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答責性はどこにあるのか。コミュニケーション不在の今。

 説明責任、答責性が求められる時代だ。やっかいなことではない。要はコミュニケーションである。一方通行の説教ではなく、傾聴も含めた人間的な交流が必要だ。分断の超克には、コミュニケーションを通じて社会的合理性を構築していく地道な取り組みが必要なのである。

 今、東京五輪・パラリンピックの開催をめぐって政府、専門家、国民の中に分断が生じている。国民の間では「開催する」50%、「中止する」48%で世論が二分されている(読売新聞、6月6日)。

 無論、五輪・パラリンピックに限らず、多様な意見があるのはよいことである。多様性があることと分断は同義ではないのだ。しかし、多様な意見が暴力的になり、誹謗中傷が飛びかう状況は分断と言えよう。誰も幸せにはならない。

 とりわけ今の状況は、東京五輪・パラリンピックを開催しなかった場合の賠償責任問題と、開催した場合のCOVID-19感染拡大リスク、責任問題の両方が存在する厳しいものだ。国際オリンピック委員会のバッハ会長は5月22日、“We have to make some sacrifices to make this possible.”(五輪実現のために、私たちはいくらかの犠牲を払わなければならない)と発言した。これが波紋を呼び、命を犠牲にするのかと攻撃が始まった。このweは誰か。犠牲の内容は何か。最も犠牲を強いられるのは誰か。その場で質問できる記者がいれば、これほどの反発はでなかっただろう。

 どの立場に自分があるのか、どのような人たちに共感しているのか。一個人の中に複数の立場と多様な人への共感が混在しているならば、なおさら苦慮することになる。このような状況下で、どのような対応があるのか。法哲学者の井上達夫・東京大名誉教授は、答責性が日本政府のみならず国際オリンピック委員会に、そしてすべての人にもあるとし、互いに批判し合いながら変わってゆく寛容さの重要性を指摘している(朝日新聞、5月27日)。

 答責性とは、アカウンタビリティ、すなわち、説明責任も含みこんだ責任だ。一国のリーダーは、国民に対しての責任がある。有権者が問責する際に答責する責任があるのだ。同じ回答を繰り返し、中身がない応答であれば説明責任を果たしているとは言い難い。

 武力衝突、クーデーター、紛争、戦争、テロ、自然災害、気候変動、公害、原発事故、感染症。世の中には危険が溢れている。それらは、人間、自然、科学技術によってもたらされる。社会にある多種多様な声、相反する考え方を調整して、リーダーはさまざまな決定をしなければならない。そして、その決定に際しての説明責任がある。

 環境や人に重大な悪影響が生じる危険性がある場合は、科学的証拠が不十分であっても対策をとるべきという予防原則がある。しかし、そもそも危険を経済学的なコストに還元してしまう予防原則の思想こそ批判するべきではないかという考えもある(ジャン=ピエール・デュピュイ『ありえないことが現実になるとき 賢明な破局論にむけて』)。しかも、予防原則は、リスクはコントロールできるという楽観主義がある。その認識を捨て去り、破局論を直視することが第一とデュピュイはいう。

 目的と手段とが取り違えられ、社会の大きな制度や力が市民を苦しめる。答責性はどこにあるのか。説明責任、答責性が求められる時代だ。やっかいなことではない。要はコミュニケーションである。一方通行の説教ではなく、傾聴も含めた人間的な交流が必要だ。今、分断の超克には、コミュニケーションを通じて社会的合理性を構築していく地道な取り組みが必要なのである。

本稿は、以下をもとに加筆修正しました。
稲場圭信(2021)「時事評論:目的と手段の取り違えの危険 必要なコミュニケーション」『中外日報』、2021年6月11日


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