken< というドイツ語は、>ent< と >decken< の2つの要素から成り立っています。>ent< には「何かを取り去る」といったような意味があり、>decken< は「覆う」という意味の動詞です。ですからこの語は、「覆いを剥ぐこと」といったようなニュアンスで捉えることができ、「露呈させること」と訳すことができます。存在者を、その隠されているありかたから、隠れなさ(アレーテス)において見えるようにすること、それが真理を語る行為です。このように「真理」とは隠されているものの「覆いを剥ぐこと」であることが示されています。

 ハイデガーは、真理とは、隠されているものを暴き、真のものに出会わせることであって、現象やロゴスと共通の意味を備えていると考えています。

Weil aber >Wahrheit< diesen Sinn hat und der λόγος ein bestimmter Modus des Sehenlassens ist, darf der λόγος gerade nicht als der primäre >Ort< der Wahrheit angesprochen werden. (p.33)
しかし、「真理」はこの意味を持つのであり、ロゴスは特定の見えるようにすることの様態なのであるから、ロゴスが真理の第1義的な「場所」であることを要求しては"ならない"。

 「真理はこの意味を持つ」の「この意味」とは、隠れなさとして見えるようにすることであり、露呈させることでした。これに対して「ロゴスは特定の見えるようにすることの様態」だと言われています。これは、ロゴスの本来的な意味は<語り>であるとされていますから、ロゴスは「語り」という特定の様態で見えるようにするものであることを指摘するものです。ということは、ロゴスが真理の第1義的な「場所」であると考えることはできないでしょう。
 古代ギリシアの考え方では、人間が物に出会う営みとしては、言葉よりも感覚が重要な役割を果たしていました。

>Wahr< ist im griechischen Sinne und zwar ursprünglicher als der genannte λόγος die αἴσθησις, das schlichte, sinnliche Vernehmen von etwas. Sofern eine αἴσθησις je auf ihre ἴδια zielt, das je genuin nur gerade durch sie und für sie zugängliche Seiende, z. B. das Sehen auf die Farben, dann ist das Vernehmen immer wahr. (p.33)
「真」は、ギリシア的な意味では、すでに述べたロゴスよりもさらに根源的な、あるものを端的に感性的に知覚することであるアイステーシスである。アイステーシスは、それぞれに固有のイディアを目指すものであり、たとえば視覚が目指すのが色であるように、アイステーシスを"通じて"、アイステーシスに"とって"のみ近づくことのできる存在者を目指すのである。そのとき、その知覚はつねに真である。

 アイステーシスとは「感覚」のことで、イディアは感覚が向かう特定の対象のことです。このアイステーシスによる真理性は、判断による真理性とは次元が異なります。たとえば、遠くにある塔が円柱の形に見えたとします。遠くから円柱に見えるのは事実であり、そこに誤謬はありません。ですが、見る人が「あの塔は円柱の形をしている」と判断するなら、そこには誤謬が生じる可能性があります。というのも、近くで見ると、実際にはそれが角柱の形をしていたならば、その判断は「偽」となるからです。しかしこの場合も、遠くからその塔が円柱の形に見えたという視覚には、やはりいかなる誤謬も含まれていません。このように、判断では真であったり偽であったりすることがありますが、アイステーシスでは「その知覚はつねに真」であることがわかります。
 ハイデガーはアイステーシスの働きを、ノエインという動詞で言い換えます。

Im reinsten und ursprünglichsten Sinne >wahr< - d. h. nur entdeckend, so daß es nie verdecken kann, ist das reine νοεῖν, das schlicht hinsehende Vernehmen der einfachsten Seinsbestimmungen des Seienden als solchen. Dieses νοεῖν kann nie verdecken, nie falsch sein, es kann allenfalls ein Unvernehmen bleiben, ἀγνοεῖν, für den schlichten, angemessenen Zugang nicht zureichen. (p.33)
最も純粋で最も根源的な意味で「真」であるのは、すなわちただ露呈させ、覆い隠すことがありえないのは、純粋なノエインである。純粋なノエインは、存在者としての存在者の最も単純な存在規定について、端的に眺めやることで知覚することである。このノエインは覆い隠すことはありえず、偽であることがない。ただ"感受しない"でいること、アグノエインがありうるだけであり、それは対象に近づくための端的で適切な道が欠けているという状態のことである。

 純粋なノエインは、「最も純粋で最も根源的な意味で真である」とされています。ノエインは通常、「思考する」という意味で使われますが、ここでは「純粋な」という形容詞を付与することで本来的なノエインの意味を強調していると考えられます。
 ノエインという語はアイステーシスと置き換えるように使用されていますが、感覚であるアイステーシスとは意味の違いがあります。ノエインには、「観る」「識別する」といった知的な直観としての意味があり、暗黙のうちに判断の機能が含まれています。とはいえ、この「判断」とは合致の真理での判断のことではなく、あるものをあるものとして認識する直観のことであり、それは感覚と同意義で扱われるようなものです。ノエインについて「存在者としての存在者の最も単純な存在規定について、端的に眺めやることで知覚すること」と言われているのは、ノエインが「原的な認識」という意味を持っていることを示しています。このような「原的な認識」であるノエインを、真理の最も根源的な場所とみなすことは、人間が知覚した現象を事象そのものとして考察しようとする現象学の方法と一致したものであると言えるでしょう。このノエインの重要性については、Cで詳しく展開されることになります。

 これまでの議論で明らかになったのは、「現象」と語りとしての「ロゴス」、そして「真理」の概念が、自らにおいて自らを示すという意味を持っているということで、そのようなロゴスの第1義的な意味とは、語られているその事柄自体の方から、語られていることが見えるようにすること、アポファイネスタイであることでした。こうして、ロゴスと現象の概念に結びつきがあることが確認され、現象学という概念は、意味が重複した概念であることが明らかになりました。次のCでは、AとBの成果に基づいて、現象学の概念が検討されることになります。


 今回は、序論第2章の第7節AおよびBをお届けしました。次回は第7節の残りのCから進めていきたいと思っています。序論については、あと2回の投稿で終わる予定です。

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