高校入試出願ミス問題。本当に悪いのは誰なのか。無責任社会の背後にあるもの。

福岡県内の私立中学の教員が、生徒の高校入試の出願期日を間違えたために生徒3人が希望する公立高校を受験できなかったことがわかった。
教員が今回の願書を高校に持ち込んだのは、締め切りの2月16日正午から2時間遅れの午後2時すぎだったとのことだ。

自分の責任ではないことで希望の高校を受けられないなんてとんでもないことであり、ミスした教員が悪いのは言うまでもない。

出願先の高校は「もう締め切りました」と伝えて、教員もそこでミスに気づいたようだ。
中学の校長が高校に掛け合ったがそれでも認められず、後に出した高校側のコメントでも「公平、公正を期すために認めることはできない」とのことだ。
教育委員会も「特別な対応はしない」とコメントしている。

今回出願先高校も教育委員会も「形式的には」間違ってはいないだろう。
出願締め切り日時も出願方法も明記されている。その上で公平に試験を実施して合格者を決める。その枠に入らないことをするのは公平性を欠く。
そのため、あとは中学と被害生徒の間での補償の問題となる。

しかしこれが本当に正義なのだろうか。
高校が融通を効かせるべきという意見もある。
「先生、本当は12時までですよ」
「あ、すいません」
たったこれだけで済んでいた可能性もある。
教育委員会も「今回は生徒は悪くないので特例ってことで」ではダメだったのか。

なんでこの程度の融通は効かせられないのか。
それは「平等じゃないじゃないか」という一部批判から自身を防御できないと考えたからではないだろうか。
とりあえず「形式的」平等を守れば文句は言われない。「融通効かせろ」という文句を言う人はいるだろうが「公平を期すためです」と自身の一応の正当性は示せる。
つまり高校も教育委員会も「保身」に走ったことになる。正しい振る舞いなのであれば別に保身であっても何も悪いことではない。

しかしその結果として生徒が希望した高校を受けられないというとんでもない事態を解消できていないのも現実だ。そして高校も教育委員会ももちろん教育機関だ。

高校は確かに悪くない。しかし、コメントにある公平は「形式的に」保てたとしても「公正」ということについてはどうだろうか。本当にそこは考えたのだろうか。「公平、公正」とひとまとめに使っているが、とりあえず綺麗事っぽく使えるワードを並べただけで2つの単語を区別をしているようには見えない。
「ルールを守る」「みんな平等」これらも確かに教育として大切なことだ。それ自体大事だという考えも確かにあるだろう。しかし目的論を欠いている。
今回臨機応変に対応したとして不利益を受けるのは誰で、どのような内容がありうるだろうか。
まずは他の受験者がこの「不公平な」願書の受理のせいで不合格になることがある。今回被害を受けた3人の生徒よりも点数や評価が低かった場合だ。
あとは出願状況を知りうるのであれば、みんなが出願を終えて倍率などを見計らってから自分が受験校を決めることができるので、「後出し」した側が有利になると一応は言える。

今回「平等」にしないことによる不利益とはこの程度のものではないだろうか。
どちらにしても不満を言えるのは、「不平等な受理」のせいで不合格になることになる「下からせいぜい3人の合格者」だけだ。
その人たちの利益と、教育主体たる中学のせいで出願できなかった人たちの利益のどちらを守るのか、どちらの不満を聴くに値するものとして重視するのかということが問題となる。
その判断は私が出すものではなく、まさしく「常識」なのではないだろうか。
保身をさせた圧力とは、とりあえず形式的公平だけを守らせるようなクレイジークレーマー的な圧力と、その圧力に巻き込まれるとどうにもならないゆえの無責任体質だろう。いや、もしかしたらクレイジークレーマー的メンタリティーをもつ人間が高校や教育委員会にもいた可能性だってある。
「受理しないのが形式的平等に鑑みた正義だ」と。
いづれにせよ、この無責任体質とはある種の学習性無気力のようなものだ。いくらまっとうなことを言っても、「ルールを破ってる」といつまでも言ってくる。これまたバランスを欠いた独善的マスコミに執拗に追い回されたりで、常識もへったくれもあったものではないのだろう。
「常識的な対応なんてしてもムダだから中身のある関わり方はしないでおこう。今回の子供たちには悪いけどこっちは自分たちの保身でいこう。あとは明らかなミスをした中学と賠償とかのやりとりはしてください」そんな考えが通ってしまったのだろう。

数年前にはこれも公立高校入試で、試験中に机上に出してはいけないコンパスを置いていたということで複数人が失格になったということがあった。
許される持ち物の注意事項はきちんと記載されているし、机上に置かないようにとのアナウンスもあったとのことが、その前の社会の試験時間中にもコンパスは机上に置かれたままであったということで、そのときに「なぜ注意してしまわせなかったのか」という疑問は浮かぶ。
これも一応は「受験票とともに受験生に郵送されてくる受験上の注意や、全体へのアナウンスのみにしないと公平性が保てない」ということになるからだろう。
常識的に対応してしまわせた人と、違う教室などで注意されなかったために机上に置かれたままになっていたため失格になる人が不公平にならないようにということなのだろう。
このときにも「ルールを守っていない方が悪い」という人はいた。これ自体が間違っているわけではないから、このような責めから防衛するには「ルールのもとに毅然と失格処分にしました」と言うのが一番対処が簡単なのだろう。

このような状況の末路はどこにあるのだろう。
体育で生徒が怪我をしたとき何らかの落ち度はそりゃ教員側にあるだろう。しかしそれで全否定されるなら「もう体育は教えません」となるだろうし、給食で喉につまらせて亡くなった子がいて、管理責任を問われるなら「もう給食は出しません」となるだろう。
組織や後輩を思ってのきちんとした指導をパワハラと言い張る人間がいて、しかもその指導を検証もなく悪と決めつけるのであれば、「もう後輩を指導しません」となる。
これらは全て無気力、無力感を伴った無責任、無関与だ。そこではまともに関わらないことが適応行動となるし、既になっている。
今回の不受理はこうした土壌の帰結なのだ。



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