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【読書録008】音楽の危機 ≪第九≫が歌えなくなった日

今だからこそ目を通しておきたい、音楽とコロナについて語られた本を紹介します。

『音楽の危機
 ≪第九≫が歌えなくなった日』

著: #岡田暁生 2020年

■本書は、コロナウイルス蔓延後に書かれた、とても苦しまぎれの本です。

何がツラいって、音楽は滅ぶしかないのか、という絶望と、いやそんなことはないハズだ、と息巻く著者の心の叫びが記されています。

大きく分けて、語られるテーマは2つ。

1、これまでの社会は、音楽について何を常識としてきたか
2、音楽の中にある、色々な社会の可能性を読み解く

と、序文には書いていますが、実際はそこまで俯瞰も深堀りもしていない本です。
(何かの手違いか…?)

■ご存知のとおり、

コロナウイルスの世界的な蔓延によって、コンサート、劇場、祭典、図書館、美術展、遊園地、遊興場、観光地、賭博場、性風俗といった「場所を提供する業界」が、唐突に追い込まれました。

一見するとそれぞれ関係の浅い売り物たちですが、ここに共通しているのは2点。

「三密」
「不要不急」

芸事や遊興の類は、危急存亡の際には真っ先に切り捨てられるものである、ということの社会証明になりました。

それもそのはず、飲食店や生活用品店とは違って、音楽にはビタミンもカルシウムも含まれないし、外敵・害獣・天災から身を守る力もない。

「浄化」が正義となるとき、芸事ってのはこんな簡単に無力なものなのですね。
(私自身も立場上、この絶望と無力感については強く打ちひしがれました)

上述した場所で行われる、音楽、演劇、映画、書籍、絵画、ゲーム、式典、賭博、性風俗の中で、音楽は唯一「視覚的要素を全く含まないもの」です。

書籍や絵画や人間と違って、見たり触ったり会話したりできません。

もちろんライブコンサートの価値というものは音楽を聴くだけはなくて、視覚作用があったり、多数の人間との共有空間があったりするわけですが、
コロナが蔓延してからというもの、生演奏を体験した機会はいかほどだったでしょうか?

本書はこのようなことを問いかけてくる辛辣な、時代の愁訴であります。

■ただ著者はどういうわけか、

現代の音楽ではほぼ当たり前である多重録音作品にやたら否定的。
生演奏の呼吸感が失われることをやけに恐れており、オンラインセッションや音楽教室のアクリル板などについて

「音楽にとって一番大事な感覚が育たない」
「これが常態化してしまうと、気配が失われてしまう」

などとちょっとよく分からないことを言ってらっしゃる。

また第九に対する異常なまでの普遍化・神聖視にもかなりページを割いていて、まるで2000年以降まったく音楽聞いてないんじゃないかと錯覚するほど。

「構成を楽譜という形であらかじめ緻密に設計し、作り込むタイプの音楽(中略)=クラシック音楽と考えてもそんなに間違いではないだろう」
…(゚Д゚)…。

挙げ句、第九の話題は第5章以降まったく触れられずに終わる。

■若干の偏りは感じられるものの、

最初に述べたとおり決して「音楽は死んだ」と泣き言を喚いているのではなく、

・これまでに無かった製作や提示の方法はないものか?
・空間的に、本質的な価値を見つめなおしたほうが良いのかも知れないのでは?
・この状況を打破する先鋭的な作曲家の登場を心待ちにしている

ともおっしゃいます。
こうなると鼻につく第九妄信についても、何だか若い世代へのエールの照れ隠し?にも見えてきて、読後感としては

カワイイお爺ちゃんやなぁ(;^-^)

という感じでした。

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第一部
音楽とソーシャル・ディスタンス
──巷・空間・文化

 第一章 社会にとって音楽とは何か
  ──「聖と俗」の共生関係

 第二章 音楽家の役割について
  ──聞こえない音を聴くということ

第三章 音楽の「適正距離」
  ──メディアの発達と「録楽」

《間奏》非常時下の音楽
  ──第一次世界大戦の場合

第二部
コロナ後に「勝利の歌」を歌えるか
──「近代音楽」の解体

 第四章 《第九》のリミット
  ──凱歌の時間図式

 第五章 音楽が終わるとき
  ──時間モデルの諸類型

 第六章 新たな音楽を求めて
  ──「ズレ」と向き合う

 終章 「場」の更新
  ──音楽の原点を探して
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