リハック文春総局長の詭弁と西田亮介さんの間違い

YouTubeチャンネルReHacQで元日経新聞記者の後藤達也さんと高橋プロデューサーが文春新谷総局長を迎えて最近の文春問題に切り込んだ。


私が以前から言っているように、権力者や著名人を追い落とす力を週刊誌をはじめとしたメディアはもっているのであり、マスコミは第四の権力ではなく第一の権力だとも言える。

新谷局長は自身をそのような力を持つ公人に準じた立場として、顔や名前を出して批判を受けたり、自身の不祥事などを報じられることも覚悟しているとのことだった。

そして自身のスタンスや考えを自分のメディアではなく、アウェイの場で伝えることができるのはいい機会であるとのことだった。


まず、記者が顔を出すべきとする意見についてだ。

記者は顔を出すことが責任の取り方ではないと新谷局長は言うのだが、だとすればどうすることが責任を取ることなのか。

本来一番簡単なのは間違えたときには素直に認め、スクープしたときと同じ熱量をもってきちんと誤報であることを自らもしくはマスコミどうしが批判し合う形で周知されること、そして損害が出たのであればそれがきちんと賠償されること。「書き得っていうほど儲かってない」とかそれはどうでもいいことだ。

そこまでなされればまだ納得はいく。そのような間違えたときの責任なくして、「記者の顔名前を晒せというのは乱暴だ」というのはそれこそ順序が違う。まずは責任の取り方をきちんと明示して実行すべきであって、悪いことをしても責任を取らなくてよいシステムならばそんな媒体は存在しなくてよい。

この点についてReHacQに出演もしている西田亮介さんは次のような見解を示している。


卑怯云々はメディアやジャーナリズムの歴史をまったく踏まえておらずナンセンス。公人や社会的、経済的、政治的に大きな影響力を持つ個人や組織に雑誌編集部や記者が継続的に対峙するというとき、記者や編集部の安全についての想像力が必要。そして何より日本のネットは匿名や顔出しせずに使っている人が多数では? 「先ず隗より始めよ」ということで、コメント欄等で吹き上がっている人たちから実名でネットを使ってみればよいのではないか。


普段は西田さんの視点に頷ける点も大変多いが、これに関してははっきり言って「大衆は無教養で感情的」と言っているだけのレベルであり、きちんとコトの本質を思考できていない。

ここからは少々理屈っぽい西田さんへの批判となる。大切な話なのだが、少し長いのでもし興味のない人は、 (戻る)  まで読み飛ばしてほしい。



たしかに政治家などの強い人間に立ち向かうときに書き手の安全は大切だ。

表現の自由や報道の自由が尊重されるに至った経緯も知っている必要はあるだろう。


社会の様々な失敗や悲劇から「今度はこうしよう」というように反省し、そこから得た教訓も無数にある中で、予選や決勝を勝ち残ってきて、今なお重要な大原則として報道の自由などの基本理念が打ち立てられてきた。学校でさえ教わる理念は超重要なものでそれを尊重する必要はある。


匿名だからこそ巨悪に立ち向かうことができることはたしかにあるし、名前を知られた個人だと容易に潰されたり、買収されて一方的な記事を書かされる恐れもある。また内部告発や性被害などのように、匿名である必要があったり匿名がふさわしい場合というのもある。


そして報道の自由が阻害されれば、国民が決定を誤り大損害を受けること、また一度表現の自由が萎縮してしまえば回復は難しい性質のものであることなども知っておくべきだろう。

「ジャーナリズムの歴史を学べ」とは以上のようなことだろう。


他にも「疑わしきは罰せず」とか「政教分離」とかも大切な原則とされている。

だがこれらも元々は所詮具体的な出来事の積み重ねから抽出されたものだ。物理法則のような神が与えた唯一絶対の原理ではない。


例えば「疑わしきは罰せず」に関して言えば、社会学者の宮台真司さんはこんな話をしている。


「疑わしきは罰せず」なのか「疑わしきは罰する」なのかは「国家が怖い」と考えるのか「犯罪者(国民の一部)が怖い」と考えるかに対応する。例えば「国家こそ信用ならん」と考えるのがアメリカ的無意識で、「お上はだいたい信用できる。警察が言うならまあ犯人でしょ」となるのが日本的無意識なのだ。


私個人は「疑わしきは罰せず」であるべきだと考えるが、いかにも何かやらかしそうな輩がウロウロしてるような環境で、パトロールしてるお巡りさんはいい人そうだとしたら「お上がでっち上げするはずない。それより輩が怖いからとりあえず疑わしいだけでも排除しちゃってよ」という心情もあり得なくはないだろう。

何が言いたいかというと、金科玉条なんてものはなく、どんな社会的テーゼも状況や条件次第なのだ。

もちろん予選決勝を経ているものを簡単には捨ててはいけないのだが。


ではジャーナリズムについて話を戻すとどうなるのか。

松本さんやサッカー伊東選手がファクトレベルで白である場合にはまさに今重大な人権侵害が現在進行中であり、そんなことをなくすための責任の取り方として、まずは「間違いを認める」、その次に「損害を賠償する」これらが現状なされない中で、「では次に責任を取らせる方法は?」という問いの中で出てきているのが「記者も顔を出せ」というものなのだ。つまりこれはほぼ何の補償もなされない中で現在進行中の人権侵害を止めさせるための解決策を提示しているのであり、今この瞬間も人権侵害を止めるべくみんなで考えている歴史の1ページなのだ。

つまり国家権力を監視するジャーナリズムのふりをするメディアの報道の自由なんかよりも個々の著名人の人権侵害を人々が重要視しているという状況になってきているのだ。それに今は情報の発信も受信も環境が変わっている。アベやキシダなんかよりもある意味文春が恐ろしいという状況なのかもしれず、他にもたくさんの情報ツールがある中で文春が生き残る意義は特になく、松本さんたちの人権侵害を何とかすべきという正義感情が定立されつつあるのではないだろうか。


それを踏まえてもなお「ジャーナリズムの歴史を全く知らない」という言い方をするのであれば「芸人が芸能界追放される程度のことは独裁国家での情報統制やそのもとでの人権侵害に比べれば軽い」と思っていることになるであろう。

たしかにそこは程度問題でもあるのでどっちが絶対に大事だとまでは言わないが、そこは互いに謙虚であるべきであろう。文春の記事とそれを拡散させる力が組み合わさっているとはいえ、いずれにせよ看過できない人権侵害が、偶発的にではなく構造的に繰り返されているということに対して「歴史知らなさすぎ」という発言はどうかと思う。


現実を見ずに一つの原則だけを金科玉条のごとく扱って相対化せずに思考を停止させるのは歴史から学ぶということの負の側面だと言えよう。


さて後半の、「ネット民も自分の名前を出して意見してみろ」については完全な間違いだ。

これについては既に2024年2月4日に記事を書いた。


まず週刊誌と一般ネット民は全く異なる。例えば私が実名顔出しで「松本人志は性犯罪者だ」と言ったところで、松本さんは休業に追い込まれただろうか。

拡散力や影響力という点がまず違う。文春は一定の評価や知名度をもつ報道機関だ。まさに権力者、強者なのだ。その横暴さを縛るために記者も実名をと言っているわけで強大な国家権力による横暴を防ぐための憲法の理念と全く同じではないか。

まがりなりにも報道記者として記事を書く人間は、記事の裏取りの仕方、記事の誤解ない書き方、取材対象との接触の仕方、それらについての職業倫理などを叩き込まれた上で記事を書く。だからこそプロの仕事として記事を売り物とすることができ、報酬を得ることができる。そしてそこにそれなりの信頼がある。

影響力もなければ、収益を得ることもない一般人が実名顔出しをしなくてはフェアではないなんて理屈の方がおかしい。別にブーメランでも何でもない。




たしかに記者の実名をもとに例えば住所を晒したりすればプライバシー権の侵害だし、家族への嫌がらせや誹謗中傷などは誰がやろうが問題だ。だが逆に、その記者が誰から金をもらっているとかどんな連中と付き合っているかとかは報道されてもいいのではないか。なぜなら記事内容がそのようなことから影響を受けている可能性もあるからそれらは公益に資する情報だからだ。記者名が出ていればそのような検証もしやすいのは言うまでもない。

顔が割れると現場記者は張り込みなどの取材がやりにくくなるという新谷局長の発言は一定の説得力はあるが、「イチ現場記者にそこまでさせる必要はない」というのは安易には断定できない。



しかもネット民は匿名と言うが、名誉毀損など一線を越えればログ開示などされる可能性はあり、決して完全匿名ではない。そして民事などでそれなりの責任を取らされる。むしろ週刊誌こそ報道の自由を笠に着て、書き得と言われる無責任状態で出版活動をしている。

せいぜい数百人、数千人が見ているSNSの書き込みでさえ数十万円賠償させられるのに、何千万人が知ることになる週刊誌報道での賠償がせいぜい数百万円というのもおかしい。


それにしてもそもそもなぜ一般人は実名を出すわけにはいかない人がほとんどなのだろうか。


単なる誹謗中傷の域にある発言はたしかに実名で出しにくいだろう。しかし発信内容が真っ当な批判であったとしても例えば政治的、宗教的な思想などと同様に会社や取引先などに知らせるのはふさわしくないというのが常識だからというにすぎないのではないだろうか。


簡単に言えば、業務に関係ない考えを表だって知られることが一般的な社会人にはそもそもふさわしくないとされているというだけだ。主張内容の妥当性とか発信内容への責任とは関係ない。

逆に、松本さんの女の好みや性癖を面白おかしく記事にする活動を、場にふさわしい業務として、文春内では恥ずかしげもなくしているわけだ。それはそういうことをやるのが業務の会社だからだ。

それに他人の性癖を面白おかしく拡散するという活動をちゃんとした会社員がすれば許されないのに、週刊誌内部では許されると言うならば、それは週刊誌が非常識で反社会的な空間だということを証拠立てている。

「記者は顔出せ」よりも「ネット民こそ顔出せ」の方が実は感情的な意見なのだ。この程度は西田さんほどの方なら気付いてもよさそうだ。今回のようなテーマはたしかに教養レベルが多様な人が意見しているが、バカにしすぎだ。大衆の表面的な粗暴さや論理の荒らさに目が奪われ、決めつけに走ってしまっている。

中学校の社会科の知識レベルの注意喚起もたしかに大切だが、その程度で立ち止まるなら「有識者」はいらない。

西田さんなりの正義感や問題意識は普段から感じるし、行動力もあるのだから、もう少し深くモノを考えるように訓練してほしい。西田さんなら絶対できるはずだ。




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先ほども述べたように「記者の安全を」というなら順序としてまずは責任をきちんと取る方法を示すことが必須だ。それさえしない反社会的メディアはつぶれてもよいという考えは単なる感情論ではない。


新谷局長の発言に戻ろう。週刊誌のもつ力について大衆の受け止め方の問題とかは開き直りだ。「下世話な話題に結局はみんな興味がある」とか、「ネット民も無責任に拡散させてる」とかは、大衆がそのような存在だと知っててやっているのだから傷ついていいと言っていることになる。


しかも松本さんの件では証拠がないのは認めている。結局正しいかどうかさえどうでもよいのだろう。やってもいない人間に「一太刀浴びせる」のならただのテロリストだ。

「たかが週刊誌の言うことなんて聞き流せばいいのに」という考えらしいが、実際仕事を失っている人がたくさんいるし、大衆のどうしようもなさは不変だ。そのことを含んだビジネスモデルなのだから、受け手の問題にすることで自分達のやってることを正当化するのに大衆を使うのは不誠実だ。「週刊誌は便所の落書きレベル」で「メディアの中でも最下層」とかこれまた詭弁だ。


「27時間で答えろというのは乱暴だ」という点については吉本は「回答がなかった」と書いてくれと連絡してきたとのことだ。続報でも同じ対応だったらしくそれが本当ならば吉本の対応も悪いかもしれない。ただ、回答してもムダという判断だったかもしれずそこは不明だ。

しかし27時間で返信がなければ「期限までに回答はなかった」と書くというやり方がどうなのかについて新谷局長は答えていない。これでは吉本も悪いし文春も悪いというだけだ。

新谷局長の答え方は終始これだ。直接問題に対して答えずに最後の方に「批判を受け止めて変わるべきところは変わっていかなきゃいけない」のようなきれいな言葉で締めくくるので、まともに答えたかのように見える。まあそこは実質新谷局長も認めたということなのだろう。



疑惑が報じられると疑いの段階で仕事を失うことについて、高橋さんや後藤さんは文春が強くて松本さんら報じられる側が弱いという話をしてるのに、被害女性が弱者でありそちらに寄り添うというようにこれまたずらして返答する。

広末さん不倫報道ではラブレターまで晒された。広末さんの子供を傷つけたことについての質問にも「難しい問題ですね」で片付けている。


新谷局長は自分が傷つけた人、しかも完全な無辜の子供についてであっても人を傷つけることに対して一貫して何も言及していない。

弱い人の味方でなければこの仕事の意味はないとか立派なことを信念ありそうに言うのだが、「国家権力や芸能界の有力者が強者で、被害の声をあげた人が弱者。その弱者と連帯しているのがメディア」というストーリーに酔っている。これは西田さんも同じだ。そのストーリーが不動だと決めつけているからこそ松本さんへの人権侵害の重大性に目を向けることができていないのだ。

西田さんは素朴にそれを信じていて、新谷局長はわざとやっているという違いはあるのだろうが。

長々それっぽいことを話してその先に答えがあるように見せかけて煙にまくというパターンがここでも繰り返されている。



後藤さんが公人性とは何なのかを質問するが、定義などなく、大衆が面白がるかどうかだということらしい。これに関しては名前が知れているということ自体に力があるので一理あるのかもしれない。有名というだけで選挙に出たとき有利だったり広告に使ってもらえたりするからだ。

その意味では週刊誌に載ったことが話題になるような人物を報じるというのはアリと言えばアリなのかもしれない。


以前田中眞紀子の娘さんの私生活の記事が出版差し止めの仮処分となり、その後高裁でひっくり返るということがあった。娘さんは政治に関わっていないのに、公人にあたるのかについて文春は「政治家は世襲が多い」から報じるべきとの主張をしたようだ。

これは私は問題だと考える。娘さんが立候補したら報じるべきだが、もしかしたら「こんなことがあるから政治なんかに関わりたくない」と思っている人である可能性もある。明確に生まれによる差別だ。

もし報じる正当性があるとすれば、それは「田中眞紀子がこんな子育てをした」というように田中眞紀子が主語である場合に限られるだろう。


某有名人が、文春の有力な立場にある人の娘さんが就職において公正ではない形で入社したという話をつかんでいるということだ。新谷局長の理屈では公人性のある文春有力者が自らの社会的影響力を用いて娘の就職で便宜を図らせた可能性があるから、報じられる必要があることになる。これを認めなくてはならないし、新谷局長の息子さんたちについても同じだ。これだけペンの暴力に有力者が怯える中で「自分の子供を就職させろ」と力をかけることなんて簡単だろう。みんなも関心があるようだし、きちんと取材、報道する必要がある。



権力の強大さに立ち向かうのに一定の影響力ある人の私生活はプライバシー侵害であるとしても広めに報道の自由をとるのが原則論だろうが、公益性のない下世話なネタもあることは新谷局長は認めている。そこはこれから変えていくとしている。

松本さんのように報じられる側が弱者で文春が強者になっている。実際に松本さんは仕事を失ってるのだから。文春が強いということは新谷局長は自覚しているとのことだ。



他のメディアと違って文春はスクープを頑張っているという話も出るが、本当に誇りがあるなら間違いも認めるべきだろう。性加害の話を女遊びのやり方にすり替えたり見苦しい。軌道修正するという勇気ももつべきだ。


三浦瑠璃さんによる「記事は誰が弱者で誰が強者かなどの構図が最初から一貫して決まっている」という指摘に対しては番組を通して新谷局長は一度もまともに答えなかった。

「松本さんは芸能界の強者で、被害女性は芸能界にこれから入ろうとする弱い立場」とか、女遊びにしても「後輩芸人に女を調達させる構図、システム」なるものがあり、その構図を無理にでもつづける。報じたい構図に反する事実が出てきても構図の維持だけを図る姿勢が捏造も産むことになる。検察による冤罪と同じだ。新谷局長はそこには無関心なようだ。


また文春批判者を松本さんの信者扱いして、トランプ信者やアベ信者と同じ非理性的存在だとするが、そうではないちゃんとした批判はいくらでもある。一部のノイジーなバカを持ち出して、自分達への批判者を信者扱いすることこそ、メディア人によくある自分の非を認めない厚かましさが表れている典型だ。

またこの発言には権力への深い「思い入れ」が見てとれる。この点は後で述べる。


また細かい点なのだが、高橋プロデューサーが「性被害を受けた経験がある人は応援しているところもある」と発言している。だが、いくら被害経験があっても性加害してない人を追及しろと言っているなら相当危険な存在だ。それを煽るのは悪質な煽動であり、一部の活動家同様犯罪レベルだ。



新谷局長から「裁判は真実を必ずしも反映しない」という話が出た。取材源の秘匿などもあって、真実とわかっていても裁判での敗けを認める、そういうことも飲み込んでいるということだ。この部分はたしかに新谷局長が正しい。

しかし、どのような様態での敗北なのかきちんとわかりやすく説明することこそ、まさにメディアの役割なのであり、ましてや自身の媒体でいくらでも言い訳できる状況で、なぜ先回りして逃げを打つのかわからない。「今回のこの裁判ではこの部分が明確ではないために敗訴になったにすぎません」のように説明できるのだ。松本さんはまだしも大して著名でない人が裁判敗訴とだけ報じられれば、そんな言い訳さえできないことだろう。

たしかに一般の人は例えば松本さん勝訴なら「性加害はなかった」、敗訴ならば「性加害はあった」のように荒く理解してしまうだろうが、そこを噛み砕いて丁寧に判決文の内容を教えてくれるのがメディアの役割だろうに。

それに現実問題として、証人などが出廷しないならば、独りよがりで「本当は真実だもん」というだけで、結局誰も検証できないわけで、そこは何とも言えないという状況に変わりはない。



最後の新谷局長の発言「表では立派なこと言ってる人間が裏ではこんなことしてますという人間のおもしろみを週刊誌は描いている。人間を断罪し切り捨てるものではない」のくだりはまったくもって賛成だ。

だが受け手が変わってきて不倫を本気で袋叩きにして仕事を失わせる世の中なのだから「人間臭さを楽しもう」はもう通用しない。

しかも第何段と執拗にやっていて断罪してるではないか。「みなさんの拡散のせいで思ったよりも忘れられるまでの時間が延びている」というのも詭弁だとわかる。



(都合により削除)




松本さんご本人だけではなく、松本さんを見れなくなってる我々もこの問題の被害者であり、「実効性」ある形で糺していく必要がある。



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