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児相に行けと言われ続けた発達障害児が医者になって障がい者就労支援のために大借金背負ってドライフルーツを売ってみた⑤ ~学童期前編

もう少し、祖母の話をさせて下さい。

祖母は九州の田舎の名家の出身で代々教職に就いている家系だったそうで、正看護師になり従軍看護師として大連に渡り、そこで職業軍人だった祖父と結婚しました。母も大連で生まれ、その頃は家に住み込みのお手伝いさんがいるような裕福な暮らしをしていたそうです。そこで終戦を迎え、祖父もシベリアに収容されたまま行方不明で、祖母は母を連れて命辛々帰国したと言っていました。その後、復員して帰国した祖父と山陰の奥地に家族で移住したそうです。母が後に近所に帰国した中国残留孤児を熱心に支援していたのはこの経験からなのでしょう。

帰国直後に港で襲われそうになった時、相手の男をどやしあげて、「お国のため多くの人が亡くなっているのに何をしとるか!」と説教して改心させたと言っていた祖母。
山陰の山の中で隠遁生活をする祖父とは別居し、山から少し降りた町の診療所で看護師として、町中の人に必要とされ、男尊女卑の閉塞的な空気など関係なく凛々しく働く祖母に憧れていました。

私はというと、小学校に上がると多動衝動性はより顕著になり、教科書は自分でどんどん進めて目を通すと興味がなくなるので授業は聞けません。漢字を何度もノートに書いて覚えるというやり方が効果があるように思えなくて宿題もやらない。友達との距離の取り方がおかしいのか、皆が遊んでくれないので癇癪をおこす。読書感想文が選ばれて、先生が添削したものを清書するように言われたが、自分が書いた文章じゃない部分を追加されていたので、「こんな感想は自分の考えじゃない」と拒否して癇癪を起す。

1日1回は癇癪を起して校内中を響き渡るように泣き叫ぶと、教頭先生か主任の先生が教室に飛んできて私の横についていました。毎日、帰りの会は、私の糾弾の場と化していました。
「今日、○○ちゃんが棒で叩いてきました」
「今日、○○ちゃんがガラスを割りました」

でも私の言い分は、女の子をいじめる男子どもに、棒で立ち向かうヒーローであり、皆から糾弾される謂れはないと思っていました。
いつも皆が散らかしたトイレのスリッパを揃えているのは私なのに何でそこは見てくれないんだ。
宿題しなくてもテストは満点なのにそこは何で褒めてくれないんだ。
かけっこが早い子は表彰されるのに、勉強は1番になっても誰も褒めてくれない。

懇談の時は、いつも母が「この子を児童相談所に連れて行ってください」と言われると愚痴をこぼしていました。
共働きで平日に休んで児相に行くなんてできないし、それよりもうちの家庭は深刻な問題を抱えてそれどころではない状態でした。


もう廃校になった小学校

それは父の酒乱です。

父の実家は町でも有名な貧乏一家でしたが、11人兄弟の9番目にやっと生まれた長男として貧乏なのに甘やかされて育ったと伯母たちに聞かされました。

私の記憶の一番古いものは、おそらく2歳くらいの時、近所の家の納屋に母と隠れているシーンです。暗闇で目を覚まして明かりの射す方を見ると、母がその家の人に小声で何かを頼み込んでいるのが見えました。酒を呑んで暴れる父から逃げてきたので、祖母に連絡を取るために電話を貸してくれと頼んでいました。

父の酒乱は地区でも有名で小学校で行われる地区の運動会は毎回父が問題を起こすのでその時期なると母が暗くなるのが嫌でした。

母はよく「お父さん、パチンコに連れて行ってよ」と小さい私を連れて一緒にパチンコ屋に行っていました。
パチンコをしている間はお酒を呑まずに済むからです。
私はずっと落ちてるパチンコ玉を拾って遊んだり、換金所のおじいちゃんと仲良くなって換金所の奥でテレビを見せてもらったりそれなりに楽しかった覚えしかありません。
でも、それを町の人に「あそこの家は父親はアル中で、母親はパチンコ狂いだ」と言われて「何にも知らないくせに」と暴れたこともありました。

私は皆に嫌われている、誰も褒めてくれない。
こんなに一生懸命生きてるのに。
一生ひとりぼっちで生きていくんだろうな。
やっぱりおばあちゃんみたいに資格を取って皆に必要とされたい。
そう思っていました。

こうやって見るとなんだか暗い幼少期のようですが、以外と本人は楽しくやっていました。
なんせ多動児は嫌な気持ちもすぐに忘れてしまいます。

一人でも田舎の大自然相手にいっぱい遊んだのでした。
それが、さらなる波紋を呼ぶとは知らずに。。。

続く。。。


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