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『NANA』タクミがレイラを「失った」瞬間

矢沢あい作『NANA』は連載開始から23年が過ぎました。2009年で連載はストップしているものの、未だ根強いファンが多く、続きを期待する声もあります。また連載開始当時生まれた世代の人たちも手にとって読むなど多くの人たちに愛されている作品です。

タクミは人生いつでもモテてるのが当然という男。ナオキの目撃談では、会うたびに違う女を連れていたとか。
そんなタクミにレイラはずっと恋心を抱いていて、タクミももちろんそのことに気付いています。

レイラは帰国子女としてタクミの住む街に小学生のとき移り住んできます。日本語がおぼつかないレイラは案の定いなか町でいじめられます。
レイラをいじめたやつらをぶちのめし、教師に怒られますが、「うちには理由もなく殴る大人がいるのに」と不満に思います。
アル中の父親への本気での怒りへとは昇華しきれない、不条理に対する気だるさがタクミを取り巻く空気感なのです。
「怒り」とか「憎しみ」といった形ある名前のある感情というよりも、「この世なんてクソ」といわんばかりに暴れていた中学時代や、「親父なんていればいいってもんじゃない。いてもおれみたいになる」というセリフに示されるように、厭世感や自身への苛立ち、「自分も、そして自分を覆う世界もすべてしょうもない」というような形なき「気分」を生きているのです。
大人になって変わったところと言えば、思春期には何に苛立っているのかが漠然としていたものが、ある程度自分の中で像を結んできたということでしょうか。それでも気分そのものは変わっていないのです。
そんな「しょうもなさ」という重しを背負う人間はその対極にある「聖域」や「特異点」として「汚されない領域」を理想化した形で置こうとするのかもしれません。
仕事への徹底ぶりは強迫的とも言えましょう。完璧で濁りや曇りのない完成度を目指していて、仕事はタクミにとって特別な思い入れがあるものです。

そしてもう一つの聖域こそがレイラという存在です。
自分にホイホイついてくる女なんて汚ならしい自分の欲望の対象物にすぎません。
「窓ガラス割るタクミがカッコいい」というような萎えることを言う女や退屈な女に辟易し、逆に生徒会役員をやってる賢くていいかんじにエロい先輩は、卒業と同時にやたらあっさりと自分のもとを去っていく。
タクミにとっては性愛関係という舞台もまた実りなきしょうもないものなのかもしれません。
そんな自身の性愛の現場にタクミはレイラを招き入れません。レイラを自分の汚い欲望の対象にしたくない。特別な存在でいてほしい、ある種の理想化された存在なのです。
このくだらなくてしょうもない現実界と、特別で理想化された世界の二世界論。このクソな世界の彼岸(はるか遠くのあちら側)にある特別な対象の世界。

とは言えレイラも現実世界の存在。それがどのようにして理想化されたのでしょう。
それは最初にタクミがレイラに会ったとき、
「はじめまして、芹沢レイラです」と自己紹介され「歌うように話す女だと思った」という言葉に表れているように思います。
この瞬間にタクミの中で何か「決意」のようなものが生まれた。
このときタクミも小学生。子供にとって学校と家庭がほぼ世界のすべて。呑んだくれ親父のせいで家庭は灰色。頭のいいタクミはそんな世界を高い意識レベルで捉えることができてしまっているのです。ゆえに世界に疲れているタクミ。
そんなとき歌うように話す愛くるしいレイラが目の前に現れます。
幼なじみとして言葉を教えあったり、束の間の二人だけの閉じた時間を過ごします。
形は違えど、周囲への違和感や疎外感を共有しての閉じた空間は、いくばくか以上の甘美さを伴っていたことでしょう。

しかし思春期に入ってもスキンシップを続けるレイラをタクミはたしなめます。「自分の汚い欲望がレイラの体内に入るなんておぞましい」と思っているわけです。
それでもそんなレイラの「わかってなさ」もまたタクミを癒していたのではないでしょうか。

女を惹き付けるコミュニケーションができること、仕事を成功に導けること、そして自分が育った世界のしょうもなさを捉えていること、これらは言い換えればモノを「わかっている」ということ。
何でも「わかる」ことはイラつくし疲れる。ゆえに「わかっていない」レイラにある種の癒しや救いを与えられていた。
少なくともタクミが抱える疲れは、媚びへつらってもらうことでは癒されません。「わかってなさ」のようなある種の天然さ、俺様なタクミを従わせるようなある種カリスマ性があるわがままさこそがレイラをタクミにとって特別な存在とさせているのです。
そしてそんな存在を必要とするタクミは単なるがさつな強者ではないのでしょう。

レイラがヤスやシンと親密になってもタクミはレイラを妹のように見守ります。レイラを厄介なことに巻き込ませないために年若いシンを試すことまでしています。(ライターの製造番号のエピソード)
仕事が関わっているとは言え、ただならぬものを感じます。

単なるがさつな強者ではないタクミは、レイラがたまたま目の前に現れたことで二世界論に至ったのでしょうか。それともタクミの精神にはレイラをそのような存在として受けとめる「器」が予め備わっていたのでしょうか。
私は後者だと思います。
哲学っぽく言うと、経験だけが束となって知を形作るとする「経験論」と、数学のように誰もが同じ結論にたどり着く思考の枠組み、理性という「器」が生まれながらにあるとする「合理論」のどちらとも異なる、あるいはそれらの中間にあるのかもしれません。

交際経験がないのに音楽などの表現に甘美な「恋愛っぽさ」を感じてみたり、経験していないことに「懐かしさ」のようなものをみなさんも感じたことがあると思います。それに似ているかもしれません。
「器」は予め用意されている。経験こそしていないけれど、生まれながらに備わっているのでもないものとして。

歌うように話す愛くるしい女との思春期前から思春期までの時間。これは飽きたら替えがきく女たちとは違って、閉ざされた甘美さが添えられた一回性の記憶なのです。


レイラが不安定になっているとき、あろうことかレンがタクミに「レイラを愛してやれ」と唆します。
タクミの節操のなさは周囲の誰もが認めることでしょう。行き当たりばったりの衝動性はハチとの関係でも発揮されたのでした。
でもクズな人間だからこそ、表現においては完璧な誠実さで向き合う、そういうことってよくあることではないかと思います。
それでもタクミは「妹みたいな存在のレイラにそんなことできるか」と最初は突っぱねます。

「みなさん、ピンクのカラスを想像しないでください」と言われると、ピンクのカラスを想像してしまいますよね。
レンに唆されたことで、タクミも最初は否定していた「レイラを愛する」という像が自分の中でどんどん増幅したのかもしれません。ついにタクミはレイラと一線を越えてしまいます。

これによってタクミは一体何を失ったのでしょうか。
理想主義、万能感、そしてそれらも含めてタクミのナルシズムとも結び付いていたのかもしれない。
「そのような喪失を経て人はまた一歩成長していく」とまともな人は言うかもしれない。
それでも「いや、でも」と言いたくなる自分がいるのです。

胎児はお母さんのお腹の中で、温かい羊水に満たされ絶対的に守られている安心感があり、自身が産まれるということそのものが、その安心感から追い出される「外傷体験」なのだと精神分析の一部では言われています。
思春期前の甘美な思い出のまゆから追放されたタクミはどんな傷を負い、何を失ったのかと考えずにはいられないのです。

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