ひろゆきさんと元東大王砂川さん「義務教育で数学は必要か」実況・解説

義務教育で数学が必要かどうかという議題で、必要とする側の元東大王砂川さんと、必要ではないという立場のひろゆきさんが議論を闘わせた。
一応番組の設定上は、砂川さんが議題や立場を決めてひろゆきさんがそれとは反対側の立場から議論するという形らしい。

まず、義務教育で必要というのがどのようなことなのかの定義があいまい、もしくはその内容自体に議論が必要になっている。
これは他のAbemaの討論、例えば「死者の悪口は許されるのか」という議題だったら悪口とは何なのかの定義がないままに話が始まっている。

ひろゆきさんは教育が、生徒の人生に役立つものをやるものだという考えなのだろう。時間が無限にあれば数学でも古文漢文でもやればよいが、時間は有限なので、それよりも契約書の読み方でも教えた方がいいと言う。ここは一見その通りに見える。

砂川さんは数学をやるべき理由を最初に三点あげている。
一つは論理性や情報処理能力が身に付くということ。
私から言わせればこの点だけを押せばよかったのにと思う。
感情論や恣意性、利権を誘導するような不純な思惑は一切なく真偽が決まるのが数学の特筆すべき特徴だ。それどころか数学は現実との整合性さえ求められない。例えば物理学はどんな立派な理論があっても実験事実と食い違えばその理論は破棄される。数学ではそれさえ起こらない。
中学生が論理的な思考訓練として、不純なものや果ては現実さえも考慮に入れずにモノを考える練習をできる題材として、数学をやっていくのは価値がある。
生きる上で役に立つことを学ばせるのが生徒の利益というのは正しいが、モノを考えるベースの能力を涵養するのが義務教育の年代で取り組まれるのは長い目で見れば役に立つのではないだろうか。それは数学の具体的な内容が役に立つからではないのだ。

しかし砂川さんは「日常生活に役立つ」とぽろっと言ってしまっている。役立つというのがベースの思考力の涵養ということならよいが、この文脈ではひろゆきさんのようなもっと即物的な観点であろう。これはまずかった。
その後、数学と論理構造が何でつながる?という問いをひろゆきさんが出してきた。ここはひろゆきさんを切り崩せるチャンスだった。
誰が見ても正しい論理形式だけで数学が構成されていると言い、砂川さんは算数の計算の例を出す。誰も反論できないのはそれが純粋な論理だからだというわけだろう。ここまでは砂川さんが有利で、それに対してひろゆきさんは、「数学の成績悪い人が算数の計算結果を正しく理解できないものなのですか?」と問う。
ここも砂川さんにチャンスだったのに、誰もが反駁できない論理体系が数学であるという論から離れてしまい、コミュニケーションの問題に変えてしまう。
これが最大の失敗だ。
数学の成績が悪い人は算数の計算は理解できるが、あくまで数学の範囲内、例えば「二乗すると2になるような数、つまり√2は整数の比である有理数では表せない無理数である」ということを理解できない、もしくはなぜか説明できない人もいるはずだ。
つまり数学的に論理的な内容を理解できないのだ。そこをはっきり言うべきだったのだ。
というか当たり前だろう。数学苦手な人が数学の論理を理解するのが苦手なんて、ある意味トートロジーだとさえ言える。
国語が苦手な人は、程度の差はあれ固い文章が理解できない。これも当たり前だ。国語が苦手というのはそういうことなのだから。
それを算数の計算は数学できなくてもわかるという方向にもっていかれてしまった。

プログラミングは学校で習っていなくても社会がプログラミングで回っているとのひろゆきさんの見解に対して、こここそまさに砂川さんの論拠の2番目「数学的素養のある人材の育成」が必要だとする意見で切り返すべきだった。プログラムの基礎に数学があるならば、誰かしらがプログラムの発展のために数学的知見をプールしておく必要がある。それが社会の要請だと言えるだろう。

この後ひろゆきさんは契約書を読む能力の話をするのだが、砂川さんはそれを理解する論理性が数学で養われるということを言ってしまうのだが、それは国語で充分だとひろゆきさんに切り返されてしまう。そりゃそうだ、契約書の理解は国語でよいだろう。
そして国語、数学どちらでもよいという話に流れていく。
砂川さんは、生きていく上で契約書理解以外の能力も必要なのだから、それをもって数学不要にはならない、他のことで数学的能力が必要なのだと言うべきだった。

さらに国語と数学なら国語は数学を理解するという意味でも絶対必要で、国語ができなければ問題文さえ理解できないとひろゆきさんは主張する。
砂川さんは「国語できなくて数学できる人はたくさんいる」と言うのだが、これは二人の間で国語ができるということの認識が異なるのだ。
砂川さんが言う、「国語ができる」は入試現代文のような日常的な言葉遣いとは異なる文章を「解読する」ような能力であろう。入試現代文がいわゆる通常の、つまり他教科を理解するのに使うような国語力とは乖離しているという点については、古文漢文不要論についての別記事で書いた。
つまりここでの二人の国語力の理解に食い違いがあるわけで、そこも双方指摘しなかった。
砂川さんは「国語ができる」と「日本語が読めるは別」ということを言ってしまい、ひろゆきさんに突っ込まれることになる。国語力が指すもの、もしくは運用能力のレベルが違うと言えばよかったのだ。

国語も必要だけど、数学も必要と砂川さんが苦し紛れに言うのに対して、国語で論理を扱う能力が養えるならなら数学を勉強する必要はないとひろゆきさんに追い込まれてしまう。そして数学が役に立つ例を考える。日常生活で、契約書読むことよりも大事なことで数学が必要な場面はなかなかないだろう。無理がある。

モノを考える能力を養うというとき、そもそも「考える」ということが国語においてと数学においてとで違うのだ。
国語では、意見や価値判断について、論理も大事ではあるが、論理のルールに厳密に従うことよりも、例えば「どのような社会が理想か」というようなことを考えるのに多様な観点が導入されて構わない。むしろそれこそが考えるということだ。
それに対して数学は恣意性や価値判断、感情、何がトクかなどを一切排して論理の形式から導かれるものだけを数学的に正しいと認める。そのような明晰な思考形式、これこそが数学なのだ。
つまり目指している思考が違うのだ。それらを発達段階に応じてバランスよく適切に能力開花させてあげるのが義務教育なのであり、国語も数学もどっちもやっていくべきだ。
どれが儲かるか、どうすれば騙されないかとかどう振る舞うのが権力を得られるかなどもたしかに生きる知恵ではあるが、それらと基礎的な思考能力の養成とで、どちらが義務教育にふさわしいのかを考えていくべきだろう。

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