出る杭は打たれるー突き抜けたけど、もう 心身共に限界、純粋な学術研究へ Part6

 前にも触れた、日付過ぎに深夜残業でタクシーで帰宅、休日出勤は当たり前の生活。目標を達成したら、次年度は更にその120%を要求される組織で、研究室長からは「20勝投手として考えている」と当然のように言われ、頑張れば頑張るほど、自分の首を締める・いくら若くても続きません。できない研究員なら仕事しなくても怒られない。

 稼ぎ頭と言われた森永氏、私と、有能な研究員2名で「転職研究会」を闇で立ち上げ、各々面接に行っては情報交換をしていました。私も他の金融機関、ノルマのない研究所からスカウトが来ていました。

 先に辞めたのが森永氏と有能な研究員(彼の結婚式で、私を知っている当時フジTVの槇原アナから声をかけられました。今や地方大学の教授)は、銀行系シンクタンクへ転職、総研の環境は益々厳しくなります。私は最大手の生保の基礎研に面接へ。

 かつての上司が、私より年配の女性研究員を紹介してくれ、日比谷と麹町なので、距離は目と鼻の先。元上司の前では笑顔だった彼女から、研究室に戻ると、すぐ電話が。「ご一緒に働けると良かったんですけど。」と。

 つまり、私がその研究所に行くと彼女の立場が危ういので、来るな、という意味。行けば虐められるのは明らか。出る杭になるから。当然、そこは避けて、男性副主任研究員からのお声がけで、別の生保のシンクタンクへ。

 当時、田中美子の名は、著書や各地への講演、中央省庁の審議会委員等で売れ始めたましたが、委託研究では、自分の書いた報告書は、官公庁刊行物として例えば「国土交通省」という名で売られ、私の名前はどこにもない。

 おまけに、新しいプロジェクトが取れた時、もう肉体的に無理、と思った私が、過疎地域への現地調査は良い仕事する調査会社に依頼を決めたのに院卒研究員、I君が「内部でやりましょうよ」と。「私は、プロジェクトリーダーは名前だけになるけど」と言うと「僕がやります!」と彼。しかし任せたら、下に研究員をつけたのに、その彼を叱咤し、クライアントから資料の出来に文句を言われ、帰りのタクシーで「やはり、調査会社に出しましょうか」って。何言ってんの、今さら!って。流石にキレた。

 面接が通り、最後に当時天皇陛下扱いだった大御所の所長(国鉄の分割・民営化、電電公社の分割民営化をした)が「貴女は学位(博士号)を取りなさい」と。その一言で決まりました。いきなりスター研究員として厚遇され、今でもその生保のY会長には感謝しています。

 私の報告書を読んだ筑波大助教授(当時)に大学院のゼミの指導を頼まれ、著書「地域イメージとまちづくり」を刊行し、その先生の推薦もあり、東工大史上最短で博士号を取得。そこから早稲田大学講師、東工大大学院で教鞭をとり、生保のシンクタンク所長が学長の、千葉の大学の新設学部へ。自分の書いたものは、著作権が欲しかったのです。

 後に、総研は当然赤字転落、分裂し、残ったメンバーで細々と続き、電話が掛かってきた時には、そのI君が「今、美子先生の名前が執筆者に残っている報告書を見ながら、皆、書いているんですよ」と。

 その後、総研は潰れ、その生保のシンクタンクも合併され、私が辞めた研究所は皆潰れ、移った先の大学の研究科も含めて全て潰れてしまいました。働かない(働けない、ではない)人間にも優しい、社会主義国家が崩壊したのと似てる気がします。
 
  注)石見利勝・田中美子著『地域イメージとまちづくり』技報堂出版

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