メディアが「真実相当性」で安易に免責されるのはおかしい理由

名誉毀損裁判で、メディアなどの情報発信者はもしも報道内容が真実ではなかったとしても真実だと信じるに足る相当の理由や根拠があれば免責になるとされる。
公共性や公益性がある情報を、ある程度の取材のもとに報道することを許すのに役立っているわけだ。
報道の自由の崇高な理念を作動させるのに、100%ガチガチに真実と確定したものだけしか報道が許されないとするならば、有益な情報を出すことに萎縮してしまい、全体の利益を害するということだ。
つまり「結果的に真実じゃなかったけど、そう信じるのも仕方ないくらい取材したから仕方ない。そこまで厳しくしちゃうといい情報もお蔵入りになっちゃうからね」ということだ。

しかし昨今の週刊誌報道はあまりにも勇み足だった可能性などが指摘されるものもあるし、そもそも公益性がある情報なのか不明なものや単にイメージを貶めるだけのものも多々ある。
理念をスポイルする週刊誌の振る舞いが問題視されているのだ。

書き得という議論もあるように、「勇み足だったけど、そこそこ取材はしたよ」なんて居直りは許されるのか。
確かに真剣に公益性のある情報を追いかけてたまたまガセだったことがわかったなら報道の自由の大切さに鑑みて許されるかもしれないが、仮にそうだとしても実はこれは報道機関としては恥ずかしいことだと思う。
なぜなら、報道内容が「真実ではなかったけど、信じちゃうのも無理はない」というときの「真実ではなかった」というのは実は「真実ではないと『判明した』」ということだ。さもなければ誰が何の根拠で真実ではなかったと言うのか。それは報道主体とは別の取材や調査によって真実でないことが「判明した」のである。
これはつまり別の取材主体よりも名誉毀損した側の取材能力が低いということを意味するのではないか。
厳密には真実というのは裁判終結時点までに判明した内容で、真実相当性は名誉毀損行為時点までに判明している内容というように時間差の概念らしい。その間に判明した事実から真実とされるものが入れ替わることがあるから真実と真実相当性は食い違うわけだ。
とはいえ裁判終結時点までにというのは当然名誉毀損行為時点も含まれるわけで、その時点で別の人が真実ではない証拠を握っていたとすれば、報道機関の取材力としては相当恥ずかしいのは言うまでもないし、そのあとの時点だとしてもやはり恥ずかしい。さもなければ「わざと」やっていることになる。

仮に名誉毀損では免責されたとしても、単なる個人ではない報道を生業とする機関が取材能力の低さを露呈したことになる。

以前、橋下徹さんが大阪市長時代にMBSの記者とやり合う動画が有名になった。橋下さん完勝であったが、実は橋下さんも細かい点で間違っていたことがマスコミ媒体のネット記事に書かれていた。その記事の中では、マスコミの方ではない人がブログで橋下さんの間違いを指摘しているとのことだった。
「ほら見ろ、橋下も勝ち誇ってるけど間違ってるじゃん」という内容の記事だ。
私は唖然とした。橋下さんにいちゃもんをつけようと必死のメディアは自分達では橋下さんの間違いを見つけることができず、メディアの人ではない特に粘着質なわけでもなさそうな一般の方が指摘しているのを嬉々として報じているわけだ。つまり自分達の取材や調査能力のなさを自ら暴露していることさえも気づいていないのだ。

有力な人がたくさん人権侵害されている現状で、まさか「一生懸命調べたんだけど、間違えちゃいました~」なんてことをやる報道機関はないと信じたいし、もはやそんなものを連発するなら報道機関とは言えないだろう。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?