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児相に行けと言われ続けた発達障害児が医者になって障がい者就労支援のために大借金背負ってドライフルーツを売ってみた⑦ ~学童期後編

父の酒乱は相変わらずで、暴力事件を起こして謹慎処分になったり、外で飲んでは散財し、共働きなのに家計は苦しかったようです。

でも、田舎特有のお節介のおかげで、洋服はおさがりをもらったり、野菜も近所の人がくれたり、ハム工場に勤める近所のおばさんがいつも期限切れのハムや冷凍肉をくれたので、ひもじい思いはせずに済みました。

母が残業で遅くなり夕食の時間が遅くなると、父の機嫌が悪くなり、母が帰って来た時に父が母を詰るのが嫌で、自然と私が夕食を作って父に食べさせるようになりました。

母は情動不安定となり、過呼吸発作を起こしては倒れ、そのたびに私が祖母に電話をして、ペーパーバッグ法などを教えてもらい介抱していました。

ある日、朝起きると母が突然いなくなっていました。

数日後に祖母の家に連れていかれると、包帯を手首に巻いた母がいました。父のDVに反応してリストカットをしたのです。

その日から、寝る前に毎晩包丁を隠すのが私の習慣になりました。


4年生になると、他の学校から赴任してきたK先生という50歳くらいの男の先生が担任になりました。

K先生は、顔がブルドッグにそっくりで、ほとんど笑う事はなく、子供たちが流行歌を歌っていたら「日本の歌謡曲など、くだらん音楽だ。クラシックの方が断然いい。僕はね、リストやマーラーが好きなんだよ。」と子供にあわせる気が全くないのが、逆に新鮮でした。

学年の初めにある家庭訪問の前に母親は、
「ああ、やだな。また児相に行けって言われるわ。いつも『テストの点は問題ないのですが、、、』ってその後が長いんよ。順番を逆に言ってくれたらいいのに、『○○は問題ですが、テストはよくできます。』って。」と愚痴っていました。

でも、K先生との懇談の後、母は嬉しそうにしていました。
「あの先生、いい先生だわ。初めて、あんたの良い所を言ってくれて懇談が終わった。良かったわ。」

母はK先生からこう言われたそうです。
「前の担任から、娘さんが色々問題がある児童だというのは聞いています。ただ、知能検査の結果、娘さんは知能指数が140以上あるそうで、そこを伸ばしてあげれば、将来、飯は食えるようになるでしょうから、それでいいんじゃないですか。」

はじめて、学校で褒められて嬉しかったことは覚えています。

K先生は、とにかく変わった先生で、今では考えられませんが、いつも教室でたばこを吸っていました。
授業中に、ピース缶を灰皿代わりにして喫煙していました。

そして、
「この問題を、俺がたばこを半分吸うまでにできたやつにはこれをやる」
と空きのピース缶をかけて競争させていたのです。

皆が欲しがったピース缶

私は、このピース缶欲しさに、これまでやる気のなかった授業中の課題を目の色を変えてやるようになりました。

そしてぶっちぎりの1位でピース缶を独り占めした私は、そのピース缶に、カメムシやダンゴムシやカエルを集め続けたのでした。

その後も、問題行動が減るわけではなかったのですが、勉強だけは誰にも負けないように頑張ろうとは思いました。

後日談として、それから、20年以上経って、母が、そのK先生の奥様とたまたまお会いする機会があった時(K先生は珍しい姓なのでもしやと声をかけた)、高齢で寝たきりとなって自宅で療養されていたK先生が、晩年、「ほら○○さんが、カエルを缶につめて持ってくる」と、自宅の庭でカエルが鳴くたびに、うなされるように、私の名前を出していたと聞かされました。






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