【ふしぎ旅】妙法の石
新潟県長岡市(和島村)につたわる話である
妙法寺は徳治元年(1306)に日昭上人を開祖として風間信濃守信昭公によって開創され北越弘経の総本山とされている。
日昭上人は、日蓮聖人の直弟子であるが、妙法寺が出来たのは日蓮の死後なので、直接関わったとはされていない。
あくまでも風間氏が鎌倉時代に日昭上人により教化され、それが縁で、自分の領土である地に寺を創設し、それから現在の地に移したとされている。
日蓮が訪れるとしたら、諸国行脚ではなく、佐渡に流刑になる前後であろう。
自分の治める地であるところより、宗祖が流刑にとなるのであるのだから、見送る風間氏としても、思うところがあったであろう。
その思いが、後に妙法寺が建てられることにつながったかもしれない。
妙法寺は、現在もあり、長岡市の有形文化財である、赤門、黒門をはじめ、趣がある寺社である。
日蓮宗の北陸本山であったり、また里山のハイキングコースの中にあることから、参拝や訪れる人は多い。
境内の案内もしっかりして、清掃も行き届いており、きちんと管理されているということが分かる。
さて、妙法の石であるが、そこまでシッカリした寺社であるが、寺のHPにも境内にもその案内はない。
似たような話は無いかと調べてみるが、”妙法石”あるいは ”題目石”と呼ばれる話は、大抵が、”南無妙法蓮華経”の七文字が石に刻まれている。という話で、伝説としても文字が浮かび上がる、あるいはお題目を唱える声が聞こえるというものが多い。
妙法寺から、それほど遠くない日蓮宗角田山妙光寺にも、岩の題目の話が残るが、これも岩に題目が刻まれたという話である。
しかし、そのような石も境内には無い。
なぜ、大石を空中にあげる法力を持つほどの優れた山伏を、石の下敷きにしなければ成らなかったのか。
一見、日蓮聖人の有難さを説いているようでいて、対立する相手を殺す残酷さ。
そして、つぶされた山伏を見て、それでも「有難い」とする村人の残酷さ。
山伏は罪人ではない。
術比べを要求したのは村人である。
にも関わらず、山伏は命を落としているのだ。
その残酷さを基として、救いを求めることに、うすら怖くすらあるのは、私が現代人だろうか。
いや、宗教とはそのようなものであるのだろう。
そうでなければ、宗教間の争いが起きるわけもないのだ。
人間そのものが残酷であり、惨たらしいものであるが、それ故にその残酷さの中に救いを求めてしまうのも、また人間なのだろうと哲学じみたことを考えさせる伝説である。
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