ミスコンはルッキズムの助長なのか?「助長」という表現の危険性。認められるべき真の多様性の観点を添えて。

※本文中少々辛辣な表現も含まれるのをお許しください。

もうだいぶ浸透してきた大学や地方自治体でのミスコン廃止の流れ。今さら私が正論を言ったところで、なかなか復活には至らないだろうが、それでもやはり廃止派、存続派に欠けている視点を記しておくことは今後の表現の自由への挑戦に対抗するために必要だと考えて論ずることにした。

まず、ミスコン廃止派によればミスコンはルッキズム(外見至上主義)を助長するのだそうだ。AbemaTVの討論番組に出演していたArataさんという方は、身体的なものも含めた外見的魅力は女性が男性よりも求められることが多く、その非対称性を克服していくことが必要なのだと言う。たしかに社会的な要請は非対称的かもしれないが「なんでそれの克服が必要なの?」というかんじだ。ジェンダー史学を専攻なさっているとのことだが、この程度の論で、社会学やフェミニズムなどの専門家でもない芸能人たちに瞬殺されるのがわかりきっていながら恥をかくことを恐れずTV出演をする勇気を称えたい。問題点を質問されると逃げて自分達の正しさだけを独善的、暴力的に主張しつづける活動家とは違う。それにしてももうちょっと議論のできる人を呼ぶべきだった。

Arataさんがおそらく言いそびれたであろう論点を捕捉しておこう。
女性には多くの抑圧が社会的にあり、何らかの被害を訴えてもなお理不尽な扱いを受けることさえある。求められる女性像と外見至上主義が何らかの形で繋がってたり連動してたりするという現実はあるのかもしれない。女性の「かわいい」が従順さや依存性、控えめさをその表象のうちに内包していることがあるのはその一例だろう。
これはアイデンティティーの深い部分にまで達しうるものであり、何をしようとしても「かわいく」いることを強制されれば、自発性や能動性は腰を折られ自分を素直にストレートに定位できなくなる。その矛盾が内にくすぶり、実存的な苦しみを背負うことになる。
ルッキズムを問題視しない人たちが、「見た目なんて例えば足が速いこととか、勉強が得意なことと同列ではないか」というが、そうとは言い切れない。それは現実の社会関係を観察することで、ある序列が許容されるのか非人道的なものとして破棄されるべきなのかは検討されてもよいものなのだ。もし女性の価値が見た目だけなのだとすれば、そこに序列をつけてしまうのはたしかに劣位に置かれた側からしたら屈辱的で尊厳を毀損されたと感じるのもわからなくはない。かけっこがビリだからと言って自身の尊厳が砕け散る人はそう多くはないだろう。ミスコン容認派はこういう論点があることは知っておいてほしい。しかし、こんなことは私ではなく、ミスコン廃止派がきちんと説明して理解を得る努力をすべきなのだが。

内面を見ろという上から目線も謎だ。まず内面とはどのようなものと定義しているのか。厳密に一意的ではなくても構わないから大まかにでも提示してもらいたい。社会的な発信や活動が評価に値すると言う人もいるが、発信力がなくても素晴らしい貢献を社会にしてくれる人はたくさんいる。そんなんでは、ろくに考えもせず皮相的に「外見の反対だから内面」と苦し紛れに言っただけだと誤解されてしまうぞ。文系の学問を極めた方々がそんな薄っぺらいことを言ってるはずはないと信じている。恥ずかしがらずにきちんと提示してほしい。
そして上から目線な人に問いたいのは「評価」というのは誰がするものなのかということだ。ある個人が「自分は女性の価値を外見のみで判断する」と考えるのは少なくともその人の内面にあるうちは絶対的に自由だ。その意見や価値観を表明するのもよほど非人道的なもの以外は自分の判断の仕方にすぎない限りは基本は自由であり、見た目の悪い人を積極的に貶めているのでないならば、個人の思想にいちゃもんをつけるのは失礼なことだ。上から目線の人はそこをわきまえていない。たしかに不快に感じることもあるが、「そんな判断基準のやつとは私は付き合わない」というのも、その人を人として軽蔑するのも今度はこちら側の自由なのだ。「おごりでないならデートしない」という女性がいても「そんな女とデートしない」と言うのも自由であり、単にそれだけの話だ。誰も何も強制されてなどいない。評価の仕方は人それぞれ。評価はこうあるべきだと他人に押し付けるのはどういうつもりなのか。

さて大学や地方自治体がミスコンをやるかどうかなのだが、確かにこれは個人の思想信条とは違う。大学などの実施主体がその価値観を認めることになるからだ。もし女性の価値の一つが外見だという考えが支配的であり、大学などの「顔」を決めるコンテストなので外見の優位性が要求されるとする価値観が世の中に浸透しているとしたら、「だからミスコンはやるべきだ」とも「だからミスコンはやるべきではない」ともどちらとも言える。
どういうことか。「明るく前向きな意味で社会が美しい人を求めているので、社会の構成員たる我が大学ではこの人を『顔』として認めます」とポジティブにグランプリを提示することもできるし、逆に「そんなとんでもない価値観が社会にはびこっているが、うちの大学はそんなものを容認する場ではない」とも言える。またそもそもミスコンは全員参加ではない。出場意志があった人の中での順位づけにすぎず、出場していない人に関しては何も言っていない。もしかしたら屁理屈に聞こえたかもしれないが、そんなことはない。実際「ミスコンに出るやつこそ大したことなくて、あんなものに出ない子の中にガチでかわいい子がいる」という男子も結構いる。同じように、エントリーする女子の質も変わってきているのだが、廃止派はあまりそのような変化に気づいていないのではないか。
テレビや雑誌のモデルを「見る」とき、「見た目」のいい人を求めないというのはむしろ背理、というか倒錯していないか。例えば大学のパンフレットに載る在学生は誰にするのかも同じように考えることがそんなにいけないのか。そういう普通の要求を肯定するかどうかだ。いいものをいいということが、悪いものを直接貶めることになるのかということだ。上野千鶴子さんは「ブス」という言葉がダメなら「美人」という言葉も「論理的に」ダメなのだと言う。たしかに美人という言葉の背後には美人でない女性の存在は想定される。しかしある人を美人というのはその人のことは特定しているが、それ以外の特定の誰かがブスと言われたことになるのか。誰かの尊厳が毀損されるのか。よいものをよいと言うことと、そこでよいと認定されなかったものを貶めるのが論理的に同じだと言うことのおかしさに本気で気づかないならば上野さんは文科系学問は向いていない。人間や人間の営みに論理を適用する条件を検討せずに発言している。人間的営みにおける肯定と否定は、正の実数と負の実数のように0を中心とした対称性のあるものでは必ずしもないのだ。肯定を多めに認めることで、尊厳やら平等のような社会の基本的価値観は担保され、個人も自尊心を維持できたりする。逆に否定的でネガティブな人間の自尊心は危うそうに見えるだろう。適用条件や適用対象を間違えた論理は論理ではないのだ。まあ彼女は戦略家らしいので、論理というワードがものをまともに考えない人を釣るのに役立つと思ったのかもしれないし、反論している私も釣られているのかもしれない。そういうことにしておこう。

別の論点として、女性が例えば「かわいい」に縛られる風潮を「助長」するとか、大学のような公的な団体が既存の社会規範を追認することはその風潮を「強化」「再生産」することになるという論理が展開される。そういう側面はたしかにあるが、それを根拠に個別の団体や個人に暴力的に圧力をかけていいのか。社会全体に警鐘を鳴らすことはしてもよいが、特定の個人や団体に八つ当たりするのは違う。このような暴力をまさに「助長」しているのがこの「助長」「強化」「再生産」という表現の濫用なのであり、これは非常に危険だ。
ドラえもんに登場するスネ夫は強い奴の小判鮫で、弱い奴に対しては強く出るザコキャラで、「こういうやつよくいるよね」と思える。あまりに戯画化されているため、ほとんどの人が自分のことを言われていると考えることなく実在しないスネ夫という人間をバカにすることができる。このように現実の人や団体に圧力をかけなくても人々に「こういうやついるよね」「こんな風潮あるよね」と訴えかける表現行為をすることだってできる。「風刺」というのもそれにあたるだろう。そしてそれを踏まえたり踏まえなかったりしながらそれぞれが、「うちの大学はミスコンをやります」、「うちはやりません」ではいけないのか。

上智大学では、外見だけではなく、社会的活動などいくつかの観点を複合してコンテストを実施しているとのことだ。それならそれでもよいが、それにしてもそれらの観点は総合点を出すようなものなのか。廃止派は外見だけの評価はけしからん、それは多様であるべきだというが、こうは考えられないか。外見のコンテストも発信力のコンテストも社会活動のコンテストも別個に全てやればいいではないか。コンテストは一つしかやってはいけないのか。
以前東大のインカレテニスサークルで、男子は東大、女子は某女子大の学生のみのサークルがあり、東大公認なのになぜ東大女子は入れないんだというクレームがあったらしいが、東大は一つしかテニスサークルを公認できないのか。男女とも東大生のサークルも、女子が東大、男子が他大学のサークルも作ればよいではないか。少しは「多様性」を認めてほしいものだ。本当のところそこにどんな物語に基づいた憤りがあるのかはもちろんわかっている。だが、東大男子が「サークルでは他大の女子と関わりたい」と思うのはそれがどんな理由であれ自由だし、少しでも世界を広げるために他の大学の人と関わりたいと考えているかもしれない。そうでないと言い切る根拠はないだろう。辛辣なことを言って申し訳ないが、なぜ東大女子を入れたくないと思われているのかを考えてみるのも人としての成長につながる。少なくともそのサークルの東大男子に対して「自分より『下』の女子を近くに置きたいだけで、対等な関係を作れない成熟してない男だ」のような侮辱はやめるべきだ。端的に東大男子、他大女子双方に失礼だ。コトはそんな単純ではない。そのような皮相な考えしかできないから入れたくないのだよ。

被害者意識を勝手に増幅させて「東大公認なのに」という屁理屈をつけるのは「大学は税金で運営されているのに、ルッキズムを助長するのか」というのと全く同じだ。そういうのは心理的防衛機制のうちの知性化というやつだ。多種多様なテニスサークルを東大が公認し、超金持ちが税金の補助を受けない私立大学を設立してミスコンをやるなら快く応援してくれるのか。正義や尊厳はそんな位相にはない。
そのような主張をする人たちの本当の願いは何なのか。怒りという防衛感情でもって、悲しみや寂しさ、惨めさや屈辱感、恥などといった真の感情を覆い隠している。別記事にも書いたが、他人の防衛感情というのは長くは付き合いきれないものだ。それに対して真の感情には寄り添おうと思える。つまり無理筋な主張を続けていても一層孤立感が深まるだけなのだ。そもそも「仲間に入れてほしい」という主張なのではなかったか。
アイデンティティーを定位できなかったつらさ、それはなかなかわかってもらえないし、女であるということによる根源的な不平等性もたしかにあるだろう。だが、不平等性は真の意味では帳消しにはできないものだ。そこに憤るのは正当ではある。しかし理不尽への復讐が完璧になされることはない。したがって有り体だが、自分がこれから幸せになる道を模索すべきだ。寄り添おうと思ってもらえさえすれば、攻撃的暴力的になって周りと溝ができることでさらに孤立を深めていくという悪循環に陥るのを防げる。したがって屁理屈で防衛するのではなく、本当の望みを自らに問いかけて周りと関わりなさい。敵対性の享楽は、長い時間をかけて人を夜叉にする。TVでそのような夜叉の顔を見かけることはないか。今、鏡を見てみなさい。そこに夜叉が写っていなければ大丈夫。様々な複雑性や運命の機敏を背負う深みのある人間に必ずなれることを保証しよう。


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