ダイエット日記 最終回

最近共に生活を始めたその男は、私の長い稼働歴の中でも大層珍妙なタイプの主人だった。このご時世に、自分で食材を入手し、調理し、食す。傍で案山子と化す私には、時たま
「この野菜、まだ食えるか」
「現時点での栄養のバランスはどうだ」
等の言葉を投げるだけで、配送センタとの連携で数万種類のレシピを実践可能な"本機"の活用法としてはお粗末極まりない。それでも幾度も調理の申し出を邪険にされていた事を思えば細やかな勝利と言える。

勝利と言えば、更に風変わりな行為として、男は一日の食事を終えると採点を依頼した。
「今日のあすけん健康度は、86点です。栄養バランスを見ると……」
講評を聞き終えると小さく鼻を鳴らし、俺の勝ちだ、と暗い笑みを浮かべる。勝ち負けのラインは85点らしい。酒も飲まず煙草もせず、単調に勝ちを重ねる日々。私が作った方が、同じ素材からもっと高得点でもっと細かな栄養素までカバーできるのだけれど、それは私たちの間の公然の秘密だった。

そして、一体どれだけの勝ちを積み上げた末だったろうか。

重い足取りで運んできた買い物袋を上り框に置くと、中から鮮やかな色のトマトが零れ落ちる。表面には小さな滴が多数形成されていて、気温がまだ然程高くない中で、購入してからの経過時間が演算回路ではじき出される。
「今夜は素麺と蒸し野菜を食べるつもりだが」
「タンパク質が不足気味ですね。飽和脂肪酸は摂り過ぎるのはよく割りませんが、日々の健康には欠かせないものです。良質な脂を適量に取る為には……」
「分かった分かった。もういい」
主人は溜息をついて、冷凍庫から作り置きのハンバーグを取り出した。タンパク質不足は必ずこれで補うのだ。
「どうだ、満足か」
「カロリーが不足気味です。運動消費カロリーも目標値に届いていません。適度な運動を心がけましょう」
男は鼻を鳴らし、更に冷蔵庫に手製の補助食を探す。姿を見せた瓶詰めの蜂蜜漬けは、彼の手を嫌って床に滑り落ち、鈍い音を立てた。
見つめる私を手で払う仕草をして、男は気だるげに瓶の中身を見つめ、溜息をついてからそれを冷蔵庫に戻した。その後、日課の散歩には出たようだったが、結局夜の採点は81点だった。

彼の活動と比例するようにして、彼の健康度は徐々に、徐々に、低下していった。いつの間にか食料の一部は宅配で届くようになり、そこには彼が嫌うカロリーを保つためのサプリメントも含まれていた。新しいサプリは勝利をもたらしたが、その顔には以前のような不敵な笑みはなく、やがて食事の半分が錠剤になった辺りから健康度は80点を超えることはなくなった。相変わらず不機嫌そうに鼻を鳴らし、男はまた食材の調理に戻ることにした。ただし一つだけ条件付きで。
「ネットの注文だと食材の状態が分からなくて叶わん。リストを渡すから、買い出しを頼む」

彼は黒星と食事を重ねていく。体重がどんどん落ちていく中、気まぐれで設定されていたであろう減量ラインを越えたので伝えた。陰気な目で、嫌味か、などと尋ねてきたので、生憎そのような機能は搭載されていないと返答すると、彼は肩をすくめるような動きをして寝室へ去った。私は事前の指示に従い買い物に向かった。

帰宅すると、電気も何もついていない闇の中で、彼が包丁を持っていた。刃先はだらりと下を向き、窓の外を通り過ぎる車の明りを反射している。もう、調理器具一つとして持ち上げる力は彼には残っていなかった。包丁を取ろうとすると、どれだけそうしていたのか、握り締めて白くなった指が絡みつく。細く小さいそれを、白魚を扱うようにして外すと、もう彼は抵抗をしなかった。最も手出しを禁止されても、今日以降の私はそれを無視することが出来た。

再び明かりがともったリビングで、夕餉の支度が進む。食べられるメニューはもう殆どないと推測されたけれど、その中で少しでもバランスの良い、そしてきっと彼が好んだであろう料理を選んで調理をしていく。大人しく席に着いた彼の口元に、一匙ずつ半固形物を運んでいくと、吸い込んで咽てしまう。背をさすりながら、落ち着くのを待って、今度は量を減らして一口。何とか嚥下した彼は、意外そうにつぶやいた。
「こんなに美味かったのか」
心外である。本来の機能は調理による栄養管理だ。
「最後に使えてよかった。折角ある機能だし」
項垂れた彼は、ふと私の顔を見上げた。目が合ったのはきっとこれが初めてだった。
「へえ。そんな機能もあるんだな」
そして、男は長い戦いを小さな白星で締めくくった。

「おはようございます。今が旬のアジは風味豊かでおいしいですよ。昨日は食事をとられませんでしたね。当機の機能に障害が生じている場合は、お手数ですがカスタマーセンターにご一報ください」

私はいつも通りに定常音声を再生する。そして応答がないのを確認して待機状態へ。変わりのない穏やかな生活が、もうしばらく続いていく事だろう。

(了)

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