スシローいたずら動画の少年に対する賠償額は道義的責任の重さではない

スシローで醤油さしを舐めたいたずら動画が拡散した問題で、スシロー側は少年を提訴。6700万円にものぼる賠償請求をしているとのことだ。
これに対して、「悪いことをすれば人生終わるんだ」「自分はざまあみろ派だ」「見せしめ効果がある」など様々な意見がある。
私の意見を簡潔に述べれば、この金額は実被害の賠償なのであって道義的な罪の重さとは異なるものだということだ。

いくつかの観点から考えてみたい。
もし動画が拡散されていない段階で、少年自ら醤油さしを舐めたことを「自白」したとして、それをスシロー側は公表しただろうか。本人がスシロー本社などに出向き、自分が映った動画を見せながら「実は僕、こんないたずらをしちゃったんです」とこっそり告白しにきたとして、スシロー側は「安全、衛生面でお客様を危険にさらした」とわざわざ公表しただろうか。あとでバレたら大変なことになるから公表するという可能性はあるが、やはりその後株価の大暴落を予見したとしたら、それでも「お客様を思って」公表したのだろうか。もし、しないのだとすれば、今回の被害の大きさの原因は動画が拡散したことにある。絵面が人々の感情に訴えかける側面は大きい。純粋な被害という側面からは、当該少年以上に外側のオープンな領域に拡散した仲間内の人間の方が大きな被害をもたらしていることになると思う。スシローも被害という側面からはそのように考えるのではないか。それが先程の思考実験になるわけだ。
別に少年が悪くないと言っているのではない。道徳的には一部著名人が言っているように「げんこつ」や「皿洗いなどの裏方を一定期間させる」あたりが妥当だと思う。ただしそれでも実被害は賠償させるべきだろう。
海外の一部の国では大企業が個人に多額の賠償請求をすることこそ社会から非難されるという。大企業は大概、「多様」なつまりは「おバカ」な人も含めた大衆社会に支えられているから、自分たちが倒れない範囲の損害は飲めという考えもアリだとは思う。しかし、実際の損害については純粋な被害者である以上、「損害を飲め」と他人が命令するのもおかしい。賠償請求する権利は当然ある。だがそれはあくまで実被害に対しての賠償にすぎず道徳的な悪さの度合いと等しくはない。交通死亡事故など人を死なせても何十億もとられるわけではない。そことのバランスはどうなのか。
もし「悪いことに相対的な重みなど存在しない」というのならば、この際すべての刑法犯罪は死刑にしたらどうだろう。この例えならそれがどれだけ恐ろしい社会なのか考えやすいだろう。自分事化できるからだ。
また見せしめの効果はあってもよいと思うが、それは今後そんなことをする人が出ないようにということであって少年本人の「人生終わってざまあみろ」というのは本気で言ってるのか。この発言をした有名YouTuberも拡散力による収益構造の恩恵にあずかっているのに、拡散力によって窮地に陥っている少年にもう少し優しい言葉があってもいいと感じた。繰り返しになるが今回は実被害が出た分を賠償しろということにすぎない。

また特定班なるネット上の人たちは捜査機関かなんかなのか。結局はメンタリストDaigoさんのときと同じように、叩かれている側が反撃できないのをいいことに人のプライバシーを晒している。お得意のいじめの構図で、本当に正義を指向するなら彼らもに刑事、民事で責任を取らせるべきだ。ぼったくりバーや振り込め詐欺犯に挑戦する動画でさえ、犯人側のプライバシーを守っている。このアンバランスをどう考えるのか。

悪いことをしたやつに厳しくする昨今の規範意識の変化は必ずしも悪いことではない。しかし想像力に乏しいとも感じる。
ここでもう一つの思考実験としては、自分の子供があのようないたずらをしてしまう可能性がないと言い切れるのか。被害の弁済と道義的責任の重さは別物だというのが私が繰り返している主張だが、これは裏を返せば例え五歳児であっても被害について親権者などがきちんと弁済しろという考えだ。この考え方は特に新しいものではない。自分たち家族にそんなことが降りかかる可能性は絶対にないと思っているのだろうか。そこで人生の長きにわたって自分の子供が重荷を背負うことを「ざまあみろ」と言われて「仕方ないですね」と親として言えるのかということだ。

結局ここまでコトが大きくなってしまったのは全世界に拡散できるツールをおバカな子供がもってしまっているということだ。自分のコントロールや自分が負える責任の範囲を越えるものを使えるがゆえにこんなことになっている。
何なら子供限定のSNS保険などがあるといいと思う。普通は保険というのは過失や自然に起こることに対して支払われるのであり、悪意によって引き起こされたものには支払われない。しかしここは子供に限定して、いたずらレベルであれば被害の賠償をしてくれるような形にしてみてはどうだろう。感情としては加害少年が後悔するほどの制裁が課されないのが問題だが、そのかわりきちんと弁済はされる。どちらを取るかだ。弁済なんかどうでもいいから加害少年の人生を追い詰めろという考えがいいのかどうかだ。

反発が多い意見かと思うが、弁済は弁済、道義的責任は道義的責任だ。その区別やコトの大小というのはあると思うがいかがだろうか。

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