「不実な美女か貞淑な醜女か」で通訳の凄みを知る
評判のよい本として時々見掛けていたのだが,「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」というタイトルを文字通りに受け取り,全く興味を示さずにいた.ところが先日,「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(米原万里,角川書店,2004)を読んで,その面白さに惹かれたので,タイトルは好かないまま,米原氏の本書「不実な美女か貞淑な醜女か」も読んでみることにした.そういう意味では,大江健三郎氏が「わが読売文学賞の歴史において最悪のタイトル」と称したのも頷ける.
不実な美女か貞淑な醜女か
米原万里,新潮社,1997
ちなみに,優れた日ロ同時通訳者である米原氏が「不実な美女か貞淑な醜女か」で意図したのは,美しいが原文と掛け離れた通訳(不実な美女)か,原文には忠実だが聞くに堪えない通訳(貞淑な醜女)かの二者択一だ.もちろん,通訳者としては貞淑な美女を追求するわけだが,逐語訳的な原文への忠実さを追い求めれば,簡潔で美しい通訳には成り得ない.一方,原文に忠実でなければ簡潔さも美しさも無意味になる.その狭間で米原氏は,発言者が伝えたいことの核心を掴み取り,余分なところはバッサリと切り落とすことを潔しとする.不要と判断した言葉は敢えて訳さないという大胆な態度だが,コミュニケーションを成立させるのが通訳者の責務と割り切る.それでこそ,顧客から信頼される通訳者に成り得たのだろう.
私も国際会議で何度か同時通訳のお世話になったことがある.講演前の打ち合わせで,専門用語や講演内容についての通訳者の疑問に答えたりするのだが,全く専門外の講演を同時通訳するなどというのは神業としか思えない.本書には,そんな同時通訳者の実態が面白可笑しく描かれている.いや,本当に面白く書かれているのだが,通訳者の苦悩や苛立ちがヒシヒシと伝わってくる.
本書「不実な美女か貞淑な醜女か」の前半では,通訳と翻訳の違いを指摘しつつ,通訳者の実態が語られる.そして後半,日本語と外国語,語学教育,民族のアイデンティティなどについて,米原氏の持論が炸裂する.厳しい意見を発しつつも,ユーモア溢れる文章になっているのは,流石だ.
日本語とロシア語を職業として使いこなす同時通訳者の立場から,言葉を操る能力について,こう断じている.
私どもにとっての母語,つまり生まれてこのかた最初に身につけた言語,心情を吐露しモノを考えるときに意識的無意識的に駆使する,支配的で基本的な言語というのは日本語である.第二言語すなわち最初に身につけた言語の次に身につける言語,多くの場合外国語は,この第一言語よりも,決して決して上手くはならない.単刀直入に申すならば,日本語が下手な人は,外国語を身につけられるけれども,その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない.コトバを駆使するという能力というものは,何語であれ,根本のところで同じなのだろう.
ここ日本には,英語を身に付けなければならないという恐怖感に取り憑かれている人が多いが,もっと日本語の能力を高めることに関心を寄せるべきではないのか.外山滋比古氏の「日本語の論理」からの引用がある.
幼児にはまず三つ児の魂(個性的基本)をつくるのが最重要である.これはなるべく私的な言語がよい.標準語より方言がよい.方言より母親の愛語がよい.ここで外国語が混入するのはもっともまずいことと思われる.(中略)方言,標準語,外国語が三つ巴になって幼児の頭を混乱させるからである.(中略)家族づれで外国生活をしてきた家庭の子供にしばしば思考力の不安定なものが見受けられるのは,幼児の外国語教育がもし徹底して行なわれると,どういうことになるかというひとつの警告とうけとるべきであろう.
グローバル化という言葉が溢れ,国際人などという怪しげなものが持て囃され,日本語よりも英語で子供を教育しようとするような風潮があるが,米原氏はこう言い放つ.
自分の国を持たないで,自分の言語を持たないで,国際などあり得るか.
どんなに英語が上手くとも,自国を知らず,自国語を知らない人間は,それこそ国際的に見て,軽蔑の対象であって,尊敬の対象にはなり得ない.
全くその通りだと思う.日本に閉じ籠もっている人には,それが分かりにくいのだろう.外国人と付き合うと,日本語,日本という国,その文化や歴史を強く意識するようになる.日本人とは何者なのかと.
その上で米原氏は,自身がプラハのソビエト学校と日本の公立学校の双方で学んだ経験から,いかに日本で日本語教育が疎かにされているかを指摘している.
日本の区立の小学校に通っていた私は,彼らにとっての母語に当たるロシア語の授業と,日本の学校での「国語」の教え方とのあまりの違いに驚いた.
まず,アルファベットを習い覚えた入学半年目で,ロシア語の授業は文学と文法にハッキリ分けられ,三年までは,一週間二十四コマのうち半分を占める.四年五年で三十コマ中十〜十二,すなわち三分の一以上,六年以降は四分の一以上を占める配分になっている.
文学の授業は,次の四点を特徴とする.
その一.子供用にダイジェストされたり,リライトされていない文豪たちの実作品の多読.学校付属図書館の司書が,学童が借りた本を返す都度,読み終えた本の感想ではなく,内容を尋ねる.本を読んでいない人にも,その内容を分かりやすく伝える訓練を,こうして行う.そのうえで,もちろん感想も聞かれる.
その二.古典的名作と評価されている詩作品や散文エッセーの主なものの暗唱.低学年では,週二篇ほどの割合で大量の詩作品を暗記させられていく.
その三.小学校三年までは日本で過ごした私の経験では,国語の時間,「では何々君読んでください」と先生に言われて,間違いなく読めたら,それでおしまい,座ってよろしいだったのが,ソ連式授業では,まずきれいに読みおえたら,その今読んだ内容をかいつまんで話せと要求される.一段落か二段落読ませられると,その都度,要旨を述べない限り座らせてもらえない.(中略)
その四.作文の授業は,主題を決めると,そのテーマに関する名作を数篇まず教師が読んで聞かせる.例えば「友人について」という題で作文を書く場合は,ツルゲーニェフの「アーシャ」のアーシャや,トルストイの「戦争と平和」のナターシャ・ロストーワという女主人公の描写の場面の抜き書きを読ませた上で,そのコンテを書かせる.(中略)
実は,ロシア語の授業に限らず,歴史も地理も数学も生物も物理も化学も○×式のテストは一切なく,すべて,口頭試問か,小論文形式の知識の試し方であったから,プレゼンテーション能力を要求するものであり,結局ロシア語による表現力を鍛えるものであった.
このようなロシア語教育に対して,日本における日本語教育はどうか.
中学二年の三学期に日本に帰国し,近所の区立中学校に編入した私は,高校受験用として覚えさせられる文学史に載るような作品を,ほとんど同級生の誰もが読んでもいないことにショックを受け,作文の際,点(,)の打ち方について教師に尋ねて,納得のできる答を得られず驚き呆れ,国語のテストで,「右の文章を読んで得た感想を,左のア〜オのなかから選べ」と求められたのにぶったまげた.
我々が経験してきたことだ.そして恐らく,今の小中学生も経験していることだろう.とてもじゃないが,日本語を大切にしているとは思えない.その証拠に,小学校でも英語を教えることになった.日本語も中途半端なのに?と疑問を抱いている人も多いだろう.それが自然な感覚だと思う.その結果はかなり容易に想像できる.それは,日本語も英語もできない似非国際人の量産だ.おまけに教養もないときたら,国際社会で馬鹿にされるだけだろう.
米原氏の指摘は,民族のアイデンティティにも及ぶ.そして,それが通訳の存在価値へと繋がる.
(二度の大戦を通して)名前を広く知られていないような,どんな小さな国の人も自らの母語で,一番自由に駆使できる,一番分かりやすい,一番伝えやすい,その母語で発言する権利があるのだということを,この民族自決権の思想とともに,いや正確には民族自決権を裏づけるための不可欠の要素として,人々は認めるようになった.どの民族も平等であるという思想が背景にある.
言葉は,民族性と文化の担い手なのである.その民族が,その民族であるところの,個性的基盤=アイデンティティの拠り所なのである.だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言する機会を与えることが大切になってくるのだ.それを支えて可能にするのが通訳という仕事,通訳という職業の存在価値でもある.
随所に笑いと下ネタを挿入しながら,通訳者の生態を生き生きと描き出し,言葉や文化,民族にまで鋭い指摘が及ぶのは流石だ.今後,通訳者のお世話になる機会があるとしたら,決して次のようには思われないようにしたい.
もっとも今でも,往生際の悪い私は時おり通訳しながら,「ああ,何でこんなアホで恥知らずなことを私の耳使って聞き取り,口使って言わなきゃならないんだろう」と心のなかでつぶやいていたりする.
© 2010 Manabu KANO.