境界知能という表現について

最近境界知能という言葉がネット上などで、人を揶揄したりレッテル貼りするのに使われたりしている。
このことについてAbema TVの討論番組で取り上げられた。
知的障害とはIQが70未満の人で、そこには入らないIQ70~85の人たちを境界知能と呼ぶ。これは病気ではないので「診断」はされないということは番組内でも繰り返されていた。

今回は番組ではあまり考えられていなかった観点も加えながらこの問題について考えてみたい。
まず一番問題となるのはこの表現がネット上などでは主に侮蔑的な意味で遣われることだろう。
これまでも「知的障害」「アスペルガー」「発達障害」などのワードが、話が通じないと思う相手に対して遣われることがあった。
ジャーナリストの佐々木俊尚さんは番組内で「ネットではなるべく相手を気分悪くさせる罵倒ワードを日々探している。そこに境界知能という言葉が出てきた」と言う。
このような言葉を遣う意図は佐々木さんの言う通りだろう。
精神科のワードはこの手のスティグマとして遣われやすい。それは精神というのが現実や物事の良し悪しを判断し、行動につなげる機能をもつから、自分の意見が理解されなかったりすれば、その相手を精神科的な問題として揶揄してやりたい気持ちに駆られるからだろう。
だが知能の問題というのは、あくまで「注意」「記憶」「言語理解」「知覚」「推論・判断」といった認知機能の問題にすぎない。
番組で最初に紹介されていた「特定の政党の支持者が境界知能」という例を考えてみる。
政治のように党派性を伴った価値判断や利権の分配といった問題においては認知機能そのものはそこまで問題なのだろうか。
党派性を伴うということはつまり「敵と味方」というのがいて、敵のことは攻撃したくなる。攻撃したいと思うとき、それが相手の純粋な認知能力のことなんてことはあるだろうか。そうではなく、異なる価値観や、間違いを認めない不誠実な態度とか自分の間違いを棚にあげて攻撃してくる人を攻撃したくなるものではないだろうか。あとは自分の利権を守るために公共性をスポイルする利己心にも我々は反感をもつ。
簡単に言えば、知能というよりは「性格」や「態度」を攻撃したくなるものだろう。
「微分とは平均変化率の極限である」ということがわからないというだけの人をわざわざ揶揄したり人格攻撃したりはしないだろう。そうではなくその程度のことも知らずに「偉そうに」経済学やら物理学を語っていたり知ったかぶりをするから攻撃したくなる。
では偉そうな態度やブーメランを食らうような不誠実な態度はどこから来るのかと言えば知能の問題というよりは、不安感をやり過ごしたり、自尊心の維持などを目的とした心理的な機能由来と言える。そのようなものを防衛機制という。要は自分が壊れないようにするためのものだ。

「特定の政党の支持者が境界知能」と言われることがあるのは、「支持者ではなく信者」などと揶揄されるように党首が言ったことややったことは全て拍手喝采するような態度がある。
これは「自分の味方になってくれる、守ってくれる力がある人が完璧な存在でなければ不安だ」という心理が根っこにある。理想化したりあるいは自分と同一化するというのもあるのかもしれない。
「ここは正しいけど、ここはさすがに違うよね」という是々非々の判断をするというのはあいまいで不安なのだ。
他にも「権力者は常に悪だ」というのも実は「投影」という心理的な機能だ。これは自分の中にある邪悪さや攻撃性が相手由来だと言い張るものだ。「反権力」を謳うエゴイストはしょっちゅう目にしているはずだ。しかも「やられる前にやってしまえ」という暴力的態度も特徴で、実はこれは投影というメカニズムに特徴的なのだ。

では人はそれぞれがどのような心理的機能をとりがちなのかは、一体どのように決まるのだろうか。
これは言うまでもなく非常に複雑だ。育ってきた環境、どんなことに不安をもつのか、安心や安全がどのぐらい担保されているのか、そしていくらかは知能の問題も影響する。自身の処理力を超える不安や脅威には心理的に引きこもって現実を見ないようにしたり、◯か✕かの二元論に陥ったりする。何らかのストレス状況で衝動的になったり不安や恐怖からパニックになったり攻撃的な態度となりやすくなるというのは知能と関係ありそうだ。
また知能にはそこまで関係しないかもしれないが不安が社会に広がると権威主義に陥ったり救世主を待望したりする。
また弱い立場への過度な肩入れや被害者意識も人を感情的にし、判断力を鈍らせる。
その意味でもいじめや差別はあってはならないと思うし、生活がままならないほどの貧困も同じ事態を引き起こす。動員されたり釣られたりしやすくなるのだ。
知能の問題だけでなく発達障害の問題でも周囲との軋轢が大きくなったりして過ごしにくくなれば自尊心の低下や抑うつ状態を引き起こしたりしてその結果、周囲に攻撃的になったりもするだろう。だからこそきちんと支援して社会につないでおくことは今回の文脈で言えば民主主義の適正化にも有効だ。

「信者」以外がどれだけ眉をひそめようとも、国会内で暴力を振るったり、「政府はみんなに現金を配ればみんなハッピー」などと言って、一定のターゲットを釣っているということであれば、判断能力がない人を扇動していることになる。民主主義を冒涜しているのは信者ましてや境界知能の人などではなく扇動者だ。どんな主張をすれば各種理由で判断能力が落ちた人をピンポイントで釣れるかを扇動者は考えている。主張・意見などというのは、ほとんどの人にとって理性などではなく、身体性によって決まっていることも「意見の身体性」という記事に書いた。だからこそ「このゾーンにはこの意見で釣れる」というのも大方わかるのだ。
不安や被害者意識が釣りに利用されやすいことからもわかるように「弱者に寄り添う」系は強固な基礎票を得やすく、社会不安が広がるほどその厚みも増す。
よって手当てすべきは知能などではなく、不安などに対する感情的安定なのだ。侮蔑的なワードでの信者叩きはあまり意味がない。


次に境界知能という言葉を作っておく意義についてだが、番組内でも触れられていたように、パッと見でわからないとなかなか支援してもらえないつらさがある。うつになりやすいという話も出たが、平均以上の人と同じ土俵で無理をして頑張らねばならないことで、うつにもなりやすい。
これは発達障害でも全く同じだ。いわゆるグレーゾーンこそ支援から漏れやすくはっきりとした発達障害よりも苦しむことも多い。
障害の認定には至らなくても、本人がつらさを感じているのであれば、受診をするなど対応できる機関に相談するのが良い。放置すればうつや不安感、衝動性、攻撃性などを生じさせることになる。そのような二次的な障害を予防する観点からもグレーゾーンを放置しないことが重要なのだ。

最後に司会の仁科健吾アナウンサーが、「相手が境界知能かもと思ったときの注意点は?」と質問して、カンニング竹山さんや佐々木さんから「それは不要なレッテル貼りだ」ときつくたしなめられる場面があったが、少々これは厳しいと感じた。
仁科アナは相手を傷つけないようにしたいという想いで専門家の先生に質問したわけで、あのように厳しく言われると「危なっかしい問題には触らないでおこう」というように萎縮させることになりかねない。
それに竹山さんの「境界知能の人も全く何も変わらないんだから」というのも違うと思う。IQの数値は能力を示すわけだから少なくとも特性や個性はあるのであり、違いがあるということを踏まえて注意点を理解しておきたいというのをあんなにきつく言う必要はなかったと思う。「人として互いにフラットに接すればいいんじゃない?」と優しく言えば済む話だ。
仁科アナは本当に竹山さんや佐々木さんが言うことを正しく理解しただろうか。あのようなやり取りがあると、「とりあえず困ってると言ってくるまでは予断をもって接すると差別的だとか怒られるから気を付けよう」というように本質的でない形で安直な対処法や触れないでおくことで保身を図るということばかりが横行しかねない。実際今の世の中そんなことだらけではないか。
腫れ物化することにならないように竹山さんたちこそあまり面倒なことを言わないように注意した方がいいのにと私は感じた。


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