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児相に行けと言われ続けた発達障害児が医者になって障がい者就労支援のために大借金背負ってドライフルーツを売ってみた④ ~幼児期編

協同組合を作ったとこまで書きましたが、皆さん、そろそろ気になって痺れを切らしてる事がありますよね。

児相こと、児童相談所に行けと言われ続けた発達障がい児が医者になるまでの話。

今日はその話を書きましょう。

まあ、自分も協同組合の話書くのにちょっと飽きてきただけなんですけどね。

私が生まれたのは山陰の超ど田舎で、全校生徒が50人くらいの小学校があるような僻地でした。

町に信号機がないので、子供たちが都会に行った時に困らないように、年に一回お巡りさんが学校に信号機の模型を持ってきて交差点を渡る練習をするような、最近のわかりやすい例で言うと千鳥の大悟の実家とほぼ同じような環境でした。

母校の小学校の裏
手前の川では今でも蛍が飛び交う

男どもは酒を飲むかパチンコや麻雀するくらいしか娯楽はありません。男尊女卑の文化も根強いのですが、兼業農家が多く、女は農作業もしてパートでも働き、家事も育児も介護も冠婚葬祭もこなさないといけないのがあたりまえの社会でした。

中卒の両親の元、8つ上の姉、5つ上の兄の下に末っ子として生まれました。

母によると、当時は貧乏で祖母の認知症も始まって介護が大変な中、うっかりデキてしまった私は、生まれたら知り合いの子供のいない夫婦の家にあげる約束になっていたが「でも生んだら可愛くて手放せなくなった。」と聞かされました。そういえば、母の職場の行事に参加すると必ず私だけに優しくしてくれるおばちゃんがいたっけ。服を買ってくれたりお菓子をくれたり。母曰く、小学校に上がるまであきらめてもらえなかったそうです。

それを聞かされた私はショックを受けたかというと、正直なところ、その頃の自分の感情をあまり覚えていないというのが現実です。

一つ一つのエピソードが客観的に映画のキャプチャーのようにとぎれとぎれで画像は出てくるのですが、その時の自分が何を思っていたかはほとんど記憶がなく、それについて悲しいとも嬉しいとも感じません。だからそのエピソードが本当に私が体験したのか、母から聞いて上書きされた記憶なのかもわかりません。
ただ、確かに言えることは、私は非常に多動で、衝動的で保育園の頃から、周囲を困らせる子供だったという事です。

保育園では、毎日友達と喧嘩になり、お昼寝時間には一人寝ずに、周りを起こすので別室で保母さんの監視下に置かれていたり、お遊戯になると隠れたりしていました。時々ふらりと園から抜け出して、園から徒歩5分くらいにある、母方の祖母が勤める診療所に遊びに行っていた記憶はあります。私が診療所に行くと、祖母が園に「すみません、また、こっちに来てまして。後で連れていきますけえ。」と電話をかけてくれていました。

祖母は看護師でその町で唯一の診療所に勤めていました。
診療所と言っても医師は常駐せず、本院から1日に数時間だけ診察に来て、残りの時間は祖母が一人で処方薬を作ったり、定期的な注射をしたり、怪我の応急処置や急患が出ると祖母が訪問して本院の医師と電話で相談して様子を見させたり、車で連れてくるか救急車で搬送するかを指示を受けていました。今でいう訪問看護さんのような役割ですね。

私は診療所に医師がいない時間に行っては、ガラスの注射管を煮沸消毒したり、祖母が分包した粉薬が入った薬包紙を折って閉じる作業を手伝うのが大好きだったのは覚えています。診療所の消毒の匂い、ガラスのシリンジがカチャカチャする音、アンプルを切るハート型のやすり、薬を量る分銅、色んな薬が入った引き出し、待合室の女性週刊誌など。私にとっては保育園にあるどんなおもちゃや絵本よりも魅力的だったのでしょう。そして、医師がいない間、僻地医療を守る祖母がかっこよくてヒーローに見えたのだと思います。

私も看護師になりたいと言うと祖母は「あんたは気が強いけえ、看護師には向いとらん。看護師はねえ、医者から、黒いもんを白だって言われても『はい、白です。』って医者の言う事を聞かんといけん。あんたにはそれができんでしょ。」とたしなめられました。そして「どうしても僻地医療がしたいなら頑張って勉強して医者になりんさい。」と言われました。その時は医者が働く姿が浮かばず、ふーん看護師にはなれないのかと思ったくらいでした。

続く。。。


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