反出生主義をラディカルに思考する

反出生主義とは、生きることは苦しみの連続であるゆえ、その苦痛の根本原因である誕生を否定し、この後産まれてくる人の不幸を作らないために出産を否定する考えのことである。
またこの考えは既に産まれて生きている人に自殺を促すものではない。それは自殺もまた苦痛を生むものであり、生きているゆえの苦痛を生じさせないようにするのが反出生主義のそもそもの考え方だからだ。

「自分なんか産まれてこなければよかった」というように、自身の誕生否定をする人がいれば、「生きづらさを抱える人たちをみんなでサポートすべき」とか「生まれてきてよかったと思っている人もいるのにその人たちの想いは?」といった「反論」がなされたり、はたまた学者側からも「幸福と不幸はウェートが違う」などの論が出されているようだ。まだ産まれていない人が幸福になれたかもしれないことよりも不幸が産み落とされることの方を優先して考えなくてはならないということだろう。
また「産むのも産まないのも自由だから人に押し付けるべきではない」なんていう意見もある。

だがこれらはどれもこれもはっきり言って半端な思考だ。
反出生主義を論駁しえない最大の、そしておそらくただ一つの根拠、それは

「産まれてきたくなかったのに」という人にとって、自身の誕生とは産んだ側から一方的に押し付けられたものである

ということではないだろうか。
生きづらさを社会的にサポートするのは良いが、それはバリアフリーや経済的支援、孤独にならないための居場所を与えるといった、社会があらかじめ認める価値基準に照らして生きづらさを薄めるということにすぎない。これらの例では、利便性や財産の有無、仲間の存在で幸福になるということを前提にしている。しかし十分なサポートがあっても「みんな、ありがとう。でも私は産まれてきたくなかった」と言うことはありうる。人の不幸を相対化しすぎだ。
それに幸福を改めて感じるのは、財産や仲間の数量ではなく、その人のベースにある気分だったり、はたまた徹夜で仕事をした日に一息ついて朝焼けを見ながら飲む一杯のうまいコーヒーのような、生活の一場面、ポイントだったりさえもする。その定義は難しいのだ。
「産まれてきてよかった」「産まれてこなければよかった」という話で「社会のサポート」うんぬんがまず出てくるというのが私にははっきり言って驚きだ。

さらにもし完全な幸福という状態になったとしても現状生物としての人間は確実に死ぬ。
今の幸せをすべて失うという究極的な不幸、虚しさを引き受けなくてはならない。
水鳥の親子がいる。彼らも生という苦しみから解放されるべく、出産は否定されるべきだろうか。それとも動物は出産してもいいんじゃないかと考えるのか。
もし後者だとすれば、人間とその他の動物に差を認めていることになるわけだが、その区別の究極の根拠は、

人間だけが、自らが確実に死すべき運命であることを予め知っている

という点にあるだろう。不幸や苦痛で言えば、慢性的に空腹だったり、冬は冷たい水で過ごさなくてはならなかったりと水鳥の方が我々より大変そうだ。ここでも不幸や苦痛を相対的に捉えることは反出生主義の文脈では無効だ。そうではなく、

自意識ある人間はみな死刑囚であるということ

これが本質的であるように思われる。我々は確実な死という究極的な絶望、不安、不幸というものを、他者に押し付けられた誕生という事象によって理不尽にも背負わされている。

ここまでをまとめると、「産まれてきてよかった」という状態を定義したり、他人が操作介入することは困難で、もしできたとしてもそれを全て失う死が待ち受けている。
これらの現実をもってしても「産まれてよかった」と思わせることが反・反出生主義には求められることになる。

思うに、これを行っているのが宗教が提供する物語であったり、一回性の生を肯定させてくれる充足した愛であったりするのであろう。
「百万回生きた猫」は童話でありながら大人こそ泣けるのは、充足した愛こそが一回性の生をも肯定させてくれるのを予期しているからであろう。
便利で快適な生を何回生きようと、どれだけの長さ生きようと、消えゆく運命にありながらこの世に産まれ落ちてくることを肯定するには愛や宗教の物語が必要なのであろう。逆にそれらが実感できないがゆえの反出生主義なのだ。

「産まれてきてよかったと言う人もいる。その人の幸せを反出生主義は奪う」とか「幸福と不幸は足し算引き算するものではない」という論は、最初に述べた押し付けられた誕生の理屈からすると本質的ではない。
反出生主義は不幸を減らそうという発想が根本にあるが、これを幸福を増やそうに転換してもやはり「押し付け誕生」論には対抗できない。

また「産む産まないは互いに押し付けるべきではない」に至っては根本的に反出生主義をわかっていない。
これは産み落とされる側が誕生を押し付けられたという話であって、産むかどうかを押し付けるという話ではないのだ。
第三者が別の第三者を殺すなという意見がありなのと同じで、産み落とされる側に誕生を押し付けてはならないという意味で「産むな」という意見も反出生主義の文脈では許されてしまう。

ここで反出生主義は反社会的な思想なのかということを考えると、私は反社会的だと思う。
目的こそ産まれることを押し付けられることがないようにするという、産まれくる人間への配慮なわけだが、その帰結は人間社会の消去となるからだ。
特に反出生主義の文脈においても、「産む産まないは人それぞれ」なんていう理解しかない人間にとっては反社会性が高い発想ということになりそうだ。

「反出生主義を反社会的と決めつけて議論するのはやめよう」とか「産む産まないは他人に押し付けてはいけない」というなんとなくお行儀のいい意見は、議論という、それ自体社会的な営みが、ダラダラと続いて内部から瓦解するのを防ぐための方便、欺瞞だ。


ここまで、「誕生押し付け論」によって反出生主義を明確に論駁することは困難であることを比較的ラディカルに示した。


そのうえでなお私は、この思想自体が現在生を受けて生きている人間から提示されることに悲しさを感じる。
この悲しさは「親ガチャ」という言葉が出てきたときに「軽いニュアンスなんだろうけど、この言葉、あまり広まらないといいなあ」と思ったのに似ている。
親のエゴによる誕生であれ、その親のスペックなどが他に比べて低かったのであれ、実際その親のもとに産まれ落ちて現実に今生きていることを否定しているように感じて端的に悲しい。
自己肯定感や運命への感度(例えば、自分はだれそれの子供なのだという自覚)など、どの親のもとに産まれ落ちたかで左右される理不尽はたしかにある。でも今まさにそうあるものをそうでなければよかったと言い切ってしまうのは悲しいではないか。

医学部生時代、とある開業医の娘が不適応を起こしていた。「本人も言ってたけど、育ち方根本的に間違えたんだろうな、医学部なんて入っちゃって」と友人にヘラヘラと話した。すると彼は「それでもその子がその親のもとに産まれた意味とか絆は一点たりとも毀損されない」と言い切った。

自分がこの世に生を受けた意味や使命は宗教の物語が与えてくれる。生の終焉を愛に包まれて迎えることでそれを受容できるようにさせてくれる。
同じように、親は反出生主義の考えを知ってもなお子に誕生を押し付ける以上、たった一人の父親、母親としてその子とつながる強くしなやかな運命の物語を紡ぎ、生を力強く肯定できるようにさせてあげることが親としての最低限の責務と言えるのではないだろうか。

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