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僕たちのお気持ちはどこまで表明してよいか問題!

怖いよ~!!表現するのが怖いよ~!!
Twitterでふと目にした話題に触れていいのか分かんないよ~!!!
なんでも「お気持ち」としてネガティブに捉えられ得るこの世界。
僕たちは自分の気持ちをどう伝えるべきなのか、今一度考えたいと思います。
最近、自分の気持ちに価値を感じなくなり、ほとんどつぶやけなくなったチキンな私がお送りいたします。

とかく現代は触れにくい話題が多すぎる!

「政治・宗教・野球は避けよ」なんてもう古い!
AI生成イラストにワクチン・マスク周り! 賛否の分かれるゲームや動画配信者!
「怖……近寄らんとこ……」って話題は多いのに、こういう荒れネタに限ってトレンド入りしがち。大勢の人が荒れの坩堝に首を突っ込む、そんな世紀末ネット社会と化しているのです!
これだけ多様な話題があると、何か一言言いたくなるのが人間というもの。

例えばAI生成イラストが普及して以来、「何かツイート変わっちまったな……」という絵師さんが複数人思い浮かぶくらいです。あまりに数多く見かけると「ちょっと鬱陶しい……」ってなる。
一方で、お気持ち表明ってそこまで悪か? とも思うのです。AIが不愉快だーと言うのも「気持ちは分かるしなあ……」ってなる。

だけど、ネガティブポジティブを問わず、自分の気持ちを表現するのって、本来は尊ぶべき行為だったはず。
でも、ほんのちょっと書き方が悪いだけで、一気に不快になり得るのも事実。noteもtwitterもどんな内容でも"お気持ち"になる危うさがある。そんなわけで、お気持ちの何が良くて何が悪いかを再検討したくなったのです。

お気持ちが悪になる理由

対話ができない

例えば、「うちの夫が本当に無能でつらたん」的な愚痴を見たとして。「それは夫に直接相談すればいいんじゃないか?」と思うものの、その人からすればツッコミなんていらなくて、同意しか求められていなさそうとか。

「AIイラストはコラージュしてるだけなのに偉そうにして……」というのを見て、「ちょっと事実と違うはずだけど、お互いに議論したい訳じゃないはずだしなあ……」と、スルー安定になるとか。

ネガティブな発言でなくとも、「◯◯健康法試してみて。すごい調子よくなったの」というのを見たら、仮に科学的に正しくても、何かちょっと嫌だ。

そこに読者の自由が存在していないからだと思うのです。
「私は言いたいことを言いました。でもあなたの自由な意見は求めていません」
という不平等が事実上、生じてしまっているのではないでしょうか。
対話できないもやもやを解消するために新たなお気持ちが生まれ、その発言も他の人からするとやっぱり反応しづらくて。そうやって荒れの坩堝が形成されるのでした。嗚呼。

思考のリソースと自由を奪う

嘘と大げさと紛らわしいが入り交じるインターネット社会。例えば、「私、ひどい目にあったの! あの人が悪いのよ!」とか「△△業界がヤバい!近づかないようにしような!」みたいなやつ。情報量が少ない割に、妙に主張が強いタイプ。

「これ、本当に正しいこと言ってるの?」とか、「発言者側に有利な情報だけ切り取ってるんじゃないの?」とか、色んなことが頭をよぎりますが、真実は分からないものです。だけど言葉が強くて頭の片隅に残って、「実際のとこどうなんだろうな…」と、思考のリソース消費を強制されている感じ。

例えば、出典とともに「◯◯健康法のメリット・デメリット」といった形でコンパクトにまとまっていれば、読者に選択権を与えてくれていて、嫌な感じがだいぶ薄れるかと。

お気持ちをお気持ちにしないために

読者を意識するに尽きる

意見を求めないお気持ちだとか、判断材料が少ないのに同意を求めているだとか。要するに、読者の立場が意識されていないから問題なのではないかと。

読んでもらう人に同意や判断を求めるなら、それ相応にまとめて情報を示すとか。トラブルがあったなら愚痴ではなく、相談という形で意見を募るとか、あくまで読者のために注意喚起するとか。

創作においても大事なやつ

見てくれる人の立場で見るのって、大抵の創作系で最初に意識するようなやつでもありますよね。
例えば自分、いわゆる難解な高尚な作品よりも、エンタメ性に優れた作品の方が好きです。なんなら、エンタメ系のが高尚では? と思ったりするくらい。それは読者を強く意識して、楽しんでもらおうという一種の思いやりを感じるからなんです。

別に読者を意識しなくてもいいぜ

だけど、エンタメ系以外を認めない世界にしたくなーい!!!
誰にも理解されなくていいぞってノリで、作者のエゴを書き殴った作品を味わいたい時もあるー!!!
現状の不満書きなぐって出来た絵画や小説や音楽ジャンルがいーっぱいある! 別に読者を意識しなくたって、世界のどこかにはそのお気持ちがあって喜ぶ人がどっかにいるはずなのです!

もちろん、読者を意識しないほど、同意を得られにくかったり、内容によっては距離を取られたりすることもあるでしょう。
そんなわけでハイリスクなのは確かなのですが、読者を意識するあまり何にも表現できなくなるよりは、ある程度割り切っちゃう方が健康的でいられそうな気がします。

特別コーナー:読者を全然意識しないお気持ちエッセイ実践編

ということで、ここまで読んでくださった方のために、実際にお気持ちを書きなぐった事例を用意しましたよ。やったね。
お気持ちといっても、あんまりネガティブでないエピソードです。

エッセイってつまんねえ~! って思っていたんです。
事の発端はpixivFANBOX。私の場合、好きなゲーム制作者さん(健全なやつ)を支援しています。開発の進捗と共に、日々思ったことを書いた記事が読めるのです。
興味のある人の書いた、日々の雑感が読める。
つまんなかった。びっくりするくらいにつまんなかった。
そして絶望した。作者さんじゃなくて、楽しめない自分に絶望した。

エッセイって、人生の選りすぐりエピソードでもなければ、普通はヤマもオチも無いんですよね。月に何回も書かれる日常話がストーリー的に洗練されているわけがない。身も蓋もないことを言うと、そもそもエッセイって読み物というより、単に書き手への興味が強くて、その人をもっと知りたいっていう動機が滅茶苦茶大きいと思うんです。書店でもエッセイストの本ではなく、著名人や最近話題のあの人が思ったこと、みたいなのがよっぽど多く並んでいるではありませんか。そういうことです。

なのに、わりと興味のあるはずの人の雑感が思いのほか楽しめなくて、結構落ち込んだのです。なぜなら、「自分の書くお気持ちも同様につまんないんだろうな……」という思考に陥ったからです。ましてや自分なんて無名も無名。知らない人の考えた戯言に何の価値があるんだ!!

そうは言いつつも、自分、それなりにツラツラと考えを巡らせるタイプの人間です。どこかにまとめておきたいなと思うこと、ちょいちょいあるのです。そこに需要は無いだろうけど、自分が後から見返すという点で、価値ある行為だと思ったのです。

きっと他の人から見るとつまんないかもしれないし、そもそも誰からも読まれない可能性だって結構ある。それでも、たとえ文章に価値が無くても、僕のお気持ちそのものにはきっと何かの価値がある。

それが、noteを始めるきっかけでした。
お気持ちに過ぎないよな~って思いながらも、考えたことを自分のためにまとめました。きっと誰にも読まれないか、2人くらいに読まれれば良い方かなー、なんて思っていました。

そうしたら思いの外、"スキ"をいただいてしまいましたとさ。今回、この記事を書いたのはこれがきっかけだったりしたのです。
自分では価値が無さそうなお気持ちに過ぎなくても、実はそんなに悪いものではないのかなと、考えを改めることになったのでした。
ありがとうね!

結論:お気持ちはそんなに悪じゃない

基本的には読み手のことを意識して物事を伝えよう!
でも、考えすぎて身動きが取れなくなるくらいなら、たまにはえいやっとお気持ちをお出ししてもよいかもね! ということで。

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