石井妙子さんの男性差別の背後の「信仰」とそれを掲載する文春の卑劣さ。そのさらに裏にある女性蔑視①

文春オンラインに石井妙子さんという方の記事が掲載されている。
昨年末から話題になっている松本人志さんの文春報道についての意見で、控えめに言って男性差別だ。

まずは記事の内容を簡単に取り上げる。
松本さんの件は、女性を獲物として罠にかけるゲームとして飲み会が開かれており、芸能スキャンダルではなく、「性加害に近い事件」なのだそうだ。
性加害をどのように石井さんは定義しているのか。もしくはどのような範囲のものと認識しているのか。
そもそも獲物だろうが、罠だろうが「芸人さんたちとの飲み会に参加したい、性的な意図が男性陣にあっても参加したい」という自由意志は女性側には存在しないのか。
性加害とはまずもって性的自己決定の自由の侵害だろう。まずはそういった本筋を考えて、それから罠だの獲物扱いだのという「解釈」をしていくべきであり、モノをまともに考える順序がなっていない。
その辺がごちゃまぜでぼんやりしており、独り善がりな意見だからこそ「近い」などという逃げを打つことになる。

続けて明確な男性差別の記述が以下のものだ。

「さらに男性が群れをなした際に剥きだしになりがちな野蛮さも背後にあるように思えてなりません。女性に手を出したのが松本氏だけであったとしても、彼を頂点にした複数の芸人たちが作るサークルの存在がなければ、ここまで悪質なゲームは続かなかったことでしょう。その点で、疑似的な集団レイプのような印象を受けました。」

またしても「剥き出しになり『がち』」というように逃げを打っているが、要は「男というものは群れをなしたとき野蛮さを剥き出しにする」と言っているわけだ。
そういう場合もたしかにあるだろう。しかし男が野蛮な動物だと言っているわけで、これを男性差別として問題視しないならば、「女は会議で話が長くなり『がち』」なんて、はるかにかわいい決めつけだ。
何に憤慨して感情的になっているのか知らないが、そういう発言はやめましょう。幼稚園児に諭すようなレベルだ。

そして「擬似的な集団レイプ」とはなんだ?「擬似的」とか「ような印象」とかでまたしても逃げを打っているわけだが、松本さんを頂点とするサークルがなければそりゃ「集団」にはならなかっただろうが、なぜ「レイプ」というものが出てくるのか。一番重要な点が単なる決めつけで片付けられている。

そして松本さんに対して、自身で発信しろと言う。「裁判なんて真実はわからない」のだそうだ。
それはそうだ。法システムの内側では法的真実しか決まらない。正義さえも法と反することがある。
今回で言えば「真実相当性」があれば真実と食い違っても文春側が勝つ。裁判なんてその程度だ。
だが、判決文にはその程度の判決であること自体も記載されているだろう。
「文春に賠償命令は下しませんが、松本さんが性加害したとも言えないです」といったように。
あとはこれを我々がきちんと読んで理解するかどうかだ。

それにしても石井さんは本人が何か言えば真実が確定すると思っているのだろうか。
松本さんが自身の主張をきちんとしたとして、その主張内容の真偽は誰が決めるのだ?何を言ったとしても独善的、暴力的、差別的な人間たちが「そんなものはウソ、言い訳だ」、「男は群れをなして女を獲物として野蛮さを剥き出しにして」その結果としての「集団レイプであることがわかった」などと頓珍漢な決めつけがなされたり、表に出てこようものなら無礼で不躾な「質疑応答」で、松本さんを傷つけるだけだということは昨今の「記者会見」なるものを見ていればわかることだろう。
そこでは独善的な連中や、今回裁判で争う相手方のような人間に都合よく切り取られ、吊し上げられる。これのどこが真実に近づく手段なのだ?
少なくとも裁判より公正なんていう根拠はどこにもありはしない。

そして終いには

女の発言など聞くに値しないという男たちの論理がまかり通る様をまざまざと見せつけられているようです。

で文章は締め括られている。被害女性の声に耳を傾けろとのことだが、ここも謎の決めつけで明確な男性差別である。
「女の発言を聞くに値しない」なんて、建前ではなく本音レベルでもほとんどの人は思っていないだろう。これが「男たちの論理」とは大丈夫なのか?心配になる…

一応妄想について解説しておくと、これは「投影」という心理的防衛機制に基づく。自分の心の中にあるものを、他人がそのような気持ちを持っているはずだと考えることだ。自分の中にある攻撃性を相手がもっているはずだとして、先手を打つように攻撃的になる。相手が悪いと思っているので、訂正してあげようとしても聞いてくれないし、それどころか「敵対勢力の手先だ」と考えるようだ。
しかしそれだけではなく、男性・女性であるということと力・パワーをもつということの間の葛藤も見て取れる。パワーある女性にただならぬ想いがあるようで、嫉妬心を隠さず粘着していることでもこの方は有名らしい。

石井さんのマインドの分析よりもさらに大事なのは男性差別を基礎づける信仰だ。それは何かと言うと

男性であるということに対する原罪思想

これに他ならない。男は男であるというだけで産まれながらに罪人なのだ。何しろ男というのは「女の言うことなんて聞くに値しない」などと思っているとんでもない存在らしいし、友達といるだけで野蛮になり、擬似的な集団レイプというものをするものらしい。たしかに罪深い…

この界隈だけではなく、例えばアメリカなら白人男性であるという原罪があるらしいし、「アメリカ大陸の原住民は環境と調和して暮らしていたはずだ」と理想化することなども「新大陸」発見以降の侵略の歴史における罪悪感由来のものかもしれない。
これらは論理ではなく信仰だ。
そして「男たちは集団で女を獲物扱いしてゲームとして楽しんでいる」という言説は何も石井さんのオリジナルの意見でも何でもなく、エセフェミニズム界隈ではよく語られる「教義」「物語」であり、実はこの文章全文がほぼテンプレなのだ。つまり石井さんは特段何も考えていないのだろう。「サークル」の害悪はお笑い芸人さんの世界ではなく、この手の言論界隈でこそ顕著であり、彼らは裸の王様だ。純朴な人間こそ、「ホモソーシャル」だの「家父長制」だのそれっぽい言説に実は何の中身もないことを見抜いている。
いや、元々は重要な問題提起であったのだろうが、このような知的にも人間的にも不誠実で拙劣な人間による悪用、誤用のせいで「ちょっとアレな人たち」が使うキーワードに成り下がってしまった。
本当はお勉強なんかしてる男よりも体育会系のノリも威勢もいい男が好みなんだろ?そのゾーンに相手にされなかったルサンチマンが攻撃性に転化しただけ。まあ逆転の目がなければそうなるのも仕方ないだろう。同情はするが、だからと言って学問を冒涜したり男性差別や個人攻撃をしてもいいことにはならない。お仲間サークルから仕事をもらってる事情があるのもわかるが、やってはいけないことはやってはいけないのだ。

ここまで石井さんを批判してきたが、実際はあまり石井さんを責める気はない。なぜなら

バカな人には、その人自身がバカであることそのものに対する責任はない

からだ。そりゃそうだろう。自身のバカさを理解したり、それを修正できるならそれはバカであるということの定義からして背理だからだ。

石井さんがもし中学をご卒業されているとしたら、それは論理的な思考、感情や信仰と事実との区別をつけてモノを考えること、男性差別はいけないことなどを教育されてきていないことが問題であり、ここまで低いレベルなら卒業中学に責任があることになる。

そしてもっと大きな問題は、このような明確な差別言論を文春が掲載していることだろう。
自分が言わせたい意見を真っ正面から言ってくれるのは「使える」。
しかしいくらなんでも産まれながらの属性による露骨な差別を「識者」の意見として掲載するとは常軌を逸している。

最近は文春に批判的なスタンスの橋下徹さんや箕輪厚介さんなどの意見も「バランスよく」掲載して「多様な意見」に配慮している風を装ってガス抜きを図るという見え見えなことをやっていて滑稽だ。
橋下さんは「フェア」ということにこだわるから、「うちに厳しい意見でもいいのでご意見お願いします」と言われると、感情的に片寄らない意見という形で、文春に厳しいことは言いながらも一方的に完膚なきまでは言わない。そんな橋下さんの特徴を利用しているし、箕輪さんは編集者として業界事情も知っている人間として問題点は指摘しつつも冷静に「多様な観点」から意見しており、それらの批判をも文春は受け止めて自ら掲載することで「言論というものについて冷静で多様な意見を参考にみんなで考えましょう」というポーズを取っている。

実はそこそこに頭のいい人間こそがこのような戦略に引っ掛かりやすい。「うーん、批判を受けて文春も報道や言論のあり方に問題提起をしているんだな」と思わせることができるのだ。
「元」論破王をよく見てほしい。論理的に正しいことを意固地に認めない政治家などには粘着するが、「いや、本当そこはおっしゃる通りでね、我々はそこを認めなくてはいけない。その一方で私が問題意識持ってるのはね…」なんて言うお行儀のいい相手には追及を緩める。「単純なやつだ」とほくそえんでいることにも気づかずに。
そして半端に頭いい人間を「冷静」にさせれば、自分達への批判をつづけ、「記者の実名を」などと叫び続ける人間を感情的でバカな人間扱いすることができるというわけだ。
「記者の実名を出せ」というのは感情的な人間の「極論」でも何でもない。政治家や有力者を追い落とす「第一の権力」がどのように行使されているか監視するのは大切だ。そして報道の自由なる理念をスポイルしたのは週刊誌自身の振る舞いだ。

いずれにせよ差別主義者を利用していることからもわかるようにこれらは文春の単なる保身、自己防衛だ。女性蔑視だの報道の自由だのという「社会的な問題」に転化させてさも「みんなで考えましょう」なんてお笑いだ。

②ではどのような意味でこれらの「識者」や文春の態度が女性蔑視なのかについて説明したい。






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